漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 「アクアリウム」というカテゴリーを作っておきながら、全く何も書いていないけれど、結構どっぷりとハマって、やっている。さほど大きくもない水槽なのに、多分いま現在、50匹近くの生体が泳いでいるはず。はっきりとした数を書かないのは、ネオンテトラ系(ネオンテトラ、カージナルテトラ、グリーンネオンテトラ)の正確な数がよくわからなくなったためでである。多少過密気味かなと思うけれども、だいたい落ち着いているようで、水質のせいで体調を崩して☆になった魚は最近はいないはず。
 だったのだけれど、この二、三日で、お気に入りの魚が立て続けに☆になってしまった。
 まずは、クリスタルレインボーテトラ。



 写真の左側がそう。ちなみに、右側はバタフライ・レインボー。
 このテトラは、とても小さいテトラなのだけれど、特徴的なのはその透明なボディ。透明な魚はたくさんいるけれど、このテトラの透明感は、他とは一線を画する。まるで水そのもののように透明なのだ。そして、尾びれが少しだけ赤と青に色づいていて、非常に美しい。店頭で見て、少しだけ高めだったけれども、一目惚れして買ってきた。ところが、買ってきてからネットで調べてみて、愕然とした。このテトラ、なんといまだに飼育の仕方が確立されていない、非常に長期飼育の難しいカラシンらしいのだ。だいたい、一ヶ月くらいで体が白く濁りはじめ、三ヶ月を超えて飼育することは、熱帯魚を飼うことになれた人でさえも難しいらしい。なんだよ、それ。そう思ったものの、少しでも長く飼育できるようにと水質に気は使ったものの、やはり一ヶ月ももたないで体が白く濁り、それからまもなく☆になってしまった。
 ちょうど同じ日に、ピグミー・グラミーが虫の息になった。ピグミー・グラミーはトリコプシス属という、四種しかいない珍しい種の魚だということだ。全体にはグレーというか、パールカラーなのだが、トルコ石のような青い色がボディに散っている。泳ぎ方も独特で、なんと言うか、ぬるり、と泳ぐ。そして極めつけが、魚のくせに、鳴く。ぼくはピグミー・グラミーが好きで、以前にも飼っていたのだが、やはり☆になってしまい、これは二代目だった。しかし、最初からこの個体はいまひとつ弱そうな感じはしていたので、まあさほどショックではなかったものの、残念なことには変わりがない。☆になったグラミーは、回収することができなかった。ヤマトヌマエビが二匹がかりで美味しく頂いてしまったからである。
 そして、極めつけがメスのグッピー。グレーのボディに、尾びれがブルーという、どちらかといえば地味なグッピーなのだが、うちの水槽でいちばん最初に買った魚のひとつでもあり、なによりも、その天真爛漫な性格から、うちの家族みんなのマスコット的存在だった。このグッピーには、随分と和ませてもらった。魚にも性格があるんだと、このグッピーから学んだといっていい。それが、昨日、☆になってしまった。
 寿命を縮めてしまった最大の原因は、数カ月前にふと買ってきた、エンドラーズ・ハイブリットのオスせいである。エンドラーズは、グッピーの原種ともされる魚で、エンドラーズ・ハイブリットは、そのエンドラーズとグッピーの混雑種である。新宿の熱帯魚ショップで見つけて、なんとなく買ってきてしまったのだが、そのときはグッピーとも随分と形が違うし、まさか交雑するとは思わずに買ってしまったのだところが、水槽に入れてすぐに、グッピーにまとわりつき始めた。もう、あきれるくらい、一生懸命のアピールをして、まとわりつく。最初、グッピーは懸命に追い払おうとしていたようだったが、結果として、妊娠してしまった。これが、多分結構な高齢出産で、しかも相当な難産だったようで、みるみるうちに体調を崩し、それでも一月以上は生きていたのだが、最後にはまるで腰の曲がった老婆のようになって、☆になってしまった。この先グッピーを飼うつもりはもうないけれど、彼女を飼ったことは、とてもよかった。合掌。
 さらに、昨夜は水槽のどこを探してもスカーレット・ジェムの姿が見えなかった。



 真ん中にいる赤いやつがそう。ちなみに上の黒いのはブラックネオンテトラで、下の赤いラインが入っているのがグローライトテトラ。
 このスカーレット・ジェムというのは、インド原産の、スズキ目の熱帯魚で、赤い体色とヒレに入った青いライン美しく、「インドの宝石」とも評される魚。見ていると、中性浮力をとるのが非常に上手で、水の中でじっと静止しているように見える、独特の動き方をする。ただ、問題がひとつだけあって、この魚、生き餌しか食べないんですよね。
 それだけで、いきなりハードルが上がってしまう。仕方なく、ブラインシュリンプを沸かせたりもしたけれど、最近では、乾燥アカムシをピンセットから食べてくれるようになってきていた。そうなると、他の魚よりも手間がかかる分、余計に可愛くなる。それだけに、姿がみえなくなったのは非常にショックだった。水槽って、たまにそんなふうに、魚が行方不明になるのだ。水槽からの飛び出しか、☆になって他の魚やエビに食べられてしまったのか、そのどちらかなのだろうが、なにせ確認できないので、行方不明としか言えない、そうしたことがこれまでに何度かあった。今回も、きっとそれだろうと思っていた。
 ところが、今日になって娘が普通に泳いでいるスカーレット・ジェムを見つけた。どうやら、どこかに隠れていたらしい。とりあえず、よかった。こんなに一度にお気に入りの魚たちがいなくなってしまうのは、寂しすぎる。
 とまあ、とりとめのない話でした。


