漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「アムネジア」 稲生平太郎著 角川書店刊

を読む。

 稲生平太郎は、英文学者の横山茂雄さんが小説を書くときに使う筆名である。また、バラードの「残虐行為展覧会」を翻訳した際には、法水金太郎の筆名を使ったこともある。作家としては非常に寡作で、これまでに長編が二つあるだけである。これは、そのうちの一つ。ちなみに、もうひとつは「アクアリウムの夜」という作品だが、ぼくはまだ読んだことがない。
 「アムネジア」のあらすじは、以下のようなもの。

 大阪の小さな出版社に務める主人公は、新聞の片隅に乗っていた、ちいさな記事が心から離れなくなってしまう。それは、ひとりの老人が路上で死んだというだけの記事である。ただひとつ、不思議なことは、その老人は、戸籍上はもうずっと以前に死んでいたという事実だった。なぜかその事件が気になり、調べはじめた主人公は、小さな新聞社の記者と知り合う。そして、死んだ老人は怪しげな発明家であり、それが闇金融の世界、さらには第二次大戦の地下金融とつながっていたということを知る。だがそうして事件を追っているうちに、主人公自身の存在が揺らいでゆく……
 
 わかりやすい小説ではない。一度読んだだけだと、「あれ、何か大切なことを読み飛ばしてしまったのかもしれない」と不安になる。だからといって、再読したからといって、きちんと理解できるわけでもなさそうだ。
 わかるのは、永久機関を発明しようとする者たちと、金融の世界に蠢く一攫千金を狙う人々が、どちらも実はある意味でオカルト的な狂信によって突き動かされているという点で接点があるということ。主人公が、作中の数人の人物とある意味で存在を共有しているらしいということ。その程度である。あと、しいて言えば、作中に登場する奇妙な記号が、もしかしたら「本」という漢字なんじゃないかなと思ったということか。そのあたりから、何らかの説明はできそうな気もするが、正解を探す物語でもないだろうから、それもひとつの解釈にしかならないに違いない
 


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 この前の日曜日、妻と「田浦梅の里」へ出かけた。
 もう随分と前、十年以上も前になるだろうか、一度家族で出かけたことがあって、だから今回は久々の再訪である。
 京急田浦で電車を降りて、国道沿いに延々と歩く。
 JRの高架を超えたあたりで道を折れ、山へと向かう。
 細く、急な道を登ってゆく。
 眺めが次第に良くなってゆく。振り返ると、横須賀の海が見渡せるようになる。
 梅の木のアーチをくぐりながら、急な山道を、さらに山頂へと向かう。
 山頂からは、梅の彼方に、広がる海の光景を見ることができる。この光景が、「田浦梅の里」のウリである。
 この日は、残念ながら梅はまだもうひとつ咲ききっていなくて、花というより、木の枝の向こうに海が見えるといった感じだったが、それでも暖かくて風もほとんどない日だから、とても心地よかった。山頂で、梅の枝の向こうの海を見ながら、妻と並んで、ビールを飲み、弁当を食べた。凧揚げをしている子どもたちが、たくさんいた。
 この梅の里には、フィールドアスレチックがある。
 昔は、娘が喜んでやっていたが、十数年ぶりの再訪で見たアスレチックは、まだあるものの、記憶の中の設備とは随分と変わってしまっていた。すべて、取り替えてしまったようだ。カラフルでスマートで、安全性は増したかもしれないが、あまり面白くなさそうである。もっとも、遊んでいる子どもたちはそれなりに楽しそうだから、余計な感想かもしれないが。
 帰りは、横須賀中央まで歩いた。軍関係者で賑わうドブ板通りをそぞろ歩き、三笠公園に寄って、一休み。米軍施設を目の前にした三笠公園は随分と皮肉な場所だなと、何度来ても思う。なまじ日露戦争にたまたま勝ってしまったから、おかしなことになってしまったのかもしれないね、と妻と話す。そろそろ寒くなり始めていたが、ぼくはここで暮れはじめた海を眺めながら、もう一本ビールを飲んだ。妻は甘いお菓子を食べていた。目の前でたった一羽だけ水鳥が、何度も海に潜ることを繰り返していた。

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「天界の眼: 切れ者キューゲルの冒険」 ジャック・ヴァンス 著  中村融 訳
ジャック・ヴァンス・トレジャリー 国書刊行会刊

を読む。

 「通好み」の作家として、一部に熱狂的なファンのいるヴァンス。かなり高い評価を受けている作家にも、ヴァンスファンであることを公言している人は多い。ぼくはこれまで二作ほど読んできたが、もちろん面白いとは思ったものの、正直言って、なぜそれほど人気が高いのか、よくわからなかった。けれども、この一冊を読んで、ようやく合点がいった。ヴァンスの想像力は軽やかで、こちらの斜め上をゆく。
 最初にタイトルを見たとき、「切れ者」という訳語を採用した意味がよくわからなかった。昔の翻訳ならいざ知らず、いまの時代に「切れ者」という、普段まず使わないような訳語をなぜ使うのだろう?けれども、読んで納得した。確かにキューゲルは、いろんな意味で、振り切れてる。思わず、「うわぁ……最低」と呟きたくなるような人物だ。無責任だし、自分勝手だし、セコいし、思慮が足りないし、厚顔無恥である。基本的に運には見放されてるが、悪運だけは強い。欲望に忠実で、自分のちっぽけな欲望のためにさえ、人が何人死のうが、女を裏切ろうが、なんの恥じることもない。普通のヒロイックファンタジーのヒーローには、あるまじき倫理観である。例えるなら、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウは比較的近いかもしれないが、もう少しダメである。到底、お近づきにはなりたくない。「切れ者」というのは、褒め言葉というより、むしろ悪口なのである。
 物語の基本的な枠組みは単純である。
 キューゲルが〈笑う魔術師〉イウカウヌの宝物を盗みだそうとしたところ、あっさりと見つかってしまい、その罪を許すかわりに、ある宝物を持って来いと命令される。そして〈笑う魔術師〉イウカウヌの魔法によって、はるか彼方の、その宝物があるはずの場所へと飛ばされてしまう。なんとか宝物は手に入れるものの、大変なのはここからである。その場所から、〈笑う魔術師〉イウカウヌのもとへと帰らなくてはならない。イウカウウヌへの復讐(まあ逆恨みなんだけど)を誓い、波乱万丈の旅をする……といったもの。
 連作短編集なのだが、まあ、長編といっていい。この物語のすごいのは、最終話の「ありえなさ」である。まさかこんな終わり方をするとは、想像もしていなかった。力が抜けるというか、ヒロイックファンジーの定石を、ことごとく裏切る展開である。作中に登場するガジェットももちろん素敵だが、きっとこのあたりが、ヴァンスファンにはたまらないんだろう。

