パク・シフ贔屓ぱくのしふ道

へっぽこ探偵団より愛を込めて

ロコレさんの記事より~

2017-05-26 15:23:38 | 韓国について

ロコレ

なぜ朝鮮王朝が寄贈した鐘が今も東照宮にあるのか

朝鮮王朝が徳川幕府に贈った鐘が東照宮に現存している

全12回のうちの3回

江戸時代、

朝鮮王朝が日本に派遣した朝鮮通信使は、

徳川幕府で新しい将軍が就任したときに

その祝賀を目的に来日することが多かった。

それだけに、

徳川幕府は最高の格式で彼らを迎えた。

朝鮮通信使の一行は毎回、

正使、副使、従事官を頂点とする400人から500人の規模だった。

随員として儒者、知識人、芸術家、医師なども同行し、

江戸に至る道中で盛んに地元の人たちと文化的な交わりをもった。

いわば、

朝鮮通信使は外交使節であると同時に、

文化交流使節でもあったのだ。

通常であれば、

朝鮮通信使は江戸城で国書の交換を行なったのちに帰路につくのだが、

全12回のうちで3回だけ、

江戸での公式日程を終えたあとに日光の東照宮を訪れている。

それは、

徳川幕府側の強い要請があったからだ。

そこには、

朝鮮通信使の来日を

徳川幕府の正統性を世に知らしめる好機にしたいという思惑もあった。

KIMG0041

平成の大修復が終わった陽明門

徳川幕府からの要請

朝鮮王朝が東照宮に寄贈した鐘が今も残っていて、

観光客も自由に見ることができる。

その鐘は、

陽明門の手前の右側に置かれている。

鐘をよく見ると、

古色を帯びた銅製ではあるが、

「朝鮮王朝から贈られたもの」であることを示す

銘文をはっきり読み取ることができる。

この鐘が贈られるときには、

次のような逸話があった。

最初に鐘を寄贈してほしいと朝鮮王朝に頼んだのは徳川幕府だった。

それは、

第5回目の朝鮮通信使の来日が計画された頃である。

実際には寛永20年(1643年)に来日が実現しているが、

その準備段階で

徳川幕府が朝鮮王朝に伝達した希望の進物の中に鐘が入っていた。

東照宮の存在に箔を付けるためには、

外国で鋳造された鐘こそが最適だと徳川幕府は考えたようだ。

しかし、

当時の朝鮮半島では銅が不足しており、

朝鮮王朝も

徳川幕府の要望をすんなり受け入れることができなかった。

そこで、

やむなく丁重に断ったのだが、

それでも徳川幕府はあきらめなかった。

「銅を対馬から提供するのでぜひ鐘をお願いしたい」

徳川幕府は再度要請した。

朝鮮王朝も、

銅の提供を受けるとあれば鐘の鋳造を断る理由を見つけられない。

日本との関係を悪化させないためにも渋々了承したのである。

KIMG0048

鐘の銘文には、朝鮮王朝から寄贈されたものであることが記されている

朝鮮通信使の驚き

寛永20年(1643年)6月、

朝鮮通信使の来日に先立って鐘は海路で江戸に運ばれたあと、

さらに日光に送られた。

先に覆屋は完成しており、到着した鐘は丁重に懸けられた。

それが、

今も現存している鐘である。

高さは110センチで外径は90センチ。

鐘の龍頭の下には、

朝鮮で鋳造された鐘の特徴である孔があり、

そこから別称で「虫喰鐘」と呼ばれるようにもなった。

その鐘が、

今では拝観料さえ払えば誰もが気軽に見ることができる。

このように、

歴史は秘蔵されるものではなく、

今も生々しく実感するものなのである。

それにしても、

現代の日光は多くの外国人観光客を集めているが、

原点に戻れば、

最初にこの地を訪れた外国人は

朝鮮通信使の一行であった。

彼らは東照宮の壮麗さを日記に克明に記している。

時代が変わっても、

東照宮が多くの人を魅了するという点は変わらない。

朝鮮通信使の驚きは、

現代の外国人観光客の驚きでもある。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

http://syukakusha.com/2017/05/25/%e3%81%aa%e3%81%9c%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e7%8e%8b%e6%9c%9d%e3%81%8c%e5%af%84%e8%b4%88%e3%81%97%e3%81%9f%e9%90%98%e3%81%8c%e4%bb%8a%e3%82%82%e6%9d%b1%e7%85%a7%e5%ae%ae%e3%81%ab%e3%81%82%e3%82%8b%e3%81%ae/


コメントを投稿