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「グルブ消息不明」 エドゥアルド・メンドサ著 柳原孝敦訳
はじめて出逢う世界のおはなし―スペイン編 東宣出版刊

を読む。

 あまり読んだことのないタイプの小説で、かなり面白かった。「興味深い」という意味でもあるが、実際に何度か思わず吹き出した。ゆるくて、とぼけていて、適当で、それでいてなんだか、いろいろなものに対して愛しい気持ちになる。物語そのものに対してではない。物語そのものには、たいした意味はない。宇宙からやってきて、バルセロナで行方をくらましてしまった相棒のグルブの行方を探す主人公の行動が、箇条書きのように、そのままだらだらと書き連ねられているだけである。なのにそれが非常におかしく、少しだけ寂しげなのである。
 そもそも、著者による序文が面白い。著者はこの本について、「これまで私が書いた本の中で一番風変わりなものだ。おそらくその理由は、これが本ではないからだ。あるいは本にしようという気もなかったのに生まれたものだからだ」と語り、売れるはずも、長く読まれるはずもないと思って書いていたこの小説が、結果的には著者最大のベストセラーとなり、数カ国で翻訳され、カフカ賞まで受賞してしまったことに、素直に驚いていると語っている。著者がいささか謙遜ぎみに語るように、確かに軽く読める本ではあるけれど、一度読み始めてしまうと最後まで読んでしまうというのは、やはり作家としての力量があるからだろう。
 日本の作家でいえば、北野勇作の諸作から受けた印象が、いちばん近いかもしれない。


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「シン・ゴジラ」 庵野秀明監督

を観る。

 映画館にゆこうと思いながら、結局行かずじまいだった「シン・ゴジラ」がDVDになったので、早速みてみた。
 最近の日本映画にやたらと多い、余計なお涙ちょうだい的サブストーリーの味付けが全くなくて、ゴジラ一本で勝負しているのが非常に良かった。マニアならではのバランス感覚に貫かれているという印象。個人的には、無人在来線爆弾に大ウケ。
 


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航路  



「航路」(上・下) コニー・ウィリス著 大森望訳
ハヤカワ文庫 早川書房刊

を読む。

 臨死体験(NDE)を扱った作品。とはいえ、オカルトではなく、れっきとしたSF作品。
 臨死体験といえばこういうものだというイメージは、たいていの人は持っているはず。日本人である我々にとってそれは、例えば、三途の川の向こうで祖母が手招きしている、一面のお花畑がある、長いトンネルがある、など。そうした、なぜか様々な人の共有される経験がなぜ生まれるのかを研究しているのが、この作品の主人公であるジョアンナ。彼女は、オカルトには惑わされずに、NDEのメカニズムについて、科学者的な立場から突き止めようとしています。物語全体を通じて、彼女はずっと走り回っている印象があり、まるで時間と戦っているですが、それには理由があります。実はジョアンナは、彼女が研究の拠点としている病院に入院している、心臓疾患のある9歳の少女メイジーをなんとしてでも救いたいと思っていて、NDEの秘密さえ突き止めることができれば、あるいはメイジーを死の淵から呼び戻すことができるかもしれないと考えているのです。
 この極めて聡明で、まるで自分の死への心構えをするかのように、過去の悲惨な事故の詳細を収集することを何よりの趣味にしているメイジーが、実は影の主人公と言えるかもしれません。物語は三部に分かれていますが、第三部に至っては、ついに物語の最前面に出てきて、病室からほとんど出ることもできないというのに、物語を結末まで引っ張ってゆきます。
 ジョアンナと並んで、物語全体の主人公がリチャード。彼はジョアンナよりさらに徹底した科学者的立場からNDEを解明しようとしています。ジョアンナが、実際に臨死体験をした人に根気よく話を聞くことでNDEの秘密を解明しようとしているのに対し、リチャードは、臨死体験中の人の脳にどんな化学物質が分泌されているのかを調べることでNDEの秘密を突き止めようとしています。彼は、ふとした偶然から、リチャードはある薬物を使用することで、人工的に臨死体験を経験させることに成功しているのです。そして、その実験の精度をより高めるため、実際に臨死体験者に多く接してきた、経験の豊富なジョアンナに協力を仰ぎます。
 二人は共同で様々な被験者を使い、NDEの謎に取り組みますが、一癖もふた癖もある被験者たちに振り回され、どうもうまくゆきません。最終的には、ジョアンナが自ら被験者となることになります。そしてジョアンナは臨死を体験をするのですが、彼女がその実験の中で訪れた場所は、なんと沈没しつつあるタイタニック号の中なのです。
 ジョアンナは、なぜ自分が臨死体験するたびに同じタイタニック号の中で目覚めるのかを考えます。それに、他の人々のNDEも、タイタニック号での出来事のように思えてきます。しかし、なぜタイタニックなのか。そこには絶対に、何か理由があるはずであり、その理由がわかれば、臨死体験の秘密がわかるに違いないと。やがて彼女は、高校時代のひとりの先生のことを思い出します。その先生は、何かにつけてタイタニックのことを引き合いに出して話す先生でした。ジョアンナは、高校時代にその恩師から聞いた言葉にこそ、秘密の鍵が隠されているに違いないと確信するに至ります。……

