なぜファッションに興味がないのかについての考察 その3

2013年11月23日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 中島らもさんは、女子高生

 

 「なんで、そんな自由にしていられるのか」

 

 とのぶしつけな質問に、


 
 「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね(中略)そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」



 私はここに、自らのファッション音痴を解き明かすが、あるような気がした。

 そう、私は自分にあまり興味がない。

 昔からそうだが、自分という存在に、あまり重きをおいていない。

 といっても「自分が嫌い」というわけでもない。

 自己嫌悪というのは自己愛の裏返しで、それだけ自分に深く、コミットしているということだから。

 そうではなく、の反対は「憎悪」ではなく「無関心」といわれるが、どうも私には「自分」というものが、この世界の中で、さほど重要なものとは感じられないのだ。

 もちろん、自意識や自己愛というものは皆無ではない。

 それなりに自分のことは興味深いし、つきあえば、そこそこには楽しめる人間ではないかとも思っている。

 が、まあその程度。

 思春期にありがちな

 

 「自分とはなんなのか」

 「なんのために生きているのか」

 

 といった煩悶には無縁だった。

 「自分探しの旅」など、どう考えても、たいしたものは見つからんだろうなあと、検討の余地すらない。

 私の場合はやや極端かもしれないが、だから、らもさんの言うことはよくわかるつもりだ。

 そもそも自分を飾って

 「より良く見せよう

 と考えるという発想が、根源的にないのだ。

 着飾ってほめられたら、そらうれしくないことはないが、たぶんそれは「おしゃれな人」の10分の1程度の感動だろう。

 そこまでのもんじゃないし。そんなことより、もっと楽しい話がしたい。

 ライターの吉田豪さんは自分のことを話さない理由に、プライベートをさらして、仕事に支障をきたしたくないというのの他に、



 「自分のことって、おもしろくないんですよ。それより、世に中にはみんなの知らない、すごいおもしろい人やモノがあるって言いたいんです」



 というようなことを、おっしゃっていた。

 同じだ。おそらく豪さんも、ファッションに関しては「こっちチーム」ではあるまいか。

 ということは、逆に考えればこうなる。

 ファッションが好きだったり、自分がどう見られるかにこだわったりする人というのは、これはもう

 「自分が好き

 「自分を大事にしている」

 という人に他ならない。

 というと、なんだかただのナルシストか自己中のようだが、そうではない。

 人間にとって、自分を愛し、自分を肯定し、自分をより良く見られるよう努力することは、きわめて健全なことである。

 だからファッションが好きな人というのは、きっともうちょっと人生についてポジティブであり、それはたぶん「良きこと」のような気はする。

 これは、ミュージシャンである大槻ケンヂさんも、似たようなことを言っていた。

 オーケンもまた、ファッションに興味がなく、自分に着るもののセンスがそなわっていないことを、自覚していたそうな。

 で、あるライブの時、ファンの女の子がヒラヒラのついたドレスみたいな服を着て、踊ったり跳んだりはねたりしているのを見て、天啓のようにひらめいたという。

 そうか、彼女たちは、自分を大事にしているんだ。

 だからきれいな服を着て、よりよく、美しく見せようとする。

 そういう風に思えるということは、これはもう

 「全面的な自己の肯定」

 であると。

 たぶんこの「自己の肯定感」の大小が、単に

 「うん、この服いけてる」

 「オレってマジかっけー」

 といったポジティブなものから、

 「自分を肯定してもらいたい」

 「自分こそ、まさに自分自身を肯定してあげたい」

 という切実な願いがまで、ファッションへの関心の度合いと比例しているのだと思う。

 私やらもさんや、オーケンみたいなタイプは、それが低い。

 そしておそらく、それはある意味「自由」でもあるのだ。

 「自分を大事にする」「自分自身を肯定する」という、努力失望から開放される「自由」。

 たしかに、人によっては「うらやまし」いものであり、「可哀想」かもしれない。

 そのことがわかったときに「なるほど」と腑に落ちたものだ。

 ファッション音痴全員がそうとはいわないけど、まあそこそこの数は、このことが理由の一端にもなっているのではなかろうか。

 

 「自己アピールより、【自分以外のおもしろいもの】に興味が深い」

 「自我という、重たくも愛すべきものから、良くも悪くも多少は自由である」

 

 だから、自分を飾るなどという「めんどくさい」ことはしたくない。

 以上が私の考えるところの、ファッション音痴な人の特徴だ。

 前回のお寺の子は、きっと「自己の肯定感」が強い。

 ゆえに「自由」が侵食され悩ましい、と。

 どちらがいいかは、もうその人次第です。

 自分の意思で選べるかどうかも、わかんないし。

 もちろんこれは個人的な考えで、中には



 「流行りのファッションなど、マスコミの情報操作だから乗りたくない」



 といった硬派な人とか、



 「オシャレしたいけどセンスがないから、あえて興味のないフリをしている」



 といった、すっぱいブドウ型の人なんてのもいるだろう。

 すべての人が、そうとは言わないけど、まあ私は少なくとも、このタイプに近い。

 ともかくも、我々チームはそのモチベーションに劣るところはあるから、今さら着るもののセンスをみがけというのも、たぶん無理

 せめてもの対策はこれくらいで、

 「なんとか、見た人が不快に思わない清潔感ある格好をする」

 そう、「ファッションに興味のない【自由】な人」にとって服装を選ぶというのは「不自由に遭遇」してしまったときに余儀なくされる「撤退戦」なのだ。

 「戦果」よりも、いかに「ダメージを軽減するか」が大事。

 その先に「勝ち」はなく、士気も低い戦いで大変だが、服は着ないといけないからなあ。

 同胞諸君、健闘を祈る。




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