曹洞宗の禅僧、南直哉師を初めて知ったのは、茂木先生のクオリア日記だった。お二人が一昨年「考える人」の企画で初めて対談され、二号にわたって掲載された。(2005年冬号、春号)もともと一号だけだった予定が、あまりに面白い内容なので二号になったのだそうだ。
南師の言葉には強く感銘を受けるものが多く、昨夏のお二人の対談の音声ファイル(ここからDLできます)はNetwork Walkmanに入れて繰り返し聴いている。張りのある声、聴く者を惹きつける語り口は、長年の修行の現れなのだろうか。
印象に残っている言葉をすこし。
「仏教とは、なにか決定的な答えを苦しむ人に
与えるというものではなく、生き方のテクニックだと
思う。問題があったとしてもどうやって切り抜けて
いくかという話だと思う。」
「ある苦しみがあったとしても、そこにはその
苦しみを成立させている時と場合と条件とがある。
が、人は苦しい時、自分だけが苦しく、その
苦しみはずっと続くかのように思ってしまうが、
起こっている苦しみをまずはよく見なければならない。」
「このコップは、私が水を飲むからコップなのであり、
そのときの私という存在は"水を飲む私"としてしか
存在しない、だから道元禅師は作法と言う。行いの
ありようが人のありようを決める。」
師の考えについてもう少し知りたいと思い、著書「問いから始まる仏教」を読んでいる。「自我とは自己の存在根拠のことであり、それは"非己: 自己に非ざる何か"との関わり合いの中にしかない」という縁起についての考え方、「非己の理解しがたさを受け容れ、わからないながらも大切に思う、扱う。そこから相手への敬意、畏敬の念が生まれる」など、日々の自分の考え方や態度についてハッとさせられることがとても多い。対話形式で書かれていて読み易いが、内容はやはり難しく、行きつ戻りつの繰り返し。それでも通勤時にこういう本を読むと、気分がすこし落ち着くような感じがする。(そしてオフィスに着いた途端あっという間に忘れ、分からないと不平を言い、およそ敬意のかけらも感じられないような態度を取りつつ一日を過ごしてしまう。)
ところで、読んで首肯しているだけじゃいかん、実際に座禅を体験してみようと、知人たちと計画をめぐらせているところ。横浜には総持寺があり、一般向けの参禅会を開いているそうなので、近々行ってみようと思っている。
でも、足の関節がとにかく硬いから、ちょっとやってみたけど半跏趺坐もかなり厳しい。バシバシ叩かれるかも。今からけっこう不安。ハハ...。