 という感じで、上下巻合わせて1200ページを遥かに超える分量で物語は迫ってきますが、面白いので、うんざりすることはないと思います。ぼくは3日で読み切りました。物語は全部で三部に分かれていると書きましたが、その第二部の最後で物語は急転直下、予想もしていなかった展開を見せます。長い間昏睡状態にあった患者が意識を取り戻し、彼から臨死体験を聞かされるのですが、それをヒントに、ジョアンナはようやくNDEの真実を掴みます。しかし、そのことをリチャードに知らせようとした、その矢先に……。
 解説にもあるように、ここまで読んでしまったら、後は一気に読んでしまうと思います。
 リチャードはかなりハンサムで、ジョアンナも美人のようですが、ラブストーリー的な要素はほとんどなく(それどころか、明言はされないけれども、ジョアンナはもしかしたらレズビアンかもしれない)、ひたすらNDE解明のために駆けずり回る人々の姿が描かれているわけですが、最後にはぐっとくる感動が訪れます。それは、様々な登場人物たちから慕われるジョアンナの、人に対する誠実で真摯な愛が、その強い意志のちからで、(決してオカルトではなく)時空を超えて伝わる感動であり、また、様々な災害の中で、多くの、自分を犠牲にしてでも誰かの命を救った人々に対する、深い尊敬の念なのです。


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「怪奇小説という題名の怪奇小説」 都筑道夫著
集英社文庫 集英社刊

を読む。

 長編の怪奇小説の執筆を依頼され、安請け合いしたものの、どうしても思い浮かばずに困っている作家が、苦し紛れに、とりあえずそうした自分の現在の状況からグダグダと書き始めるところから物語は始まる。雑誌連載で、各章がその一回分に相当するという形式をとっているのだが、なんとその第一回目の、「困ったな、なんにも思い浮かばないんだよ」というような章には、なんと著者が以前に訳したというジョン・スタインベックの「蛇」という短編の翻訳がまるまる含まれている。面白い短編なので、それは別にいいのだが、こういうのは初めて見たので、驚いた。この、いかにも「苦し紛れにページを埋めた」的な感じは、なかなか面白いが、計算してなのかそうでないのかはわからないけれど、これがちょっとしたのちの伏線になっているのは、最後まで読まないと気づかない。
 著者は、悩んだ挙句に、海外の、誰も知らないような作家の作品を思い出し、それを盗作しようと企む。全く無名で、当然邦訳もない作品だから、ちょうどいいと思ったわけである。作品名は、「The purple stranger」。作家は、それを元ネタに、日本風にアレンジしながら、一編の怪奇小説をでっちあげることにする。ところが、そんな最中、街の中で彼はもう三十年も昔に死んだはずの従姉妹にそっくりな女性を眼にする……

 といった感じで物語が始まる。最初はメタ・フィクションなのかと思ったら、だんだんとちょっとエロティックな怪奇小説風になり、最後には「え、クトゥルー?」といった感じになるといった、なんとも振れ幅の大きな小説。苦し紛れに始めた連載が、だんだんと物語の体をなしていったのかもしれないし、最初から計算されていたのかもしれないが、変な小説であることは確か。
 ちなみに、解説を道尾秀介が書いていて、サラリーマン時代にたまたま古書店で筒井康隆をさがしていたところ、隣にあった100円のこの本にふと目が止まり、買って読んだところ、衝撃を受けたとあった。そして、都筑道夫の大ファンになり、作家を目指すことにつながった。曰く、「100円で人生を買ったようなものだ」とのこと。道尾という名前は、都筑道夫の「道夫」から頂いたらしい。
 ところで、ぼくもこの本を買ったのは、たまたまブックオフの均一棚で筒井康隆の本を探していたときに、隣にあって、気になったからだ。もっとも、ぼくはこの本で人生が変わるといううようなことは、まったくなさそうであるが。

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「しあわせの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術」 泡坂妻夫著
新潮文庫 新潮社刊

を読む。

 ある新興宗教団体の後継者問題をめぐるミステリーだが、正直なところ、物語そのものよりも、最後に明かされるこの本そのものをめぐるトリックに愕然とした。こんなこと、たとえ思いついても、普通はやらない。というか、できるとは思えない。それを、見事にやってのけているのは、ほんと、唖然としたとしか言いようがない。

……

「夢見る宝石」 シオドア・スタージョン著 永井淳訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

再読。
 
 以前に読んだのは、もう三十年近くも前になるので、水晶が夢見ることで生物を生み出すという曖昧な設定以外、ほとんど忘れてしまっていた。なので、久々に読み返してみて、そうか、そういえばこんな話だったっけか、と思った。
 多少ネタバレになるものの、一言で言ってしまえば、宝石の夢が実体化することで生まれた一人の少年の、数奇な半生を描いた小説。
 鉱物が夢を見るというイメージは素晴らしくて、その一点でずっと記憶に残っていたのだけれど、改めて読み直すと、いろいろと変わった小説だと思った。この前に参加した読書会で、さんざんスタージョンは変だという話を聞いたせいかもしれない。登場人物たちの行動の主人公のホーティには、どういうわけか存在感が希薄なところがあるが、他の登場人物には強烈な存在感がある。特に、養父のアーマンドのゲスっぷりは生々しい。これは、鉱物の側に属しているホーティと生物の側にあるアーマンドの対比ということなのだろうか。
 SFや幻想文学には、「サーカスもの」とでも言うべき作品が結構ある。ブラッドベリの「何かが道をやってくる」やフィニーの「ラーオ博士のサーカス」、リーミイの「沈黙の声」などがその代表的なものだけれど、これもそのひとつ。