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「星空のむこうの国」 小林弘利著
集英社文庫コバルトシリーズ 集英社刊

を読む。再読。

 先日、近所の古書店の均一棚を見ていたら、この本を見つけた。刊行された時(1984年)になんとなく新刊で買って読み、今では内容はまったく覚えていないものの、結構面白かったような記憶があったが、今はもう手元にはない。ちょうどセール中ということで、懐かしくもあったし、近くにあった「里沙の日記」(眉村卓著 集英社コバルトシリーズ)と一緒に、二冊百円で買ってきた。
 夜になって、ちょっとタイトルで検索してみたところ、なんとamazonで2343円からという値がついている。内容を全く覚えてはいないとはいえ、そんなプレミアのつくような内容だったとは考えにくい。試しに同じ著者の他の作品を見てみると、ほとんどが1円からということだから、これだけが飛び抜けて高いわけである。疑問に思い、もう少し調べてみて、理由が判明した。いまだにまだヒットを続けているアニメ映画「君の名は。」。その元ネタとして、一部の人びとの間で、「転校生」と並んでこの作品を原作とした映画が挙げられているようなのだ。それで、映画のDVDはもとより(なんと15,800円より)、この原作も値を上げているということらしい。ということは、まあ、ちょっと儲けたわけなのだろうが、驚いた。
 今のコバルト文庫というのは、もともとは集英社文庫の「コバルトシリーズ」というサブレーベルだった。体裁はずっと同じだったから、いつからコバルトシリーズがコバルト文庫に昇格したのか、はっきりとは覚えていない(wikiによると、1990年頃らしい)。どちらかといえば少女向けのシリーズだったから、本来なら男のぼくが手に取るような機会はなさそうな文庫なのだが、小学校の高学年の頃(1979年ころ)には、松本零士のアニメ映画のノベライズを刊行するようになっていて、ぼくはちょうどその頃に映画の銀河鉄道999にどっぷりとハマっていたから、そのノベライズである若桜木虔の「銀河鉄道999」を買って、夢中になって読んでいたことから、割と馴染みがあったわけである。文庫の紙質も、他の文庫にくらべるとやや厚手で、その割には軽い感じで、気軽に手にとって読みやすいものだった。当時は、文庫の母体である少女向け雑誌「小説ジュニア」も、松本零士がなんと小説を書いて発表していたという理由から、廃刊号を含めて二冊か三冊買った記憶があるし(結構エッチな内容で、こそこそ読んでいた)、増刊号として一度だけ出た「小説ジュニア増刊 cobalt」というやつも、松本零士が載っていたから、買った覚えがある。SFアニメのノベライズが当たったせいだろうか、結構たくさんのライトSFがコバルトシリーズから刊行され、中には風見潤編の「たんぽぽ娘」や山尾悠子の「オットーと魔術師」、あるいはル・グインの「ふたり物語」など、今ではかなりのプレミアのついたタイトルもある。後には新井素子が登場して、最初の頃は買っていた。この本も、多分その流れで買ったのだったと思う。

 で、三十数年ぶりに読んだ、肝心の内容なのだが。もう、ネタバレまで、全部書いてしまいます。

 主人公の昭雄は、このところ同じ美しい少女の夢ばかり見ていた。彼には、その少女が単なる夢の存在には思えない。友人の尾崎に指摘され、彼はその少女の夢を見始めたのが、二週間前の交通事故の直後からだったということに気づく。その事故で、昭雄は間一髪で死を免れたのだった。その事故と夢との因果関係もわからないまま、電車に乗っていたとき、向かいの電車にその少女の姿を目にする。少女も、昭雄の姿を目にして、驚いた様子だった。電車が駅に滑り込み、少女を追いかけ、抱きしめたが、人混みに押されて、見失ってしまう。そしてその帰り、家のドアを開けようとした途端、時空が歪む感じが襲い、何もわからなくなってしまう。
 気がついたとき、確かに彼の家のはずなのに、何か違和感がある。やがて彼は、仏壇に自分の遺影が飾られていることに気づく。いろいろと調べてみたところ、どうやら、昭雄はすでに死んでいるということになっているらしい。そのとき、彼は家の外にあの少女の姿を目にする。少女はまさに、自動車に連れ込まれようとしているところだった。少女も昭雄に気づく。慌てて自転車で車を追いかける昭雄。自動車は、病院へと入ってゆく。そこで、偶然友人の尾崎と出逢う。尾崎の口から、少女の名前が理沙であり、不治の病に侵されていること、また、昭雄の恋人であることが語られる。そして、昭雄が二週間前の交通事故で死んだことも。
 SFマニアである尾崎は、昭雄がパラレルワールドからやってきたという仮説をたてる。死を目前にした理沙が、交通事故で死んだ昭雄に会いたくて、呼び寄せたのだと。二人で病室に忍び込み、理沙に会ったとき、彼女は言う。「やっぱり来てくれたのね。昭雄くんが約束を破るわけないって思ってた」
 昭雄はその約束が何なのか、わからない。分からないながらも、彼女のためにこの世界の昭雄を演じようとする。そして、尾崎らの助けも借りながら、死ぬことを覚悟している彼女を攫い、シリウス流星群を見るために、海へと向かう。しかし、彼女は気づいていた。昭雄が、この世界の昭雄ではないことを。けれども理沙は昭雄に感謝の言葉を告げて、シリウス流星群の流れる星空の下、昭雄の腕の中で息を引き取る。それを見届けるように、昭雄の姿もその世界から消滅する。
 場面が変わって、いつものように朝目覚めた昭雄。ちょっとした違和感を感じながらも、いつものように学校に向かう。その途中、トラックに跳ね飛ばされてしまう。
 気がつくと、病院に運ばれていた。怪我はしたものの、命には別状はないらしい。その病院で、昭雄は弟の見舞いに来たという少女と出逢う。なんだか、彼女のことは、とてもよく知っているような。少女の名前は、理沙、といった。
 ふたたび、場面が代わり、理沙と昭雄がいなくなってしまった世界に取り残された尾崎は、手にふたつの花束を持って、あの日に流星群を見た岬に立っている。尾崎はふたりのことを思い出しながら、考えている。今自分がいる世界と、あの昭雄がいたという世界は、きっと隣り合ったパラレルワールドなのだと。けれども、ちょっとしたハプニングでその差があまりにも開きすぎたため、時空が自浄作用として、時間を戻そうとしたに違いない。本来なら、昭雄が怪我をして理沙と出逢うという世界があったはずなのだ。今頃はきっと、ふたりは再び出会って、正しい時間をやりなおしているに違いない――。

