兵藤恵昭の日記 田舎町の世間談義

日頃、思っていること、考えていることを非論理的に、情緒的に書きます。

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美談で作られた火消の頭・新門辰五郎という人

2017年02月13日 | 歴史
新門辰五郎は、江戸浅草金竜山浅草寺に住み、鳶仕事師の親分、町火消十番組の頭であり、浅草寺の香具師、大道商人の総元締めである。

辰五郎は、寛政12年(1800年)下谷山崎町飾り職人中村金八郎の長男として生まれ、その後、上野輪王寺の家来町田仁衛門の養子となった。新門という名は、倫王門跡宮が浅草寺別当の伝法院へ隠居したとき、浅草凌雲閣付近に新門を作り、その番人に町田を任命したことによる。しかし、町田家は生活困難なため、辰五郎はほとんど教育を授けず、鳶職の小僧となる。従って辰五郎は一生涯、一字も知らなかったという。

江戸の火消は町火消と武家火消がある。武家火消は幕府旗本支配下の定火消と大名火消がある。辰五郎の町火消十番組は総勢731人で、町火消の最後にあたり、人数も一番少なかった。そのため、他の町火消、武家火消に対する対抗心も強く、常日頃は鳶人足をしながらも、博打好きで粗暴な振る舞いをする者が多かった。

たまたま、大名火消の柳川藩火消との間で喧嘩があり、柳川火消側に十数名の死傷者が出た。これにより辰五郎は江戸追放となるも、夜には妻妾の家に戻り、配下を指示したため、さらに佃島送りとなる。この佃島で小金井小次郎と知り合い、本郷円山からの火事が佃島に及んだ際、小次郎と二人で囚人を指導して火消に努め、その功により赦免されたという。

博徒の親分と鳶の頭の違いは、鳶の頭は町民支援の手前もあって、浮浪者を居候にしないが、博徒の親分はその気兼ねがなく、浮浪者、無宿人を食客とする点に違いがある。その点では辰五郎は、勢力範囲が浅草一帯で、香具師、大道商人の売上のカスリが収入の中心のため、町民に対する気兼ねもなく、浮浪者も遠慮なく置き、スリ、誘拐者など無法者も支配下に置いた。そのカスリ銭、付け届けの金を押し入れに投げ込んでおいたところ、重さで床が抜けたという。弱者には強く凶暴であっても、強者には極めて従順であったのが辰五郎の本質である。

新門辰五郎は、娘が徳川慶喜の愛妾であった関係で、慶喜が京都警備で上京した際には、子分300人を連れて随行している。また、慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ、開陽艦に乗って江戸に逃げ帰った時には、大阪城に大金扇の馬印を置き忘れ、辰五郎がこれを城内から持ち出し、陸路東海道から江戸に持ち帰った。慶喜が水戸へ謹慎となった時は、2万両の用金を辰五郎が水戸へ輸送したという。

これらが後日、美談として伝えられている。しかし、当時、官軍側がそれほど優位な情勢ではなく、権力中心は幕府にあり、判官贔屓の江戸庶民の気持ちが辰五郎の美談につながったもので、褒めるほどの事ではない。唯、辰五郎が、徳川氏を天皇より上に考えていたことは事実である。明治になって、祭礼の提灯に、上に日の丸、下に葵の紋がつけてあるのを見て、怒った彼は、提灯を破り捨てたという。

明治8年(1875年)9月馬道の自宅で、76歳で病没した。辞世の歌に

   「思いおく、まぐろの刺身、ふぐと汁

       ふっくりぼぼに、どぶろくの味」

真偽の程はわからないが、好きなものを並べたもので、上品な歌ではない。

(参照)新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎という人

写真は辰五郎の墓。東京板橋巣鴨の盛雲寺にある。

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