当ブログのブックマークにリンクしている「初夏のレモネード君」とは、小学校の一年生の時からのつきあいである。
子供のころには、しょっちゅう彼の家に遊びに行っていた。
ある日、遊びに行くと、留守だった。
おばあちゃんが、すぐ帰るから上がって待ってなさいと行ってくれたので、待たせてもらった。
当時は、アポ無しで遊びに行くということは稀なことではなかった。
来られても、迷惑だと思ったことはなかったように記憶する。その頃は、子供同士のことでもあり、お互いにヒマだったのだろう。
数十分待っても、彼は帰ってこなかった。
そうしているうちに、おばあちゃんが私にかけた言葉が
「待ちなんかなぁ」 だった。
今でも、福江の町方言葉の上品な響きが忘れられない。
この言葉を思い出すたびに、「待つ」時間について考えてしまう。
近頃、待つ時間といったような、意図せず手持ち無沙汰なぼんやりとした時間に、
「効用」とでも言ってよさそうな、心の熟成効果のようなものがあるのではないかと思うようになった。
自分自身も、成長するにつれて、セカセカ病に犯されて、「意図しない時間の使い方」に強い抵抗感をもつようになった。
自分で過ごそうと予定した時間が意のままにならないことを警戒するようになった。
例えば、「待つ」時間などが、もっとも無駄なことをしているという焦燥感のような気分のタネとなるようになった。
東京に出てからは、電車や駅などでの、何もしない時間が豊富にあったので、文庫本を持ち歩いては、読むのが常だった。
電車を使わない暮らしにかわってからは、読書の量がその頃より大幅に減ったのでも、そうした「空いた」時間が多かったことがわかる。
携帯電話で、ありとあらゆることができる現在、そうした「空いた」時間があれば、大喜びで活用していることだろうと思う。
しかし、このところ、先にも書いたように、ぼんやりと時を過ごすことには、けっこう心に果たす作用が大きいのではないかと思うようになった。
日々目にしたり、耳にしたり、学んだり感じたりしたことが、少しづつ自分のなかに蓄積していく。
食べ物に例えたら、「食べた」状態。
それが、何もしない時間、とくに、移動する乗り物の車窓からぼんやりと外をながめたり、なにげなく他人の動作を見ていたりするような時間のなかで、消化され、熟成し、ひとつの思いとなったり、思いをともなった記憶として固定するのではないか。
そんな風に思うのである。
「待ちなんかなぁ」の一言が、郷愁とともに、「思いをともなった記憶」として固定している。
子供のころには、しょっちゅう彼の家に遊びに行っていた。
ある日、遊びに行くと、留守だった。
おばあちゃんが、すぐ帰るから上がって待ってなさいと行ってくれたので、待たせてもらった。
当時は、アポ無しで遊びに行くということは稀なことではなかった。
来られても、迷惑だと思ったことはなかったように記憶する。その頃は、子供同士のことでもあり、お互いにヒマだったのだろう。
数十分待っても、彼は帰ってこなかった。
そうしているうちに、おばあちゃんが私にかけた言葉が
「待ちなんかなぁ」 だった。
今でも、福江の町方言葉の上品な響きが忘れられない。
この言葉を思い出すたびに、「待つ」時間について考えてしまう。
近頃、待つ時間といったような、意図せず手持ち無沙汰なぼんやりとした時間に、
「効用」とでも言ってよさそうな、心の熟成効果のようなものがあるのではないかと思うようになった。
自分自身も、成長するにつれて、セカセカ病に犯されて、「意図しない時間の使い方」に強い抵抗感をもつようになった。
自分で過ごそうと予定した時間が意のままにならないことを警戒するようになった。
例えば、「待つ」時間などが、もっとも無駄なことをしているという焦燥感のような気分のタネとなるようになった。
東京に出てからは、電車や駅などでの、何もしない時間が豊富にあったので、文庫本を持ち歩いては、読むのが常だった。
電車を使わない暮らしにかわってからは、読書の量がその頃より大幅に減ったのでも、そうした「空いた」時間が多かったことがわかる。
携帯電話で、ありとあらゆることができる現在、そうした「空いた」時間があれば、大喜びで活用していることだろうと思う。
しかし、このところ、先にも書いたように、ぼんやりと時を過ごすことには、けっこう心に果たす作用が大きいのではないかと思うようになった。
日々目にしたり、耳にしたり、学んだり感じたりしたことが、少しづつ自分のなかに蓄積していく。
食べ物に例えたら、「食べた」状態。
それが、何もしない時間、とくに、移動する乗り物の車窓からぼんやりと外をながめたり、なにげなく他人の動作を見ていたりするような時間のなかで、消化され、熟成し、ひとつの思いとなったり、思いをともなった記憶として固定するのではないか。
そんな風に思うのである。
「待ちなんかなぁ」の一言が、郷愁とともに、「思いをともなった記憶」として固定している。