 といったもの。
 平行宇宙の扱いはもちろん、今読むとなんだかいろいろツッコミどころが多すぎて、本当にあの当時これを読んで結構面白いと思ったのかなあという気がしてしまうが、少し切なくて、けれども爽やかな青春小説には違いないわけで、十代半ばだったから、素直に楽しめたのだろうと思う。「君の名は。」は観ていないので、なんとも言えないけれど、いくら何でももうちょっとアップデートしたストーリーのはず。映画館に行くつもりは今のところないけれど、DVDになったら、「君の名は。」も観てみようと思う。



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「失踪者たちの画家」 ポール・ラファージ著 柴田元幸訳
中央公論新社刊

を読む。

 主人公のフランクは孤児として、友人のジェームズの家で育つが、成人した後にジェームズとともに家を出て、両親の写真に写っていた街に行き、下宿にふたりで住みはじめる。その街で、フランクは絵を描くことを覚える。やがてジェームズは下宿の娘のひとりと駆け落ちしてしまい、一文無しで残されたフランクは下宿の仕事をしながらそのまま部屋に住み続ける。あるとき、両親の写真に写っていた通りで、向かいのアパートに住んでいる女性と偶然出くわす。ブルーデンスというその女性は、警察に頼まれて死体を撮影する仕事をしている。それから、フランクは死体を撮影する彼女についてゆくようになる。フランクは彼女を愛するようになるが、ブルーデンスは突然失踪してしまう。彼女を探すため、似顔絵を書いてポスターにすることを思いつくが、それをきっかけに、フランクはさまざまな人々の要望に答えて、失踪者たちの似顔絵を描くようになる。彼の絵は評判を呼ぶが、それが原因で彼は逮捕され、投獄されてしまう……という感じで、物語は始まるのだが、これでは全く説明ができていないように感じる。あとがきにもあったけれど、ストーリーを説明することが、とても難しい小説。もっともそれは、ぼくが最後の方でちょっと混乱してしまったからかもしれない。再読すれば、もっと細部にまで意識が行き届いて、全体像がちゃんと見渡せるようになるのかもしれない。カバーをはじめ、スティーブン・アルコーンの版画がいくつも挿入されているのだが、非常に独特な距離感を持つ風景描写を読みながら、ずっとその版画のイメージがついてまわった。幻想的で独創的な世界を描いているのだが、どこか書き割り的でもあるという印象も受けたせいかもしれない。例えば、小劇団の演劇の内容を紹介するのが難しいのと、少し似ている気がする。
 ストーリー全体から受けた印象は、訳者のせいもあるのかもしれないが、ポール・オースターとスティーヴ・エリクソンとスティーヴン・ミルハウザーを、同じくらい思い出させた。つまり、オースターのように孤独で、エリクソンのように魔術的で、ミルハウザーのようにオブジェ志向であるという意味。もっとも、言い方を変えれば、ある意味で近しいその三者を引き合いに出せてしまうのだから、圧倒的な個性というのとは、ちょっと違うのかもしれない。

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 先の日曜日、「奇妙な世界の片隅で」というサイトを運営されているkazuouさんが主催する「怪奇幻想読書倶楽部」という読書会に参加させていただきました。ちょっと特殊な翻訳小説について、あれだけたっぷりと話をするのはおそらく初めてのことで、なかなか得がたい、貴重な経験でした。こんなに詳しい人がたくさんいるのだからと、これからの読書に弾みがつきそうです。

 今日は午後から妻と近所の小金井公園に出かけ、梅見をしてきました。もう満開になっている白梅も結構あって、辺りにはよい香りが漂っていました。紅梅はもう少しのようでした。暖かい、穏やかな花見日和でした。


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「超革命的中学生集団」 平井和正著 
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊

を読む。

 均一棚に並んでいたのを買ってきて、読んだ。今から30年ほど前には、均一棚の常連本だった気がするが、最近はさすがにあまり見かけなくなっていた。
 以前、日本初のライトノベルはこの本だということを何かで目にして(多分、大森望さんのエッセイ)、結構説得されてしまった記憶があったので、つい買ってしまったのだが、もしかしたらはるか昔、読んだことがあったかもしれない。幻魔大戦の頃、平井和正はまとめて結構読んだ記憶があるので、十分にありうる。ただ、内容を全く覚えていないだけで(笑)。
 しかし、忘れてしまっていたとしても仕方がないほど、内容はひたすらくだらない。この作品には、平井和正周辺にいた実在の人物が実名で登場する。主人公の横田順弥が番長の鏡明(どちらも有名なSF畑の人ですね)と決闘をすることになったのだが、その場所にUFOが現れて、その場にいた二人を、取り巻きともども誘拐し、地球人は凶暴でとんでもない種族だから、お前たちに超能力を与えて、その力のせいで人類が自滅するか、それとも良い方向に向かうかを見ることにすると一方的に決められてしまい、さてどうなるか、といった内容で、完全に内輪で盛り上がるための、お遊びのドタバタ(ヨコジュンだから「ハチャハチャ」と言ったほうがいいのか)劇である。だけど、ストーリーといい文体といい、それから永井豪のお色気イラストといい、ライトノベル第一号というのは、納得のゆくものだった。
 しかし考えてみれば、昔からSFほどファンと作家との距離が近い小説の分野は少ない気がする。ファンとの交流イベントであるSF大会は今でも続いているし、文学フリマなどにも、SF作家の方は結構参加されている。SFファンダムがコミケの母体となったのも、必然の流れだったのだろうと素直に思える。
 平井和正も、すでに鬼籍に入られたが、幻魔大戦を書いている途中で変な方に行ってしまったのは残念だった。サイボーグ・ブルースとか、とても印象に残っているのだが、スピリチュアルに走ってからは、次第に読まなくなってしまった。ウルフガイなどのシリーズも巻き込みながら迷走していった(らしい)幻魔大戦も、なんと一応完結しているらしいが、最終章はとんでもない値段がついていて簡単には手に入らないようだし、それだけ払ってまで読みたいとも思わない。しかしもしかしたら、まさに幻魔大戦こそが、平井和正という存在が発する、内なる声の希求そのものだったのかもしれない。そんなふうに思えば、まさにライフワークの名にふさわしい作品なのだろう。

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「この人を見よ」 マイケル・ムアコック著 峯岸久訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

を読む。

 現在、ムアコックといえば「エターナル・チャンピオン」サーガの作家だというのが普通の認識だろうし、実際新刊で手に入るものもそれだけのはず。けれども、80年台半ばに日本でエルリックが人気を博した頃、いやいやムアコックはそれだけの作家ではないんだとして、盛んに取り上げられていた作品がこの「この人を見よ」だった。だから、タイトルだけは強烈に刷り込まれていたが、実際に読もうとまで思ったことはなかった。それがこの前、ふと古書店の均一棚にこれが並んでいたのを目にして、なんだかちょっと懐かしくなって、一度読んでみるかと買ってきた。
 イエスの最後を見届けたいと考えた現代の若者が、タイムマシンに乗って過去に行ったところ、いつのまにかキリストとして崇められ、処刑されてしまうというストーリー自体はなんとなく知っていたから、特に感動したとか、そういいうことはなかったけれども、さすがに編集者としてニューウェーブ運動の中心にいた人物だけあって、思っていた以上に文学寄りの書き方をしているなと思った。もしかしたら、多少自伝的な要素もあるのかもしれない。あと、ぼくのようにクリスチャンでもなんでもない人にとってみればどうということもないけれども、経験なクリスチャンにしてみれば、かなりスキャンダラスで、抵抗のある作品なのかもしれないなとは、やはり思った。特に、聖母マリアの書き方には、結構抵抗のある人が多いのではないだろうか。

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「いろいろのはなし」  グリゴリー・オステル 著 / 毛利公美訳
はじめて出逢う世界のおはなし―ロシア編 東宣出版刊

を読む。

 閉園後の遊園地で、眠りにつく前の回転木馬たちがいつものように園長さんに寝物語をねだるところから物語は始まる。ところが、園長さんは「もう話す物語はたったひとつしかないから、これが最後の物語だよ」と木馬たちに言ってから、物語を話しはじめる。最後の物語と聞いて、いつもお話を楽しみにしていた木馬たちは、少しでも長く聞いていたいと、その物語が終わる前に口を出す。「ところで、そのおまわりさんとおばあさん、友達になったんでしょう?それから、いろいろあったんじゃない?」こうして、サイドストーリーがサイドストーリーを生みながら、物語は大きく膨れ上がってゆき、最終的には42話にまでなって、大団円を迎える――という物語。
 解説によると、「ロシア初のハイパーテクスト物語」とも呼ばれているらしいこの本は、けれどもそんな難しい肩書はなくとも、子供にも十分に楽しめる(いや、もともと子供向けの作品なのだろう)、荒唐無稽だけれども、ところどころに深い洞察を垣間見せる、おもちゃ箱のような楽しい童話に仕上がっている。登場人物(人じゃないことも多いんだけど)たちはすべて愛すべきキャラクターたちである。子供がいたなら、実際に寝物語に、この本を読んであげるのも、きっといいんじゃないかと思う。
 ところでこの「はじめて出逢う世界のおはなし」というシリーズ、あまり話題にもなっていないようだけど、なかなか興味深いラインナップが並んでいる。ディーノ・ブッツァーティの長編が入っているのもさることながら、なんと、かつて妖精文庫から出ていたイルゼ・アイヒンガーの「より大きな希望」が新訳で入っているのは驚いた。妖精文庫版「より大きな希望」は、ぼくにはとても大切な小説の一つで、こうした形ででも復刊されるのは嬉しい。第二次大戦下の、ユダヤ人とのハーフの少女の物語で、「詩的ではあるが暗くて救いのない小説」かもしれないけれども、こちらの姿勢を正させるような、真摯な力に貫かれている。新訳になってどう変わったのか、いずれ読んでみたいと思う。


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「水蜘蛛」 マルセル・ベアリュ著 田中義廣訳
ソムニウム叢書 エディシオン・アルシーヴ刊

を読む。

 表題作の「水蜘蛛」と最後に収められた「百合と血」の、比較的長めの短編の間に、掌編といっていいほどの短編が三編収められた短編集。どの作品も、何かの象徴であるかのような物語になっている。
 表題作の「水蜘蛛」は、ちょっとルドンの絵を思い出すようなところがあるけれど、正妻を捨てて愛人にのめり込む男の、ドロドロの関係を幻想文学に昇華した作品だと受け取った。著者の経歴を見ると、相当に女好きという気がするので、もしかしたら半ば自伝的なものなのかもしれないとも思ったり。次に収められた短編「向かいの家」も、その延長線上にある気がした。
 もうひとつの長めの短編「百合と血」は、百合の花の栽培にのめり込む男の話で、今となってはよくあるといえばよくある話。ただ、この手の話はたいていエログロになってしまうが、これはそうではなく、比較的上品に仕上がっている。
 残りの、ごく短い短編二つのうち、「最後の瞬間」は、鉄道を題材にした作品。まるで見た夢をそのまま作品にしたかのようだが、やや哲学的とも受け取れる。70年台の日本のサブカルチャー界で、この手のものが流行ったような印象がある。最も短い(たった2ページ)「読書熱」は、本を読みすぎた挙句体が消滅して頭だけになってしまう男の、ユーモラスな奇想小説だった。