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「アムネジア」 稲生平太郎著 角川書店刊

を読む。

 稲生平太郎は、英文学者の横山茂雄さんが小説を書くときに使う筆名である。また、バラードの「残虐行為展覧会」を翻訳した際には、法水金太郎の筆名を使ったこともある。作家としては非常に寡作で、これまでに長編が二つあるだけである。これは、そのうちの一つ。ちなみに、もうひとつは「アクアリウムの夜」という作品だが、ぼくはまだ読んだことがない。
 「アムネジア」のあらすじは、以下のようなもの。

 大阪の小さな出版社に務める主人公は、新聞の片隅に乗っていた、ちいさな記事が心から離れなくなってしまう。それは、ひとりの老人が路上で死んだというだけの記事である。ただひとつ、不思議なことは、その老人は、戸籍上はもうずっと以前に死んでいたという事実だった。なぜかその事件が気になり、調べはじめた主人公は、小さな新聞社の記者と知り合う。そして、死んだ老人は怪しげな発明家であり、それが闇金融の世界、さらには第二次大戦の地下金融とつながっていたということを知る。だがそうして事件を追っているうちに、主人公自身の存在が揺らいでゆく……
 
 わかりやすい小説ではない。一度読んだだけだと、「あれ、何か大切なことを読み飛ばしてしまったのかもしれない」と不安になる。だからといって、再読したからといって、きちんと理解できるわけでもなさそうだ。
 わかるのは、永久機関を発明しようとする者たちと、金融の世界に蠢く一攫千金を狙う人々が、どちらも実はある意味でオカルト的な狂信によって突き動かされているという点で接点があるということ。主人公が、作中の数人の人物とある意味で存在を共有しているらしいということ。その程度である。あと、しいて言えば、作中に登場する奇妙な記号が、もしかしたら「本」という漢字なんじゃないかなと思ったということか。そのあたりから、何らかの説明はできそうな気もするが、正解を探す物語でもないだろうから、それもひとつの解釈にしかならないに違いない
 


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 この前の日曜日、妻と「田浦梅の里」へ出かけた。
 もう随分と前、十年以上も前になるだろうか、一度家族で出かけたことがあって、だから今回は久々の再訪である。
 京急田浦で電車を降りて、国道沿いに延々と歩く。
 JRの高架を超えたあたりで道を折れ、山へと向かう。
 細く、急な道を登ってゆく。
 眺めが次第に良くなってゆく。振り返ると、横須賀の海が見渡せるようになる。
 梅の木のアーチをくぐりながら、急な山道を、さらに山頂へと向かう。
 山頂からは、梅の彼方に、広がる海の光景を見ることができる。この光景が、「田浦梅の里」のウリである。
 この日は、残念ながら梅はまだもうひとつ咲ききっていなくて、花というより、木の枝の向こうに海が見えるといった感じだったが、それでも暖かくて風もほとんどない日だから、とても心地よかった。山頂で、梅の枝の向こうの海を見ながら、妻と並んで、ビールを飲み、弁当を食べた。凧揚げをしている子どもたちが、たくさんいた。
 この梅の里には、フィールドアスレチックがある。
 昔は、娘が喜んでやっていたが、十数年ぶりの再訪で見たアスレチックは、まだあるものの、記憶の中の設備とは随分と変わってしまっていた。すべて、取り替えてしまったようだ。カラフルでスマートで、安全性は増したかもしれないが、あまり面白くなさそうである。もっとも、遊んでいる子どもたちはそれなりに楽しそうだから、余計な感想かもしれないが。
 帰りは、横須賀中央まで歩いた。軍関係者で賑わうドブ板通りをそぞろ歩き、三笠公園に寄って、一休み。米軍施設を目の前にした三笠公園は随分と皮肉な場所だなと、何度来ても思う。なまじ日露戦争にたまたま勝ってしまったから、おかしなことになってしまったのかもしれないね、と妻と話す。そろそろ寒くなり始めていたが、ぼくはここで暮れはじめた海を眺めながら、もう一本ビールを飲んだ。妻は甘いお菓子を食べていた。目の前でたった一羽だけ水鳥が、何度も海に潜ることを繰り返していた。

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「天界の眼: 切れ者キューゲルの冒険」 ジャック・ヴァンス 著  中村融 訳
ジャック・ヴァンス・トレジャリー 国書刊行会刊

