日高茂和ブログ・のほほん書斎

つぶやきのような、ぼやきのような。

「待ちなんかなぁ」(待ち遠しいですね)

2008年03月27日 | のほほん所感
当ブログのブックマークにリンクしている「初夏のレモネード君」とは、小学校の一年生の時からのつきあいである。

子供のころには、しょっちゅう彼の家に遊びに行っていた。
ある日、遊びに行くと、留守だった。
おばあちゃんが、すぐ帰るから上がって待ってなさいと行ってくれたので、待たせてもらった。
当時は、アポ無しで遊びに行くということは稀なことではなかった。
来られても、迷惑だと思ったことはなかったように記憶する。その頃は、子供同士のことでもあり、お互いにヒマだったのだろう。

数十分待っても、彼は帰ってこなかった。
そうしているうちに、おばあちゃんが私にかけた言葉が

「待ちなんかなぁ」 だった。

今でも、福江の町方言葉の上品な響きが忘れられない。

この言葉を思い出すたびに、「待つ」時間について考えてしまう。

近頃、待つ時間といったような、意図せず手持ち無沙汰なぼんやりとした時間に、
「効用」とでも言ってよさそうな、心の熟成効果のようなものがあるのではないかと思うようになった。

自分自身も、成長するにつれて、セカセカ病に犯されて、「意図しない時間の使い方」に強い抵抗感をもつようになった。
自分で過ごそうと予定した時間が意のままにならないことを警戒するようになった。
例えば、「待つ」時間などが、もっとも無駄なことをしているという焦燥感のような気分のタネとなるようになった。
東京に出てからは、電車や駅などでの、何もしない時間が豊富にあったので、文庫本を持ち歩いては、読むのが常だった。
電車を使わない暮らしにかわってからは、読書の量がその頃より大幅に減ったのでも、そうした「空いた」時間が多かったことがわかる。
携帯電話で、ありとあらゆることができる現在、そうした「空いた」時間があれば、大喜びで活用していることだろうと思う。

しかし、このところ、先にも書いたように、ぼんやりと時を過ごすことには、けっこう心に果たす作用が大きいのではないかと思うようになった。

日々目にしたり、耳にしたり、学んだり感じたりしたことが、少しづつ自分のなかに蓄積していく。
食べ物に例えたら、「食べた」状態。
それが、何もしない時間、とくに、移動する乗り物の車窓からぼんやりと外をながめたり、なにげなく他人の動作を見ていたりするような時間のなかで、消化され、熟成し、ひとつの思いとなったり、思いをともなった記憶として固定するのではないか。
そんな風に思うのである。

「待ちなんかなぁ」の一言が、郷愁とともに、「思いをともなった記憶」として固定している。





えーっ、人間というものは・・・

2008年03月24日 | のほほん所感
「えーっ、人間というものはぁ・・・」

ご存知、古今亭志ん生が、高座で真っ先に口にする一言である。

奔放な人生を送ったことで有名な昭和の名人だが、戦中から戦後、軍の慰問の芸人として外地(満州)に出ていたころのことは、本人も語らなかったし、どういう経験をしたのか、謎めいているのだという。
終戦の後に、帰国するまでに約一年半ほど、外地をさまよっていたらしい。

自宅の前に現れた志ん生は、汚れて真っ黒けだったという。
生きて、帰ってきたことが不思議なくらいの地獄絵巻からの生還だったのだろう。
その間、人間のあらゆる側面を見ることになり、「人間というもの」について、さまざまに考えることがあったに違いない。

帰国してからは、志ん生の芸が明るい芸風にかわり、終戦前にあまり売れなかった芸人の人気がどんどん上がっていったという。

「昭和の名人」としての栄光は皆様ご存知の通りである。

録音記録を通して、志ん生の多くの高座を聞くことが出来るのは、後の時代を生きる者にとって幸せなことである。

極限の人間の姿を見たであろう志ん生。
落語の高座だから、軽く、面白おかしく「えーっ、人間というものは・・・」と語りはじめる志ん生の落語のなかに、世の中と言うもの、人生というもの、人間と言うものをちょっと垣間見てしまうのも、ひとつの落語の楽しみ方だし、「人間というもの」との出会い方のひとつでもある。