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「ラベンダー・ドラゴン」 イーデン・フィルポッツ著 安田均訳
ハヤカワ文庫FT 早川書房刊

を読む。

 長らく入手困難だった「誰が駒鳥を殺したか?」が、去年、約半世紀ぶりの新訳で再刊されたことでも話題になったフィルポッツのファンタジー小説。
 FT8というから、ハヤカワ文庫FTの中でも最初期のラインナップになるが、初期のFTは、幻想文学愛好家にとってもなかなか興味深い、アダルトファンタジー的な作品が多く並んでいた。これも、そうした一冊といっていいだろう。
 ストーリー自体は非常に単純。
 「ラベンダー・ドラゴン」と呼ばれる、ラベンダーの香りのするドラゴンが、ある村の人々をさらっていって食べてしまうというのを耳にしたある騎士が、それならば自分がそのドラゴンを退治してやろうと宣言し、ドラゴンに立ち向かうのだが、実はそのドラゴンがさらってくるのはさまざまな理由で不幸な境遇にある人々ばかりで、ドラゴンはさらってきた人々に尊敬されながら、理想的な村を建設していたという物語である。つまり、急速に進む文明化に対して警鐘を鳴らす物語のひとつであり、今読んで特に目新しいものでもないが、ドラゴンといえば悪役が当たり前であったであろう当時(1923年)には、子どもたちにはなかなか新鮮だったのではないだろうか。
 物語の最後でラベンダー・ドラゴンは死に、新しい時代に滑り込んでゆく。中世から近代へ、ということなのだろうが、このドラゴンの最期には、ただ口をつぐんで、しんみりとしてしまう。
 「昔むかし、ラベンダー・ドラゴンと呼ばれる龍がおってなあ……」
 そんな昔ばなしにこそ似合う物語だった。

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 今更ですが、2016年に読んだ本で、印象に残ったものを10冊。


1.「世界の終わりの七日間」 ベン H ウィンタース著  上野元美訳

2.「本にだって雄と雌があります」 小田雅久仁著 

3.「デボラの世界―分裂病の少女」 ハナ・グリーン著 佐伯わか子、 笠原嘉 共訳

4.「奥の部屋」 ロバート・エイクマン著 今本渉訳

5.「ゴールデンフライヤーズ奇談」 J.S. レ・ファニュ著 室谷洋三訳 

6.「パルプ」 チャールズ・ブコウスキー著 柴田元幸訳 

7.「九百人のお祖母さん」 R・A・ラファティ著 浅倉久志訳 

8.「マーティン・ドレスラーの夢」 スティーヴン・ミルハウザー著 柴田元幸訳

9.「アウラ・純な心」 カルロス・フェンテス著 木村榮一訳

10.「人形つくり」  サーバン著 館野浩美訳

 一応番号は振ってあるけれど、面白かった順というわけでは全くありません。

 1は世界最後の刑事を描いた三部作の完結編。最後に拍子抜けしてしまったら嫌だなと思っていたけれど、見事に締めてくれました。
 2はマジックレアリズム的な小説。とても楽しい法螺話です。
 3は自伝的な小説。今では分裂症という言葉は使われず、統合失調症と呼ばれますが、ある少女がそこから回復してゆく過程を描いています。
 4、7、9は短編集。どれも奇妙な味の作品を得意とした作家ばかりです。7のラファティはちょっと稀に見るほど人を喰った作品を書くSF作家ですし、4のエイクマンはまさに奇妙な味の作家としか呼べない、一度読むと癖になる作風を持っています。8のフェンテスは、ラテンアメリカの作家ですが、ここに納められた作品はどれも、なんとも幽玄な幻想小説でした。
 5は、レ・ファニュの中編小説。圧倒されるような分量で攻めてくるレ・ファニュの長編の中では、これは短い上に、とても読みやすいので、入門編として最適な一編だと思います。
 6もかなり変わった作家、ブゴウスキーのSF小説。こんな変な作品もあまりないので、一読の価値はあると思います。ラファティといい勝負。
 8は、非常に繊細な物語を紡ぎ上げて、まるでひとつのオブジェのようにしてゆく作風の作家、ミルハウザーの長編小説。印象に残る一冊でした。
 10は、この中では一番最近に読んだ本で、国書刊行会から発刊が始まった叢書「ドーキー・アーカイヴ」の中の一冊。同じシリーズの「虚構の男」も読んだけれど、こちらのほうがずっと印象に残った。うまく言えないけれど、「奇妙な味」というのとも違う、なんとも変わった味わいがある、なかなかの一冊です。こういうのは多分、計算されたものというよりも、作家の「変さ」がもろに作品に反映されて、結果としてなんとも言えない味わいになるという好例なのでしょうね。