を読む。

 「通好み」の作家として、一部に熱狂的なファンのいるヴァンス。かなり高い評価を受けている作家にも、ヴァンスファンであることを公言している人は多い。ぼくはこれまで二作ほど読んできたが、もちろん面白いとは思ったものの、正直言って、なぜそれほど人気が高いのか、よくわからなかった。けれども、この一冊を読んで、ようやく合点がいった。ヴァンスの想像力は軽やかで、こちらの斜め上をゆく。
 最初にタイトルを見たとき、「切れ者」という訳語を採用した意味がよくわからなかった。昔の翻訳ならいざ知らず、いまの時代に「切れ者」という、普段まず使わないような訳語をなぜ使うのだろう?けれども、読んで納得した。確かにキューゲルは、いろんな意味で、振り切れてる。思わず、「うわぁ……最低」と呟きたくなるような人物だ。無責任だし、自分勝手だし、セコいし、思慮が足りないし、厚顔無恥である。基本的に運には見放されてるが、悪運だけは強い。欲望に忠実で、自分のちっぽけな欲望のためにさえ、人が何人死のうが、女を裏切ろうが、なんの恥じることもない。普通のヒロイックファンタジーのヒーローには、あるまじき倫理観である。例えるなら、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウは比較的近いかもしれないが、もう少しダメである。到底、お近づきにはなりたくない。「切れ者」というのは、褒め言葉というより、むしろ悪口なのである。
 物語の基本的な枠組みは単純である。
 キューゲルが〈笑う魔術師〉イウカウヌの宝物を盗みだそうとしたところ、あっさりと見つかってしまい、その罪を許すかわりに、ある宝物を持って来いと命令される。そして〈笑う魔術師〉イウカウヌの魔法によって、はるか彼方の、その宝物があるはずの場所へと飛ばされてしまう。なんとか宝物は手に入れるものの、大変なのはここからである。その場所から、〈笑う魔術師〉イウカウヌのもとへと帰らなくてはならない。イウカウウヌへの復讐(まあ逆恨みなんだけど)を誓い、波乱万丈の旅をする……といったもの。
 連作短編集なのだが、まあ、長編といっていい。この物語のすごいのは、最終話の「ありえなさ」である。まさかこんな終わり方をするとは、想像もしていなかった。力が抜けるというか、ヒロイックファンジーの定石を、ことごとく裏切る展開である。作中に登場するガジェットももちろん素敵だが、きっとこのあたりが、ヴァンスファンにはたまらないんだろう。

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「星空のむこうの国」 小林弘利著
集英社文庫コバルトシリーズ 集英社刊

を読む。再読。

 先日、近所の古書店の均一棚を見ていたら、この本を見つけた。刊行された時(1984年)になんとなく新刊で買って読み、今では内容はまったく覚えていないものの、結構面白かったような記憶があったが、今はもう手元にはない。ちょうどセール中ということで、懐かしくもあったし、近くにあった「里沙の日記」(眉村卓著 集英社コバルトシリーズ)と一緒に、二冊百円で買ってきた。
 夜になって、ちょっとタイトルで検索してみたところ、なんとamazonで2343円からという値がついている。内容を全く覚えてはいないとはいえ、そんなプレミアのつくような内容だったとは考えにくい。試しに同じ著者の他の作品を見てみると、ほとんどが1円からということだから、これだけが飛び抜けて高いわけである。疑問に思い、もう少し調べてみて、理由が判明した。いまだにまだヒットを続けているアニメ映画「君の名は。」。その元ネタとして、一部の人びとの間で、「転校生」と並んでこの作品を原作とした映画が挙げられているようなのだ。それで、映画のDVDはもとより(なんと15,800円より)、この原作も値を上げているということらしい。ということは、まあ、ちょっと儲けたわけなのだろうが、驚いた。
 今のコバルト文庫というのは、もともとは集英社文庫の「コバルトシリーズ」というサブレーベルだった。体裁はずっと同じだったから、いつからコバルトシリーズがコバルト文庫に昇格したのか、はっきりとは覚えていない(wikiによると、1990年頃らしい)。どちらかといえば少女向けのシリーズだったから、本来なら男のぼくが手に取るような機会はなさそうな文庫なのだが、小学校の高学年の頃(1979年ころ)には、松本零士のアニメ映画のノベライズを刊行するようになっていて、ぼくはちょうどその頃に映画の銀河鉄道999にどっぷりとハマっていたから、そのノベライズである若桜木虔の「銀河鉄道999」を買って、夢中になって読んでいたことから、割と馴染みがあったわけである。文庫の紙質も、他の文庫にくらべるとやや厚手で、その割には軽い感じで、気軽に手にとって読みやすいものだった。当時は、文庫の母体である少女向け雑誌「小説ジュニア」も、松本零士がなんと小説を書いて発表していたという理由から、廃刊号を含めて二冊か三冊買った記憶があるし(結構エッチな内容で、こそこそ読んでいた)、増刊号として一度だけ出た「小説ジュニア増刊 cobalt」というやつも、松本零士が載っていたから、買った覚えがある。SFアニメのノベライズが当たったせいだろうか、結構たくさんのライトSFがコバルトシリーズから刊行され、中には風見潤編の「たんぽぽ娘」や山尾悠子の「オットーと魔術師」、あるいはル・グインの「ふたり物語」など、今ではかなりのプレミアのついたタイトルもある。後には新井素子が登場して、最初の頃は買っていた。この本も、多分その流れで買ったのだったと思う。