余談
志ん生については、拙ブログ2006年8月2日にも触れております。





三千世界の杉切り倒し・・・・・

2008年03月20日 | のほほん所感
落語をよく聞く人ならご存知だと思うが、よく、廓噺のマクラで使われる都々逸に、

「三千世界のカラスを殺しヌシと朝寝がしてみたい」

という色っぽいのがあるが、朝早くからカーカーうるさいカラスに眠りをさまたげられる、夜ふかしさんたちのボヤキというかノロケがうまく出ている。

さて、花粉症も佳境の時期を迎え、目はかゆい、鼻で満足に息もできない辛さである。
いろいろと出かけたいところもあるが、花粉が怖くて怖くてその気にならない。

ふと、口をついて、替え歌ができた。

「三千世界の杉切り倒し 鼻で呼吸がしてみたい」である。

春一番だろうか、春分の日の外は突風が吹いている。
風がやんだら、思い切って夕べできらしてしまった鼻炎カプセルを買いに行こう。








チャレンジ!源氏物語

2008年03月17日 | のほほん所感
源氏物語を、瀬戸内寂聴訳で読み始めた。

以前から興味はあったが、訳本で十冊からなる分量におじけづいてなかなか手を出す気にならなかった。

しかし、今年は源氏物語が書かれてから1000年になる記念の年だという。このきっかけを逃がすと、生涯手に取ることもないかもしれない。

また、その気になるという、自分のこころの動きが面白くもある。

当面の間、平安のみやびやと、もののあはれの世界をトリップすることにする。


YS-11

2008年03月13日 | のほほん所感
青木 勝の写真集「YS-11名機伝説」を図書館で借りた。

職場の近くの波佐見図書館でちょくちょく本を借りている。
館で所蔵していないものは、あちこちの図書館から取り寄せてくれる。
よほど、特殊なものでない限り、リクエストに応えてくれる。
読みたいな、と思って、自宅からメールでリクエストすると、所蔵の有無や他の図書館からの取り寄せの可否、入手の時期などの情報を司書さんが返信してくれる。
到着したら昼休みに借りに行って、読み終わったら会社の帰りに返しに行く。
とても便利である。
今回のこの本は、長崎市民図書館から取り寄せてくれた。
あらゆる行政サービスのなかで、図書館は優れたサービスだと思う。
実にありがたいことである。

先日、ラジオにこの本の著者の青木勝氏がゲストで出演していて、この写真集のことを知り、どうしても見てみたくなった。
こういう時に図書館は実に力強い味方である。
この本の場合、定価が6000円。
見たくてたまらなくなっても、実際購入するとなるとかなり勇気がいる価格の本である。
そうした本が、ちょっと問い合わせするだけで読むことができるのであるから、ありがたいことこの上ない。

YS-11には、あこがれや思い出、郷愁のようなものや希望など、さまざまな感情とともに親しみを感じている。
今では旅客便としては日本の空を飛ぶことがなくなってしまっているが、福江に生まれ育った私には、かつて日に何度となく聞いたあのプロペラ機のエンジン音が身近に思い出される。
また、その思い出の音は、「ちょっと一服」といった心の遊び時間のような思いと一体となって記憶に甘い快感をもたらす。

人には、自分の足で行けない場所へ行く道具(車、列車、船や飛行機)にあこがれる本能のようなものがあると思う。
今でも、飛行機が飛ぶ音を外で耳にすると、つい空を見上げてしまう。
その瞬間に、今自分がいる場所とは違うところへの憧れが、「ちょと一服」といったような気分とともによみがえるのである。

「翔ぶがごとく」のクライマックス

2008年03月10日 | のほほん所感
時代劇専門チャンネルでの、大河ドラマ「翔ぶがごとく」の再放送も大詰めにきている。
3月5日の放送では、征韓論争をめぐり、西郷隆盛の朝鮮への渡航を阻むために、大久保利通が政務の現場に復帰を決断し、竹馬の友であり、倒幕維新の盟友でもある刎頚の友西郷との、政治の上での決裂を覚悟する場面が放送された。