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 今年は、年初の挨拶は控えさせていただきますが、2017年になりました。今年もよろしくお願いいたします。
 年末から年始にかけて、インフルエンザらしき症状で、ずっと寝ていた。仕事納めの日あたりから、なんだか調子が悪いなと思っていたのだが、微熱だったし、まあ軽い風邪だろうと思っていた。ところが、30日の夕方くらいから急に熱が上がってきて、大晦日には38度5分ほどまでになった。高熱は元日には落ち着き、インフルエンザにしては随分軽いなとは思ったのだが、娘によると、「今年のインフルエンザは高熱は一日で下がるらしいよ。だから、油断して周りに移しまくりがちなんだって」ということ。なるほど。熱が下がったとはいえ、微熱はやはりあるし、体もだるいので、翌2日も一日寝ていた(寝ていても、痩せているせいもあって、腰や背中が痛くなってきて、本当につらかった)。で、今日になってようやく起きて動けるようになった。せっかくの長い休みだというのに、ほとんどどこにも出かけることもなく、まったくもったいない。随分と疲れが溜まっているという自覚はあったし、まあ、体を休ませろということだったのだろう。
 もうひとつ。年末にPCを買い換えた。約9年ぶりである。古いPCが、どうも怪しく、これではいつ起動しなくなっても不思議ではないという状態になったからである。それに伴って、普段はほとんど使わないが、windowsもこれまでのxpから10になった。CPUもdual coreからcore5になって、随分とグレードアップした。まあ、今のところ大したこともやっていないので、体感的にはちょっと処理が早くなったかなという程度だけれども。そんなこんなで、PCが新しくなったのはいいけれども、最初買ってきて、Ubuntuとのマルチブートをやったり、環境を整えたりするのにちょっともたついて、あれこれ試行錯誤しながらやや夜ふかししてしまったのも、体調を崩した原因だったのかもしれない。
 寝ている間、じゃあ本でも読もうかと思ったが、当然とてもそんな余裕はなく、昨日になってようやくちょっと読めるようになった。で、こんな機会でもなければもう読まないだろうと思っていた、なんと30年以上も積読にしていた本を、今回は絶対に読み切ると決め、ついに読了した。
 その本というのは、

 「ケンタウロス」 アルジャナン・ブラックウッド著 八十島薫訳
 妖精文庫 月刊ペン社刊

 今まで、何度も読もうとして挫折を繰り返してきた一冊なので、まあ、インフルエンザといっしょに肩の荷も下りたという感じである。
 ストーリーはあってないようなものであり、筋を楽しんで読めるような作品ではない。一言で言えば、地球はひとつの有機的な生命体であり、人間を含めた生物たちはその感覚器官にすぎないということを、400ページもかけて何度も説明をしてくれる、思想の告白書である。やがてニューエイジを経てニューサイエンスへと繋がってゆく神秘思想を、小説という形を借りて書くことで布教しようとしているとさえ思えるような作品というべきか。この本を手に入れた、頭の柔らかい十代の頃にちゃんと読んでいたら、もしかしたらそれなりに影響を受けたかもしれないけれど(まあ、読めなかったんだけど)、この年になって読むのは、かなり苦行に近かった。何と言っても、今となっては思想的にはやや陳腐な印象は拭えないし。後半、ちょっとくたびれてきてかなり走り読みにはなったけれど、こんな機会でもなければ、やっぱり読み通せなかっただろうと思う。どっぷりハマって読めば、非常に美しいイマジネーションが散りばめられた本ではあるとも思うが、積極的に人に勧められるような本ではないなあ。

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「この世界の片隅に」 片渕須直監督 こうの史代原作

を観る。

 非常に評判の良い映画のようなので、観てきた。
 凄かった。
 ちょっと、他になんと言って良いのか。
 良かったとか、感動したとか、なぜだか言いたくない。もちろん、面白かったというのは、さらに違う。観終わったあと、まるですっきりしない。ただ深い気持ちになって、映画館の照明が灯るまで、座っていた。ぼくだけではなく、誰も席を立とうとはしない。誰も喋らない。照明が点って、やっと観客は立ち上がって、出口に向かったが、口数少なだった。
 妻は、「『ピアノレッスン』や『パフューム』を観た時のような、もの凄いものを観た感じに近い」と言っていたが、まさにそれ。安易な方向に逃げず、隅々にまで何度も手を加え、できる限りの事はやったという真摯な姿勢が感じが伝わってくる。作品を作り上げるということは、こういうことだと思った。メディアであまり取り上げられなくなるであろうというリスクを犯してまで能年玲奈(本名)を起用したのは、彼女でなければだめだと監督が確信していたからだろうし、実際見事に合っていた。本当に作りたいという気持ちだけを武器に、妥協できないところは妥協せず、クラウドファンディングを利用して、公開にまでこぎつけたのだ。市場調査をし、こうやったら受けるだろうという姿勢で、スポンサーの顔色を見ながら作り上げられた映画とは、背骨の入り方が違う。
 物語はユーモアを交えながら淡々と進むが、非常に重く、文学的である。アニメでありながら、ファンタジーへの飛躍はほとんどなく、まるで小津安二郎の映画のようだと思える場面さえある。波乱万丈のストーリーではなく、ディテールの積み重ねで説得力をもたせてゆくのだが、そのディテールのひとつひとつに確かな手触りがあり、まるで自分の記憶のように印象に残った。ぼくは、すずと水原がふたりきりで土蔵の中で過ごしたときのむせかえるような緊迫感をそっと覗き込んでいたような気がしたし、被爆し、ひとり実家へと帰ってきたが、誰にも気づかれぬまま死んでいった少年を目にした気がした。そして、何度ももうんざりしながら防空壕に逃げ込む事を繰り返していた気がした。空襲のシーンは、これまでに観てきたどの映画よりも怖かった。たったひとりのヒーローも登場せず、戦時が日常になってゆく時代の流れに押し流されてゆく人々ばかりが現れては消える。普通の日常が、徐々に歪んでゆき、気がついたときには根こそぎ奪われている。悲しみさえ、麻痺してゆく。きっとこういうことが、あの当時、日本中で起きていたのだと思った。原爆のシーンなど、もっとエグくて生々しい表現をしようと思えばできたシーンはたくさんあるのだろうが、あえてあっさりとした表現にしたのは、あるいは原爆の目を覆いたくなるような悲惨さというその鮮烈さに目を奪われて、この物語が本当に語りたかったことが伝わらなくなることを避けようとしたのかもしれない。
 非常に文学的な映画だが、一方で、アニメだったから良かった、というのもある。これは、実写でやると、多分、逆に嘘くさくなる。想像力の入り込む余地を大きく残したアニメだからこそ、そしてあの絵だからこそ成し得た、本質的な表現。これをどう消化するのかと、そっくりこちらに投げられた感じがする。人が起こした戦争が、大切なものをたくさん奪い去ってしまった。一億総玉砕の掛け声のもとに戦ってきたが、戦争を始めた人たちは、死よりも降伏を選んだ。最初から、自分たちは死ぬつもりなんてなかったのだ。そうして敗戦を迎えた後も日常は続いてゆく。あの戦争は、いったい何の、誰のためだったのか。死んでいった人は、失ったものは、いったい何のため、誰のために消えてしまったのか。どんな言葉でも、癒やされはしない。どんな理由をつけられても、納得できない。この悲しみは、いったいどこに埋めてやれば良いのか。
 「良かった良かったというけど、ちっとも良くない」と叫ぶすずの声が、耳の奥で鳴っている。


