人には善悪がある。
善い事と悪い事が
してよい事と、して悪いことに分かれるのは、
それ相応の意味があってのこと。
意味なくして
何の善悪か。
善悪に意味がないのなら、なし易い悪が善となり、
善が悪になるはずだ。
そうすれば、悪だらけの世界となって、
耐え忍び、努力の意味もなし。
悪が栄えたためしは無く、
また、
悪を為した事の報いは悪であるために、
道理を知る人は、
まえもって
悪は為さない。
‘巡り巡って’が単純に行為の理。
今起こっていることは、昔の光。
忘れてしまっているだけで、
意味あって、自分に現れている。
よい事も悪い事も、嬉しい事も悲しいことも、
昔の自分の為したこと。
それは、さっきの事かもしれないし、十年前の事かもしれない。
生まれる前の事かもしれない。
一瞬過ぎ去って、すべて昔の事柄。
悲惨なところに生まれて、悲惨な思いをしていても、
これからの
思いによって、その行為によって
悲惨な場は変えられる。
‘気づいて、’
救いの門はささやかに開かれる。
小さな隙間は、やがて
大きくなるように、
開かれし扉は開かれる。
気付きの門をくぐって、
けっしてその扉を閉めてはいけない。
悪と善が分かれるところ、
不幸と幸福の関だから。