 で、三十数年ぶりに読んだ、肝心の内容なのだが。もう、ネタバレまで、全部書いてしまいます。

 主人公の昭雄は、このところ同じ美しい少女の夢ばかり見ていた。彼には、その少女が単なる夢の存在には思えない。友人の尾崎に指摘され、彼はその少女の夢を見始めたのが、二週間前の交通事故の直後からだったということに気づく。その事故で、昭雄は間一髪で死を免れたのだった。その事故と夢との因果関係もわからないまま、電車に乗っていたとき、向かいの電車にその少女の姿を目にする。少女も、昭雄の姿を目にして、驚いた様子だった。電車が駅に滑り込み、少女を追いかけ、抱きしめたが、人混みに押されて、見失ってしまう。そしてその帰り、家のドアを開けようとした途端、時空が歪む感じが襲い、何もわからなくなってしまう。
 気がついたとき、確かに彼の家のはずなのに、何か違和感がある。やがて彼は、仏壇に自分の遺影が飾られていることに気づく。いろいろと調べてみたところ、どうやら、昭雄はすでに死んでいるということになっているらしい。そのとき、彼は家の外にあの少女の姿を目にする。少女はまさに、自動車に連れ込まれようとしているところだった。少女も昭雄に気づく。慌てて自転車で車を追いかける昭雄。自動車は、病院へと入ってゆく。そこで、偶然友人の尾崎と出逢う。尾崎の口から、少女の名前が理沙であり、不治の病に侵されていること、また、昭雄の恋人であることが語られる。そして、昭雄が二週間前の交通事故で死んだことも。
 SFマニアである尾崎は、昭雄がパラレルワールドからやってきたという仮説をたてる。死を目前にした理沙が、交通事故で死んだ昭雄に会いたくて、呼び寄せたのだと。二人で病室に忍び込み、理沙に会ったとき、彼女は言う。「やっぱり来てくれたのね。昭雄くんが約束を破るわけないって思ってた」
 昭雄はその約束が何なのか、わからない。分からないながらも、彼女のためにこの世界の昭雄を演じようとする。そして、尾崎らの助けも借りながら、死ぬことを覚悟している彼女を攫い、シリウス流星群を見るために、海へと向かう。しかし、彼女は気づいていた。昭雄が、この世界の昭雄ではないことを。けれども理沙は昭雄に感謝の言葉を告げて、シリウス流星群の流れる星空の下、昭雄の腕の中で息を引き取る。それを見届けるように、昭雄の姿もその世界から消滅する。
 場面が変わって、いつものように朝目覚めた昭雄。ちょっとした違和感を感じながらも、いつものように学校に向かう。その途中、トラックに跳ね飛ばされてしまう。
 気がつくと、病院に運ばれていた。怪我はしたものの、命には別状はないらしい。その病院で、昭雄は弟の見舞いに来たという少女と出逢う。なんだか、彼女のことは、とてもよく知っているような。少女の名前は、理沙、といった。
 ふたたび、場面が代わり、理沙と昭雄がいなくなってしまった世界に取り残された尾崎は、手にふたつの花束を持って、あの日に流星群を見た岬に立っている。尾崎はふたりのことを思い出しながら、考えている。今自分がいる世界と、あの昭雄がいたという世界は、きっと隣り合ったパラレルワールドなのだと。けれども、ちょっとしたハプニングでその差があまりにも開きすぎたため、時空が自浄作用として、時間を戻そうとしたに違いない。本来なら、昭雄が怪我をして理沙と出逢うという世界があったはずなのだ。今頃はきっと、ふたりは再び出会って、正しい時間をやりなおしているに違いない――。

 といったもの。
 平行宇宙の扱いはもちろん、今読むとなんだかいろいろツッコミどころが多すぎて、本当にあの当時これを読んで結構面白いと思ったのかなあという気がしてしまうが、少し切なくて、けれども爽やかな青春小説には違いないわけで、十代半ばだったから、素直に楽しめたのだろうと思う。「君の名は。」は観ていないので、なんとも言えないけれど、いくら何でももうちょっとアップデートしたストーリーのはず。映画館に行くつもりは今のところないけれど、DVDになったら、「君の名は。」も観てみようと思う。



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「失踪者たちの画家」 ポール・ラファージ著 柴田元幸訳
中央公論新社刊

を読む。

 主人公のフランクは孤児として、友人のジェームズの家で育つが、成人した後にジェームズとともに家を出て、両親の写真に写っていた街に行き、下宿にふたりで住みはじめる。その街で、フランクは絵を描くことを覚える。やがてジェームズは下宿の娘のひとりと駆け落ちしてしまい、一文無しで残されたフランクは下宿の仕事をしながらそのまま部屋に住み続ける。あるとき、両親の写真に写っていた通りで、向かいのアパートに住んでいる女性と偶然出くわす。ブルーデンスというその女性は、警察に頼まれて死体を撮影する仕事をしている。それから、フランクは死体を撮影する彼女についてゆくようになる。フランクは彼女を愛するようになるが、ブルーデンスは突然失踪してしまう。彼女を探すため、似顔絵を書いてポスターにすることを思いつくが、それをきっかけに、フランクはさまざまな人々の要望に答えて、失踪者たちの似顔絵を描くようになる。彼の絵は評判を呼ぶが、それが原因で彼は逮捕され、投獄されてしまう……という感じで、物語は始まるのだが、これでは全く説明ができていないように感じる。あとがきにもあったけれど、ストーリーを説明することが、とても難しい小説。もっともそれは、ぼくが最後の方でちょっと混乱してしまったからかもしれない。再読すれば、もっと細部にまで意識が行き届いて、全体像がちゃんと見渡せるようになるのかもしれない。カバーをはじめ、スティーブン・アルコーンの版画がいくつも挿入されているのだが、非常に独特な距離感を持つ風景描写を読みながら、ずっとその版画のイメージがついてまわった。幻想的で独創的な世界を描いているのだが、どこか書き割り的でもあるという印象も受けたせいかもしれない。例えば、小劇団の演劇の内容を紹介するのが難しいのと、少し似ている気がする。
 ストーリー全体から受けた印象は、訳者のせいもあるのかもしれないが、ポール・オースターとスティーヴ・エリクソンとスティーヴン・ミルハウザーを、同じくらい思い出させた。つまり、オースターのように孤独で、エリクソンのように魔術的で、ミルハウザーのようにオブジェ志向であるという意味。もっとも、言い方を変えれば、ある意味で近しいその三者を引き合いに出せてしまうのだから、圧倒的な個性というのとは、ちょっと違うのかもしれない。