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「リテラリーゴシック・イン・ジャパン 文学的ゴシック作品選」 高原英理編 
 ちくま文庫 筑摩書房刊

 を読む。
 編者が「文学的ゴシック」と呼ぶ作品を集めたアンソロジー。
 「ゴス」とは何か。これはかなり難しい。なんとなくこういうもの、というイメージはある。けれども、明確な定義があるわけでもない。もちろん、すでに評価が定まっている芸術形式としてのゴシックは存在する。だが「ゴス」は、ゴシックという芸術形式が廃れたその後も細々と命脈を保ち、今では、ゴスが好きだと思う人それぞれの中に自分なりのゴスがあるとしか言えないような状態になっているように思える。それが、なおさらわかりにくくしている。そして、少なくとも日本に於いては、「ゴス」は本来のゴシックという概念から大きく逸脱し、そのイメージの大半を「ゴスロリファッション」に負っているのが実情ではないだろうか。
 このアンソロジーの編者である高原英理氏は、自ら名付けた「リテラリーゴシック」というジャンルを定義するにあたって、その最大の特徴を「不穏」さにあるとした。そして氏の思う「リテラリーゴシック」作品を集めて、アンソロジーとしてまとめたのがこの本である。新たな文学的動向を探るという試みから編まれたものであるから、志が高く、したがって、アンソロジーとしては非常にレベルの高い、どれも面白い作品ばかりが集められた一冊ではあるが、中には、ぼくには「これは果たしてゴスと呼んでいいものなのだろうか」と思えるような作品もある。だが、編者も認めているように、それぞれの中に自分なりのゴスがあるというのなら、それはそれで構わないわけである。
 収録作品の中には、既読作ももちろんいくつかあったが、初読の作品のほうが多かった。このアンソロジーの特徴は、小説作品以外に、詩やエッセイ、短歌、俳句などが多く取り上げられている点だろう。短歌や俳句にゴスを見るという視点は、ぼくにはこれまでなかったので、これは新鮮だった。新鮮といえば、ゴスという概念からは程遠いように思われる宮澤賢治が採られているのが印象に残ったし、逆に夢野久作が採られていないのも、不思議といえば不思議だった。このあたりは、確信犯的なものなのだろうか。
 日本において、「ゴス」というのは、面白い移り変わりをしてきているようにぼくには思える。これは個人的な印象で、何の検証もしていないし、実際とは合っていないかもしれないのだが、日本において最初に現代へと繋がる「ゴス」のイメージを、最もファッショナブルに強く打ち出したのは渋沢龍彦氏なのではないかと思う。したがって、このアンソロジーに、ゴスの極北とも言うべきジル・ド・レーについて書いた渋沢氏の「幼児殺戮者」が採られているのは、さすがというしかない。つまり、イギリスではなく、もともとがフランスのエロティックな異端文学が最初にあったわけである。そこに、イギリス発のゴシックが合流した。そしてそれが、土方巽の舞踏や寺山修司らのアングラ演劇と結びつき、一種独特なアンダーグラウンドシーンを作った。この時点では、まだゴスという呼び方はされず、アングラの一形式としてのゴシックがあっただけであった。やがてそれらが、演劇と親和性の高いデヴィッド・ボウイを始めとする海外のヴィジュアル面を重視するアーティストやパンク・ニューウェーブシーンの洗礼を受け、いくつかの伝説的なアーティストを経て、白塗りの骸骨メイクで暴れ回る、遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンというハードコアパンクバンドとして結実した。このあたりから、今に至る日本風ゴスが本格的に始まったのではないだろうか。同時期に戸川純が出てきたのも大きかった。また、同時期に登場した、現在も活動しているジュネ率いるAUTO-MODはヨーロッパ的耽美性が高く、現在のゴスにもっとも近いスタンスだったかもしれない(ちなみに、スターリンとAUTO-MODは、ともにレコード・ジャケットに漫画家である丸尾末広氏のイラストを使用している。演劇界では伝説的なユニットとなった東京グランギニョルにも参加していた丸尾氏は、日本のゴスシーンにおいて、間違いなく最重要人物の一人だろう)。ゴシックという言葉は、アンダーグラウンドなロックシーンの中で、新たなる価値観を纏って復活したわけである。つまり、「崇高さ」という概念がほぼ抜け落ち、代わりに「ファッション性」と「病んだ自我」が前面に押し出された。そこで求められているのは、わかりやすい形での、他者との差異である。こうした音楽の動向は、本来の音楽性を離れて、ビジュアル系、暗黒系という独自のジャンルを生み出した。このあたりのアーティストは、音楽ファンよりも、むしろサブカル畑の人々、特に少女漫画家に支持されて、少女たちに一気に広まり、九十年代の楠本まきでゴスロリファッションのイメージが確立され、そこから漫画界に一気に広がった結果、一般の人々の間にも「ゴスロリ」というジャンルが浸透していったというのが、かなりざっとではあるが、おおまかな流れなのではなかっただろうかとぼくは理解している(もちろんこんなに単純ではなくて、時代の波に大きく後押しされての結果ではある)。つまり、文学→演劇→音楽→漫画という流れである。そして、漫画という最強の媒体を手にしたゴスは、そこから再帰的に、各ジャンルにまた拡散していっているように思える。「和ゴス」も、日本のゴスがもともと土着的なアングラシーンを経由してきたものであると考えると、理解がしやすい(渋沢氏も、晩年は日本に題材を求めることが多かった)。結局のところ、日本における広義の「ゴス」というのは、「ファッション性の高いアングラ趣味」程度の意味であり、狭義では「それに残酷性とエロティックさと暗さをさらに加味し、ネガティブな意味における選民的な感覚を増したもの」ということになるのかもしれない。いずれにせよ、「ゴス」は、例えば凄惨という形をとるにせよ、美しくなければならないわけであるから、どこか作り物じみた感じからは逃れられないわけである。それゆえ、もともと「純文学」よりも「エンターティメント」に親和性が高く、したがってこのアンソロジーの最後に「文学的ゴシックの現在」として取り上げられている作家の大半がエンターテイメント作家であるのは、当然の成り行きであったのだろう。


