『マネーボール』の「セイバーメトリックス」とは何か? 鳥越規央『9回無死1塁でバントはするな』 その2

2017年03月12日 | スポーツ
 前回(→こちら)続いて、鳥越規央『9回無死1塁でバントはするな』を読む。

 「高校野球、バントしすぎではないか」

 という、昔からの素朴な疑問を解決するために、マイケル・ルイス原作の映画『マネーボール』で有名になった「セイバーメトリックス(野球統計学)」を使った本書を手に取ったわけだが、これによるとバントという作戦の損得が、数字でわかりやすく表されることとなり興味深い。

 たとえば、

 「後攻チームが1点差で負けている状況での勝利確率」

 の欄を見ると、「無死1塁」のほうが、「1死2塁」よりも確率が高い。

 これが9回なら前者は「32、1%」だが後者は「28、4%」。

 これは1~8回まででも、数字は違うが無死1塁のままの方が数パーセントずつ勝ちやすい。

 1点ビハインドでの送りバントはハッキリと損。つまり、わざわざ作戦を立てて勝利の確率を下げていることになる。 

 これは「同点での勝利確率」でも同じ。送りバントをすると、全イニング勝率が下がる。「2点差以上」でも同じ。

 唯一、犠牲バントで勝率が上がるのが、

 「同点で後攻チームが無死2塁のとき」

 のみだが、これが高校野球にかぎると、ほとんど変化がない。

 これは3塁にランナーがいると、「犠牲フライ」による得点ケースが増えるんだけど、高校生には確実にそれを打つ技術がないことが多いからと推測されている。

 ということは、なんと高校野球では考えられるあらゆるケースで送りバントは意味がないどころか、確実に損ということになってしまう。

 ましてや、大量リードされてて、「まずはバントで1点返す」など、愚の骨頂ということだ。

 ちなみにこれは、田中将大、菊池雄星といった「怪物」クラスの投手相手でも似たようなものらしい。

 「どう考えても打てない」ケースでも、バントよりはマシと。

 こうして、はっきりと数字で出されると、思っていた以上の結果におどろかされる。

 もちろん、スポーツは数字だけではかられるものではなく、「勢い」とか「カン」「心理戦」みたいなものも大事であろうが、それにしたってここまであからさまに「損だよ」と見せられたらショックも大きいではないか。

 ではなぜ、こういうことが起こってしまうのかといえば、まさに『マネーボール』でもあつかわれた、

 「さかしらなデータなど、聞きたくない」

 こういった心理があるのだろう。

 スポーツ選手ではない私でも、感覚的にわかるところはある。なんか、こっちがワイワイ楽しくやってるところに、現場に出たことないけど理屈だけは達者なスタッフが来て、

 「それはデータ的に損です」

 とか、自分のやってることや「伝統」にケチつけられたら、イラッとくるものね。

 つまるところ、情報というのは「プレーヤーのテンションを下げることがある」のだ。

 現に、私が昔読んでいたスポーツ漫画では、データを駆使するチームというのは例外なく、

 「データでは計れない意味不明の馬鹿力」

 の前に、みじめな敗北を喫するのだ。『キャプテン』の金成中しかり、『一球さん』の恋ヶ窪商業しかり。

 私もスポーツは最後のところは根性だと思うけど、ただ、このかたよったあつかいはあんまりではと、子供心にも思ったものだ。情報って、それなりに大事なんなもんなんちゃうの、と。

 それともうひとつ、犠牲バントというのは「日本人の琴線に触れる」というのもあるのだろう。

 「個を殺して大儀に尽くす」

 という考えに、日本人は弱かった。そこにピッタリとあつらえたようにはまるのが、犠牲バントという概念。以前、あるテレビCМで、

 「パパの仕事は地味だけど、そこでやっている《人生という名の送りバント》を誇りに思っているぞ」

 といった内容のセリフがあって、「日本人っぽいなあ」と思ったことがあったけど、そういうことなのだ。

 そう、日本人は損得抜きで、本質的に送りバントが好きなのだ。そこには、浪花節的なにおいがある。

 あと素人考えとしては、現実逃避と言うと変だけど、「結論先延ばし」的な要素もあるのではないか。

 球技という不確定要素が強い競技の中で、数少ない「確実性」を見こめる作戦だし、失敗しても比較的「大ケガ」にはなりにくい。

 これをはさむことによって、常に緊張を強いられるゲームの中、ちょっとした「間」「息抜き」の作用があるのかなとか。低リスクで「達成感による士気の向上」を取ることができるというか。

 本の中で鳥越さんはバントのやりすぎについて、

 「高校野球が(勝利にこだわらない)教育の一環であるというなら話は別だが」

 そうではないなら、もう少し考えてみてはどうかと、苦言を呈しておられるが、私が見るに過剰な犠牲バントというのは教育というよりも、「イデオロギー」に近いものだと思う。

 いわば、一種の民族的アイデンティティーであり、もっといえば「強迫観念」かもしれない。

 だから、だれになんと言われようとバントするのは、当然といえば当然のような気もしないでもないのだ。

 なんといっても、「それが人生」なのだから。




 (続く→こちら



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