ドラマでは、夜遅くに、意を決した大久保が、隆盛の弟の従道の家を訪ねて、胸の内を涙を流しながら語るシーンで西郷隆盛と大久保利通の友情が描き出されていた。

大久保は言う。
青年のころに、自身が苦境を乗り越えられたのも、世の中をよくするために藩の重臣となって倒幕維新を成し遂げられたのも、西洋を視察し、新国家のビジョンを描くことができたのも、すべて西郷さんがいてくれたおかげだと。
その西郷さんの、冷静に判断すれば暴挙ともいえる朝鮮への渡航を阻んで西郷さんの命を守るためにも、新国家建設を遂行していくためにも、西郷さんとの仲違いを恐れて逃げ回っているいるわけにはいかない。
それが、西郷さんの友情と信頼に応える唯一の道になると。
また、このことは西郷さんならばいつかは分かってくれるだろうが、自分もいつ暗殺されるかわからない立場にいるので、もし、そういうことになったら、この思いを西郷さんに伝えてくれ、と。

じっと話を聞いていた従道は、大久保の思いを理解して、大久保に酒のグラスを差しだし、杯を合わせる。

私は、このシーンが、この長いドラマのクライマックスだと思う。

幕末維新の、奇跡のような歴史の主人公である西郷隆盛と大久保利通の友情が、このドラマの主題だと思うからである。

この、大久保の述懐シーンの次の回の放送では、今度は西郷が身の回りの世話をする身近な人に、「一蔵どん(大久保のこと)」は自分のことをよくわかってくれていると語るシーンで二人の友情を演出する。
また、その次の回では、西郷の朝鮮への派遣を、機会を逃さず公家の岩倉具視らに働きかけて阻止の工作をする大久保について西郷は、「さすがは一蔵どんじゃ。機会は逃がさぬ。」評し、笑みを浮かべる。

西郷と大久保がおかれた当時の状況から、決裂すれば二度と会えなくなるであろうほどの重大な事の成り行きのなかで、お互いを理解しあう姿が感涙を誘う。

西南戦争で西郷が没した翌年の五月に、大久保も不平士族の手により斬殺される。
そのとき、大久保が携行していたもののなかに西郷からの書簡があったという。

その手紙は、海音寺潮五郎の小説「西郷と大久保」によれば、大久保が米欧視察の長い旅の間に、西郷が書き送ったものを馬車の中で広げていたのだという。
その書簡の内容にとても興味が持たれるが、知るすべはないものだろうかと思いは募る。

まだ、最終回を迎えていないが、前に見たときの記憶では、刺客に斬られた大久保の懐中から書簡がこぼれ落ちる演出で、幕を引くのではなかったかと思う。

西南戦争で自刃する時に、きっと西郷さんは「一蔵どん」を思い浮かべたことだろう。
その翌年、紀尾井坂で凶刃に倒れ行く時の大久保もきっと「吉之助さぁ(西郷隆盛)」のことを思い浮かべたに違いない。





「ほんなこて、頭が痛か・・・・・」

2008年03月06日 | のほほん所感
国交省関連財団 職員旅行丸抱え 過去5年で2080万円(産経新聞) - goo ニュース

このブログでも何度か書いているが、時代劇専門チャンネルでの再放送での、大河ドラマ「翔ぶがごとく」を楽しんでいる。
第二部の第一回からは、明治に入ってからの大久保利通を中心としての新政府と新国家建設の話となる。

ドラマでの場面である。
明治三年、ヨーロッパへ留学していた西郷従道と大山巌が帰国し、大久保、吉井幸輔ら主だった薩摩人たちが二人の帰国の宴を料理屋で催す。
その店で、新政府の役人が、とりまきの商人たちからの豪勢な接待を受けて大きな態度でいるところを薩摩人一同が目にして、一様に苦々しく思いつつ酒席で会話する。