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「忌館 ホラー作家の棲む家」 三津田信三著
講談社文庫 講談社刊

 を読む。
 JR中央線の武蔵小金井駅から歩いて数分ほど南に行ったところに広がる崖線、「はけ」に建つ古い洋館が舞台の作品だと、少し前の朝日新聞に紹介されていたので、読んでみた。
 「はけ」というのはこのあたりの通名で、正式には国分寺崖線と呼ばれる。古代多摩川が長い年月をかけて武蔵野台地を削りとって出来た段丘の連なりのことである。時々メディアなどでも取り上げられる等々力渓も、この「はけ」の一部である。
 「はけ」の上と下とは、最大で20メートルほどの落差があり、独自の生態系と景観を作っている。東京都を横断する「はけ」は、現在ではその大半が削られ、住宅地のなかに埋もれてしまっていて、もともとの姿を伺うことが困難になっているが、たまたまその「はけ」の姿が最もよく保存されているのが、小金井市の武蔵野公園と、そのすぐ東に隣接する三鷹市の野川公園周辺である。おそらく、このあたりが長い間米国の支配下にあったことが幸いしたのだろうと思う(野川公園は、もともとそのすぐ北に広がるICUのゴルフ場だった)。ところが、最近、突然その「はけ」を破壊するような無謀で不必要な道路計画が持ち上がってきて、反対運動が起きている。一度壊した景観は二度と元には戻らないわけで、ぼくもとても看過できない話だと思っている。人口が減ってゆき、いずれはガソリンも枯渇するという現在、貴重な自然を破壊してまで推し進めるような道路計画でもないだろう。
 話が横に逸れた。小説に戻ろう。
 小説の舞台は武蔵小金井駅から南へ少し下った場所にある、滄浪泉園の近くにある古い洋館。主人公は、編集者兼作家である三津田信三。著者名が主人公名と同じという、アレである。主人公は、たまたま訪れた滄浪泉園から古い洋館を目にする。どうしてもその建物が気になった彼は、奔走した挙句、その家を借りることにする。借りた家で、彼はその家をモデルにしたホラー小説を執筆するのだが、次第に現実と小説が渾然としてくる。ある時、彼の目の前にファンであるという若い女性が現れるのだが……といったストーリ。
 作中に出てくる滄浪泉園は、まさに「はけ」に作られた庭園である。はけの高低差を利用して、立体的で見応えのある景観を愉しめるように設計されているが、こうした庭園は国分寺崖線にはいくつも存在している。国分寺の殿ヶ谷戸庭園がそうだし、武者小路実篤の自宅のある実篤公園もそうだ。
 ところで、武蔵小金井駅の名前は、作中ではアナグラムを使って武蔵名護池となっている。滄浪泉園の名前が出ていて、駅名は架空の地名を使っているあたり、ちょっと理由が良くわからないところがあるが、まあとりあえずそういうふうになっている。このような、実際に存在する地名、誌名、社名、人名と、架空のそれとを、その線引きの基準が曖昧なまま混在させる手法というのは、小説全編にわたって採用されている。例えば、作中で主人公が作品を発表している同人誌「迷宮草子」というのは、おそらく雑誌「幻想文学」をモデルとした架空の雑誌だろうが(それにに加えて、変わった判型の関西発の同人誌という設定から、京都の「ソムニウム」も念頭に置いてるのだろうかと想像してみたり)、その目次サンプルとして掲載されているのがいかにもといった感じである上に、執筆陣に実在の人物と架空の人物が混在していたりするのが面白い。物語そのものと同じく、どこまでが現実でどこからが虚構なのか、その境界線を極度に曖昧にするための手法なのだろう。
 また話が逸れた。
 話が逸れるのは、実はこの作品のストーリーをうまく紹介できそうにないからである。だいたいのあらすじなら、書くことができる。けれども、念入りな虚構化がなされているせいで、どう受け取るかは多分読み手次第になってしまいそうな作品だった。実際の著者とペンネームとしての三津田信三、それから作中の登場人物としての三津田信三。作中の三津田信三が住む洋館と、作中の三津田信三が書く小説の中の洋館。その洋館の中にあるその家にそっくりなドールハウス。ドールハウスの中にある、さらに小さなドールハウス。何層もの複雑な入れ子になっている。面白かったのかと言われれば、デビュー作にしてはよく出来ているけれども、ちょっと力が入りすぎていて、とっちらかっている感じもするとしか言えない。同時に、小説自体が、著者による「遊戯」のような印象も受ける。
 遊戯。そういう意味でなら、ストレートなミステリーを期待した人には受け入れられないだろうが、幻想文学ファンには愉しめる一冊だと保証できる。中に散りばめられた様々な薀蓄が、この小説の正体のような気もする。さらには、自身が企画している単行本にイギリスの怪奇幻想文学の短編のオールタイムベストを選ぶという設定。著者自身がその候補作を延々と並べて見せているが、きっとこれを選ぶときには楽しかったんだろうな、と思って微笑んでしまう。定番の中に、ちょっと珍しい作品が混ざっている。幻想・怪奇文学ファンは、そうした本筋とはあまり関係のない、なくても全く問題がないディテール部分には、共感を覚えることだろう。


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