兵藤恵昭の日記 田舎町の世間談義

日頃、思っていること、考えていることを非論理的に、情緒的に書きます。

義賊・鼠小僧次郎吉という人

2017年07月14日 | 歴史
鼠小僧といえば、時代劇ファンでなくとも名前ぐらいは知っているだろう。100軒以上の大名屋敷に忍び込み、3,000両以上の金子を盗み出し、義賊として芝居や講談で取り上げられた。盗賊の中でもヒーロー的存在である。しかし、その実体、素顔はあまり知られていない。

次郎吉が生まれたのは、寛政9年(1797年)江戸新和泉町(現在の中央区人形町3丁目)、父親は定治郎、歌舞伎芝居の出方(案内、接待係)を務めていた。定治郎は片目が不自由で、「めっかち定」と呼ばれた。次郎吉もひどい近視で、身長は5尺に満たない小男であった。父親は次郎吉が処刑される3年前に亡くなっている。父親は次郎吉が盗賊稼業をしていることうすうす気づいていたようだ。次郎吉は父親の働く歌舞伎芝居の役者や仲間が困っていたときは金銭の支援をしていたからだ。

(盗賊名) 鼠小僧次郎吉   (本名) 次郎吉(治郎吉とも言う)
(生没年) 寛政9年(1797年)~天保3年(1832年)  享年36歳
       小塚原刑場で獄門処刑。

次郎吉は、14歳で神田紺屋町の箱職人に奉公に出るがバクチに没頭。16歳で親元に戻り、箱職人の手間賃雇いになるも、バクチは収まらず、鳶の部屋に出入り、代役も務めた。27歳頃、遊びやバクチの金欲しさに武家屋敷に盗み入るようになる。武家屋敷は、外囲は厳重でも中に入れば、警備は緩く、盗みやすい。特に奥女中の部屋は男は入れず、存分に盗みができた。

次郎吉は盗みに入るとき、塀を乗り越えるだけでなく、演技力があり、門番に「だれだれに面会の用事があると嘘を言って、堂々と屋敷内に入り、盗みをしている。

盗んだ金は、吉原、バクチで使い、バクチで丸裸になった人には惜しみなく金銭を与えた。また、関係した女たちに難が及ばないよう、逮捕前に離縁状を渡し、一人住まいの女には、大家や近所に贈り物をし、細かい気配りをしている。

次郎吉は松平宮内小輔の屋敷で捕えられ、今にも殺されようとしたとき、「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受けてから処刑されたい。」と願い出た。その理由を聞くと、「俺が盗みに入った屋敷では、その責任をとって切腹した人もいる。金銀が紛失したので疑われている人も多い。奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい。」と言った。

ひとくちに白状と言っても10年以上もさかのぼるが、次郎吉は記憶力も良く、お詫びの気持ちもあり、可能な限り詳しく犯行を供述した。これも次郎吉が義賊と言われる理由の一つかもしれない。また、捕まった時はろくな家財道具も金も残していなかった。獄門引き回しの時も、薄化粧の口紅姿で、悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えていたという。

鼠小僧次郎吉の墓は両国回向院の墓が有名である。そのほかにも愛媛県松山市、岐阜県各務原市にも墓がある。これらは義賊次郎吉に恩義を受けた人たちが建てた墓と伝えられている。
写真は愛知県蒲郡市JR蒲郡駅近くの委空寺にある鼠小僧次郎吉の墓。

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