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 先の日曜日、「奇妙な世界の片隅で」というサイトを運営されているkazuouさんが主催する「怪奇幻想読書倶楽部」という読書会に参加させていただきました。ちょっと特殊な翻訳小説について、あれだけたっぷりと話をするのはおそらく初めてのことで、なかなか得がたい、貴重な経験でした。こんなに詳しい人がたくさんいるのだからと、これからの読書に弾みがつきそうです。

 今日は午後から妻と近所の小金井公園に出かけ、梅見をしてきました。もう満開になっている白梅も結構あって、辺りにはよい香りが漂っていました。紅梅はもう少しのようでした。暖かい、穏やかな花見日和でした。


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「超革命的中学生集団」 平井和正著 
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊

を読む。

 均一棚に並んでいたのを買ってきて、読んだ。今から30年ほど前には、均一棚の常連本だった気がするが、最近はさすがにあまり見かけなくなっていた。
 以前、日本初のライトノベルはこの本だということを何かで目にして(多分、大森望さんのエッセイ)、結構説得されてしまった記憶があったので、つい買ってしまったのだが、もしかしたらはるか昔、読んだことがあったかもしれない。幻魔大戦の頃、平井和正はまとめて結構読んだ記憶があるので、十分にありうる。ただ、内容を全く覚えていないだけで(笑)。
 しかし、忘れてしまっていたとしても仕方がないほど、内容はひたすらくだらない。この作品には、平井和正周辺にいた実在の人物が実名で登場する。主人公の横田順弥が番長の鏡明(どちらも有名なSF畑の人ですね)と決闘をすることになったのだが、その場所にUFOが現れて、その場にいた二人を、取り巻きともども誘拐し、地球人は凶暴でとんでもない種族だから、お前たちに超能力を与えて、その力のせいで人類が自滅するか、それとも良い方向に向かうかを見ることにすると一方的に決められてしまい、さてどうなるか、といった内容で、完全に内輪で盛り上がるための、お遊びのドタバタ(ヨコジュンだから「ハチャハチャ」と言ったほうがいいのか)劇である。だけど、ストーリーといい文体といい、それから永井豪のお色気イラストといい、ライトノベル第一号というのは、納得のゆくものだった。
 しかし考えてみれば、昔からSFほどファンと作家との距離が近い小説の分野は少ない気がする。ファンとの交流イベントであるSF大会は今でも続いているし、文学フリマなどにも、SF作家の方は結構参加されている。SFファンダムがコミケの母体となったのも、必然の流れだったのだろうと素直に思える。
 平井和正も、すでに鬼籍に入られたが、幻魔大戦を書いている途中で変な方に行ってしまったのは残念だった。サイボーグ・ブルースとか、とても印象に残っているのだが、スピリチュアルに走ってからは、次第に読まなくなってしまった。ウルフガイなどのシリーズも巻き込みながら迷走していった(らしい)幻魔大戦も、なんと一応完結しているらしいが、最終章はとんでもない値段がついていて簡単には手に入らないようだし、それだけ払ってまで読みたいとも思わない。しかしもしかしたら、まさに幻魔大戦こそが、平井和正という存在が発する、内なる声の希求そのものだったのかもしれない。そんなふうに思えば、まさにライフワークの名にふさわしい作品なのだろう。

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「この人を見よ」 マイケル・ムアコック著 峯岸久訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

を読む。

 現在、ムアコックといえば「エターナル・チャンピオン」サーガの作家だというのが普通の認識だろうし、実際新刊で手に入るものもそれだけのはず。けれども、80年台半ばに日本でエルリックが人気を博した頃、いやいやムアコックはそれだけの作家ではないんだとして、盛んに取り上げられていた作品がこの「この人を見よ」だった。だから、タイトルだけは強烈に刷り込まれていたが、実際に読もうとまで思ったことはなかった。それがこの前、ふと古書店の均一棚にこれが並んでいたのを目にして、なんだかちょっと懐かしくなって、一度読んでみるかと買ってきた。
 イエスの最後を見届けたいと考えた現代の若者が、タイムマシンに乗って過去に行ったところ、いつのまにかキリストとして崇められ、処刑されてしまうというストーリー自体はなんとなく知っていたから、特に感動したとか、そういいうことはなかったけれども、さすがに編集者としてニューウェーブ運動の中心にいた人物だけあって、思っていた以上に文学寄りの書き方をしているなと思った。もしかしたら、多少自伝的な要素もあるのかもしれない。あと、ぼくのようにクリスチャンでもなんでもない人にとってみればどうということもないけれども、経験なクリスチャンにしてみれば、かなりスキャンダラスで、抵抗のある作品なのかもしれないなとは、やはり思った。特に、聖母マリアの書き方には、結構抵抗のある人が多いのではないだろうか。

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「いろいろのはなし」  グリゴリー・オステル 著 / 毛利公美訳
はじめて出逢う世界のおはなし―ロシア編 東宣出版刊