A,「お役人は、ますます遊び馴れて派手ごわすな」
B,「そいじゃっで、世の中に不平不満をばらまいちょっ」・・・

C,「あげな商人どもが、政府高官に群がる姿が、苦々しか!」

そして大久保がためいきまじりに言う。

「ほんなこて、頭が痛か。」

不平士族や困窮農民たちが、日本中で不穏な動きを見せ始めた明治初期。
西郷さんをかつぎだしての、七年後の西南戦争の伏線がすでに濃厚に引かれている。

事実そうだったのだ。

その席で、大久保の右腕である吉井幸輔が大久保に言う。「どうして大なたをふるわいのですか」と。

大久保は苦りきるばかりで場面は重く沈む・・・・・新政府は大久保の把握が叶う薩摩の士ばかりでなく、長州はじめ各藩の代表が構成する複雑な組織を形成し、大久保の力をもってしてもコントロールがきかなくなってきていたのだ。

もうすでに、「ちぇすとぉ」と血気にはやる青年期を過ぎて、内憂外患、多事多難の新国家建設に冷静に取り組む壮年に、志士たちが成熟している。

大久保利通という人は、西郷さん同様に、私利私欲を持たぬ人で、ひたすら熱く、しかし厳格に新国家建設の政務にまい進した人だという。
役所に大久保が在庁の時と外出しているときで、役所の雰囲気が違っていたという。

少数の正義漢が睨んでも、なたをふるっても、品性下劣な汚吏が次々と湧いてきては今日に至っているのであろう。

接待を入り口に、贈賄収賄天下り。見返り寝返り金の方。黒いものでも白と言い、
唯々諾々と上を見る。じゃんじゃん使えよ人の金、かくして不浄役人の出来上がり!

驚くばかりの、議員先生や役人たちの腐敗が、次から次と後を絶たないこの国。
政府や行政のリーダーのがんばりようでは、まだまだ大なたを振る余地はいくらでもあるはずだ。。

ずばっ、すぱっ、ばっさりと、こればっかりは過激にやってもらいたい。

ちぇすと~!どげんかせんといかんばい。



弁当箱で思い出したこと

2008年03月03日 | のほほん所感
弁当についての思い出を語ろう。

小学校、中学校、高校の十二年間、私は母が作ってくれた弁当を持って学校へ行った。
昭和三十八年生まれの同い年では、学校給食を経験したことのない人はかなりの少数派のようだ。

ここで、長年にわたり、来る日も来る日も、弁当をつくってくれた母と、現在弁当を作ってくれている家内に感謝を捧げて本題に入ることにする。

・・・これから書くことは、以前にも書いたことがあるような気がするのだが、いつ、どういうタイトルで書いたか、ざっと過去の記事を見てみたが思い出すことも探すこともできなかった。
もし、書いていないとすれば、いつかはこの思い出をブログに記録しておきたいという気持ちが続いていたのだろう。

小学校の、何年生の時か忘れてしまったが、昼休みの弁当の時間の前に、取っ組み合いのケンカをしたことがあった。
私は、別に自慢する訳ではないが、向こう見ずにも自分より体のでかい相手との戦歴ばかりで、やるたびに引き分けか悔し涙に終わるのことが多かった。
(けっして褒められたことではない!良い子のみなさん、仲良くしましょう。・・・余談だが、我々の少年時代のケンカの時は、やるだけやらせて、ギャラリーの悪童連が、レフェリーみたいな役割をしたり、ドクターストップをかけたり
と、大きなケガをしたり、いき過ぎたことにならないように、それなりに、知恵と人情が働くうまくできた作法があったものだった。)

その時も、同級生ながら自分より大きいのとファイトに及んだのだが、腕力差は歴然で、ギャラリーの仲裁にて判定負けの悔し涙に終わった。
その後に食べた、冷たいごはんの弁当が、とても温かいものに思えたのだった。
それは、外でどんな辛い思いをしても、ホームベースがあるということの安心感や、母の愛情に包まれているのだという安心感や感謝から湧き出た感情だったのだろうと思う。

私は、冬のこの季節でも、いわゆるランチジャーでなくて、普通の弁当箱を使っている。
当然ごはんもおかずも冷たいのだが、時おり、冷たいごはんにまつわる温かい記憶が思い出されるのである。