夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

脱官僚

2009-07-29 07:43:29 | Weblog
この言葉、マスコミや政治家の口からよく聞く。しかし、何が問題になるのかよくわからない。官僚は、単に役人の組織ではないか。役人の組織がいかなる問題を起こすのか。
マスコミや政治家の言うところを聞いていると、官に限らぬ組織の通弊を理解していないのではないかと思う。天下りは新聞社もテレビ局もやっている。世間一般、大企業はやっている。その違いがわからない。
政治家の言うことを聞かない。マスコミの議論に耳を貸さない。これもありそうなことである。しかし、私も社長の具体的な指示を、その非現実性故に聞かない、いや聞けないことが多々あった。直截ではないにしても、意見することも衝突することもあった。
この様なことは、いいか悪いかは別にして組織の通弊である。そして、そういうものであると理解した上で組織というツールは使っていかなければならない。
民主党の主張に、国会議員を役所に入れるなどと言うアイデアがあったようであるが、何もわからない人間を入れたところで組織の効率が落ちるだけであろう。自然災害に際して説明する人間が増える、説得する人間が増える。そんなことが当然予想される。実務的でないアイデアもでる。
さて公務員という存在であるが、オープンな採用試験を前提としている。公平、公正ななかなか難しい試験にパスして始めて公務員となる。それを、政治家任用を増やすとなれば試験はパスしていないが選挙に当選している人が有資格者となる。確かに試験に合格していることは有用であるという証左ではない。しかし、情実は排除する。そして国民みんなに開かれてフェアーである。むしろ情実排除の手法として発展してきたというのが本当のところかもしれない。
今でも、官公庁の中で議員に便宜を図る議員案件などがあると聞く。官僚が言うことを聞かないから、議員を官僚機構に入れる。すると情実はそのまま執行できる。裏口入学の斡旋も行政の斡旋になるであろう。土木工事の発注もそうなるかもしれない。
行政と立法を分けたのは、選挙によって選ばれた議員が余りにもストレートに選挙民の利害を反映させるのを防ぐ、それがダイレクトに行政に反映しないよう、バッファーをおくという制度論でもあろう。議員は常に選挙民の顔を向いている。先ず議員間の議論があって始めて国民の意思が醸成される。そして、それが行政に反映される。行政は単なる執行機関である。
こんな分かり切ったことが長い期間にわたって「脱官僚」などと言う主張とともに、なぜ議論されてきたかというと、政治家にもマスコミにも青写真がないからであろう。大きな目標を指し示すことが出来ないから、目の前の小異で、言うことを聞いた、聞かなかったの議論に堕する。巨大な組織に正しい方向性を示してその実行を指揮していく、それが政治家の仕事であろう。そして、そんな政治家をきちんと育てる、それが国民であろう。
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