「いい人だと思われたら終わり」と鈴木大介八段は言った 羽生善治vs森下卓 編 その2

2017年02月22日 | 将棋・囲碁・ゲーム
 前回(→こちら)の続き。

 C級1組最終戦で戦うことになった羽生善治竜王と森下卓六段。

 この一番は、単なる順位戦の一局という枠におさまらない因縁があった。

 羽生と森下は、次代の将棋界をになうライバル同士だが、同時に友人同士でもある。森下は勝てば昇級だが、羽生は全勝昇級をすでに決めており消化試合。

 森下には悲壮だが、羽生には気楽な勝負。そしてもう一度いうが、ふたりは仲のいい間柄である。さすればその結果は……。

 この一番をむかえるにあたって、私もふくめ、多くのファンが、最終戦の結果だけ空いたリーグ戦の表を見ながら想像してみたのではあるまいか。

 もし、自分が羽生や森下の立場だったらどうするだろうか。

 森下の場合は簡単だ。死にものぐるいで勝ちに行く。相手がだれとかは、まったく関係しない。負けても競争相手が負ければ昇級だが、戦う前からそれを期待するようでは危ないだろう。

 では羽生の立場ならどうか。

 友人の幸せがかかった勝負。自分は消化試合。勝っても負けても、通算勝数プラス1以外、まったくといっていいほど意味はない。

 結論からいえば、私だったら勝たない。

 将棋の世界には

 「自分にはどうでもよく、相手にとって重要な一番、こういうときこそ全力で負かしに行かなければならない」

 という、「米長哲学」があるが、まあそれはそれである。

 いや、別にわざと負けるとか八百長をするとか、そういうことではない。一応は勝つつもりでは戦う。

 が、全力でつぶしに行くかといえば、そこまでやるかどうかはわからない。さすがに手は抜かないが、指しながら「うまく指して、負かしてくれよ」とは思うだろう。

 それが甘っちょろい考えであることは重々承知だが、それを言われたところで、「まあ、そうっスよねえ」と頭をかくくらいだろう。

 自分はすでに幸せを手に入れているのだから、一緒に昇級を祝えればうれしいし、打算的な話をすれば、そこでムキになって今後の人間関係が気まずくなるのもさけたい。

 私のような素人考えのみならず、まあ、そこそこ多くの人が、同じように感じるのではあるまいか。ましてや森下は棋界一といわれるような好青年である。そんないい男に意地悪をする気など、起こりもしないではないか……。

 という凡人の考えを、羽生は鼻で笑って一蹴する。

 この一番に、羽生は冷酷ともいえる指しまわしを見せることとなる。

 先手番の羽生は飛車を中央に振ると、のびのびとした陣形を築き、勢いよく攻めまくった。

 受け一方になった森下は必死でしのいでチャンスを待つが、それはいっかなおとずれる気配を見せない。

 くわしくは『羽生善治全局集』を参照してほしいが。序盤中盤終盤と羽生が一方的に局面をリードしてはなさない。気がつけば形勢は圧倒的。コーナーポストでうずくまる相手を、ガードの上からガンガンぶったたくヘビー級ボクサーのような戦い方だった。

 そして、運命の場面をむかえた。劣勢の森下が最後の突撃をかけようとしたところ、羽生はそれを受ける手を指したのだ。

 この一手と局面は今でもおぼえている。58に金を打ちつけて自陣を補強する手。攻め合っても勝てそうだが、万に一つの逆転負けを防ぐ冷たい指し方。

 いわゆる「激辛」「友だちを無くす手」というやつ。野球でいえば、7点リードの9回裏に、満を持して絶好調に仕上げてきた、ダルビッシュか田中将大をマウンドに送るようなものである。

 この状況で、そこまでやるかと。この金打ちの瞬間、検討していた記者室で、ものすごい怒号のような声が上がったという。

 「鬼だ」

 「人間じゃない」。

 その後すぐに森下は投げた。同じころ、土佐が室岡克彦に勝って(これも室岡には降級点がかかった大きな一番だった。土佐と室岡も同年代の仲間だった)逆転昇級を決めた。

 このときの様子を、先崎学九段が書いている。


 僕と羽生が記者室に無言でいると、廊下のほうから、己の運命を確認したであろう森下の「そうか、そうか」という声と、それにつづいて意味不明の声にならぬ声が聞こえた。そして、その声がまだ耳に残るうちに、大きな足音と、それにつづいてエレベーターのドアが閉まる音がした。

 羽生は、その間、放心状態で、記者室で茫然としていた。

 彼にとってもつらい勝利だったのだろう。羽生の耳には、森下のあの声はとどいていたのだろうか―――



 大きな勝負でこのような戦い方を見せることによって、羽生はのちの常勝時代を築き上げることとなる。

 「勝負の世界は、いい人だと思われたら終わり」

 そう言い放ったのは、鈴木大介八段であった。

 羽生はいい人のまま「鬼」のような「人間じゃない」手を指して王者になった。

 そこがまた、羽生善治という天才の底知れぬところなのだろうか。




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