を読む。

 閉園後の遊園地で、眠りにつく前の回転木馬たちがいつものように園長さんに寝物語をねだるところから物語は始まる。ところが、園長さんは「もう話す物語はたったひとつしかないから、これが最後の物語だよ」と木馬たちに言ってから、物語を話しはじめる。最後の物語と聞いて、いつもお話を楽しみにしていた木馬たちは、少しでも長く聞いていたいと、その物語が終わる前に口を出す。「ところで、そのおまわりさんとおばあさん、友達になったんでしょう?それから、いろいろあったんじゃない?」こうして、サイドストーリーがサイドストーリーを生みながら、物語は大きく膨れ上がってゆき、最終的には42話にまでなって、大団円を迎える――という物語。
 解説によると、「ロシア初のハイパーテクスト物語」とも呼ばれているらしいこの本は、けれどもそんな難しい肩書はなくとも、子供にも十分に楽しめる(いや、もともと子供向けの作品なのだろう)、荒唐無稽だけれども、ところどころに深い洞察を垣間見せる、おもちゃ箱のような楽しい童話に仕上がっている。登場人物(人じゃないことも多いんだけど)たちはすべて愛すべきキャラクターたちである。子供がいたなら、実際に寝物語に、この本を読んであげるのも、きっといいんじゃないかと思う。
 ところでこの「はじめて出逢う世界のおはなし」というシリーズ、あまり話題にもなっていないようだけど、なかなか興味深いラインナップが並んでいる。ディーノ・ブッツァーティの長編が入っているのもさることながら、なんと、かつて妖精文庫から出ていたイルゼ・アイヒンガーの「より大きな希望」が新訳で入っているのは驚いた。妖精文庫版「より大きな希望」は、ぼくにはとても大切な小説の一つで、こうした形ででも復刊されるのは嬉しい。第二次大戦下の、ユダヤ人とのハーフの少女の物語で、「詩的ではあるが暗くて救いのない小説」かもしれないけれども、こちらの姿勢を正させるような、真摯な力に貫かれている。新訳になってどう変わったのか、いずれ読んでみたいと思う。


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「水蜘蛛」 マルセル・ベアリュ著 田中義廣訳
ソムニウム叢書 エディシオン・アルシーヴ刊

を読む。

 表題作の「水蜘蛛」と最後に収められた「百合と血」の、比較的長めの短編の間に、掌編といっていいほどの短編が三編収められた短編集。どの作品も、何かの象徴であるかのような物語になっている。
 表題作の「水蜘蛛」は、ちょっとルドンの絵を思い出すようなところがあるけれど、正妻を捨てて愛人にのめり込む男の、ドロドロの関係を幻想文学に昇華した作品だと受け取った。著者の経歴を見ると、相当に女好きという気がするので、もしかしたら半ば自伝的なものなのかもしれないとも思ったり。次に収められた短編「向かいの家」も、その延長線上にある気がした。
 もうひとつの長めの短編「百合と血」は、百合の花の栽培にのめり込む男の話で、今となってはよくあるといえばよくある話。ただ、この手の話はたいていエログロになってしまうが、これはそうではなく、比較的上品に仕上がっている。
 残りの、ごく短い短編二つのうち、「最後の瞬間」は、鉄道を題材にした作品。まるで見た夢をそのまま作品にしたかのようだが、やや哲学的とも受け取れる。70年台の日本のサブカルチャー界で、この手のものが流行ったような印象がある。最も短い(たった2ページ)「読書熱」は、本を読みすぎた挙句体が消滅して頭だけになってしまう男の、ユーモラスな奇想小説だった。


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「ラベンダー・ドラゴン」 イーデン・フィルポッツ著 安田均訳
ハヤカワ文庫FT 早川書房刊

を読む。

 長らく入手困難だった「誰が駒鳥を殺したか?」が、去年、約半世紀ぶりの新訳で再刊されたことでも話題になったフィルポッツのファンタジー小説。
 FT8というから、ハヤカワ文庫FTの中でも最初期のラインナップになるが、初期のFTは、幻想文学愛好家にとってもなかなか興味深い、アダルトファンタジー的な作品が多く並んでいた。これも、そうした一冊といっていいだろう。
 ストーリー自体は非常に単純。
 「ラベンダー・ドラゴン」と呼ばれる、ラベンダーの香りのするドラゴンが、ある村の人々をさらっていって食べてしまうというのを耳にしたある騎士が、それならば自分がそのドラゴンを退治してやろうと宣言し、ドラゴンに立ち向かうのだが、実はそのドラゴンがさらってくるのはさまざまな理由で不幸な境遇にある人々ばかりで、ドラゴンはさらってきた人々に尊敬されながら、理想的な村を建設していたという物語である。つまり、急速に進む文明化に対して警鐘を鳴らす物語のひとつであり、今読んで特に目新しいものでもないが、ドラゴンといえば悪役が当たり前であったであろう当時(1923年)には、子どもたちにはなかなか新鮮だったのではないだろうか。
 物語の最後でラベンダー・ドラゴンは死に、新しい時代に滑り込んでゆく。中世から近代へ、ということなのだろうが、このドラゴンの最期には、ただ口をつぐんで、しんみりとしてしまう。
 「昔むかし、ラベンダー・ドラゴンと呼ばれる龍がおってなあ……」
 そんな昔ばなしにこそ似合う物語だった。

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