つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

答えているのに・・・

2006-10-11 | Weblog
無とは何?と問われて
答えて、「・・・」と何も言わず。

仏は言う。問いに答えて何も語らず、実に正しいと。
「無」はそのとうり無いものであるために。
無は・・と説明できるのは無ではなく有である。
常住のなかの無常である。その外側は存在とならないために語れない。
知る必要も無いものである。

凡夫は尚も、神も仏も答えられなかったと嘆いたが、
その愚かさにただ仏も神も微笑むのみ。

矛盾ではない。そのときの方便

2006-10-10 | Weblog
同じ事柄なのに、
あるときは、こうしなさいといい、別のときは、こうしてはいけないという。
賢い人はこれを矛盾と見ることがなく、よく理解する。
まだ、時期にあらずとするときの方便でいう。
でなければ そのとき 凡夫は迷い、誤った見解を持つために・・と。

苦楽

2006-10-09 | Weblog
苦楽はあざなえる縄の如し
共にいつまでも続くことは無い。
どんなものにも相反するものが存在する。
見えるものでも見えないものでも
必ずそのものに対応する相当のものがある。
必然である。
幸せが大きければ大きいほどその反対のことも大きい。
望む望まないに限らず、どちらか一方だけを受けるということはない。
流転する命である限り。

世にある限り、悪い人でもいい思いをしたりする。まだ実が熟さない間はであるが。
善い人でも悪いことに出逢ったりもする。道半ばであるために。

因果応報は実に正しい。行いの報いは必ず受ける。その意味では決定されたものであるが、なした行いの大きさに応じた報いとなるわけではない。
何もしなければ応報となるのが然りなのだが、改めることができるために、
改め方によって受ける大きさが変わってしまう。その意味で不定ともいえる。

だから、

どうしても苦は受けなければならないのなら、
いやでしかたない苦を受けるよりも、がまんできる苦を受けた方がよい。
そのために、幸せの中にいたとしても、日々、すすんでできる苦をしていくことである。人の嫌がることを進んで行うようにしていけば、受けるべき苦の大きさが減っていくことになる。
応報は変わらないのだが、日々受ける苦を小分けして受けていくために、
受け難い苦となることがない。
汚いところをきれいにするのも辛いことである。
自分がやらなくてもと思ったりもするし、あるいは、しながら
何で自分が・・と思ったりもする。人の嫌がることは自分も嫌で、行うのはなお辛い。
でも我慢できないほどの苦を受けるより、辛いと思っても耐えられる苦を受けていったほうが為と分かるはずである。苦の大きさが小さくなっていくのだから。
それだけ楽に受けられるようになるのだから。
人の為としていけば、自分の為となる。
だから、自分の為と思って、人の嫌がることを進んで行うようにしていけばよい。
それは、誠意ある自分のできる限りの範囲でよい。
苦をせず、楽ばかりしていれば、苦は溜め込まれ大きくなる。その結果は
いわずと知れたこと。
苦楽は順次めぐるのであるから。




慚愧(ざんき)

2006-10-08 | Weblog
罪業から救われるには二つあるという。
慚という一つと愧という一つ。
慚は内に恥じて、愧は外に羞じる。
悔恨し自ら恥じること。
この慚愧(ざんぎ)がない者は人とはいわない。つまり人でなし。
人でないのだから、けっして救われることが無いといわれる。
罪の病にかかり、罪を隠して悔いもせず、慚愧もしない。因果業報を知らないで、知る者に
教えを乞いもしない者は、どんな名医も治すことができない。治す
術を知るも者は誰もいない。神でさえ仏でさえできない。でも
もし、自ら
心に慚愧していれば救われないことは無いという。
こころに定まった相がなければ、罪を破ることはできる。
罪業に悔いる者は、まだ定まった相がない。だから、
悪いことをしたのだから救われることがないと悲観する疑心を打ち砕くことができる。
定相心がないからこそ決定心を得させられるのである。
慚愧があれば救療できないことはないといわれるのである。

あるでもない、ないでもないという 縁起の世界

2006-10-07 | Weblog
ここに美しい景色がある。それを認識する自分がいる。
でも 認識する自分がいなければ
その美しい景色も無いに等しい。
確かに存在しているのだが
存在しないことになる。
自分があっての存在。
知らないだけで、すべてがあるといえる。すべてがないといえる。

常住不変の中にあって諸行無常である。
諸行無常という常住不変。

一つの対象を見ても、その間に時間的因、空間的因、次元的因にその時々の種々の因が絡み違った見え方をする。
だからとて、見えた対象がどれが間違っていて、どれが正しいということは無い。
どれも真実で、どれも真実でないという真実である。
あるでもない、ないでもないという‘ある’世界。

人は人としてのみ生まれ変わる。縁であるために。だから転生という。
まれに他の生き物に縁をつくり生まれ変わることもある。それを輪廻という。

心の因と縁によって業をつくり輪廻転生を繰り返す。
生死を繰り返すのはまことに苦しみである。
縁起の法によって従うために、縁起を知ることである。

井の中の・・・

2006-10-06 | Weblog
人類はまだ高度の技術をもっていないために
宇宙を自由に旅をすることができない。
宇宙人なんているわけが無いと思っている人もまだたくさんいる。
そんな人は自分が他の星から見たら宇宙人であることも分からない。
自分も宇宙の人であることがわかれば もっと
見方が変わるのだが・・・
井の中の蛙的発想しかできないために
信じられないものばかりとなって受け入れることができない。

知的生命体は、自由に宇宙を旅することができる高度な技術をもっているために、
その技術によって自らの星を一瞬にして滅ぼすこともできる能力も持つ。
当然、他の星に侵略しようと思えばそう難しくはないだろう。
その意味からすれば、高度な能力を有する知的生命体は平和主義者といえる?
いまだ地球は地球人?だけなのだから・・・

何も知らない者であるために、 神も仏も理解できない。
自分自身も心も、そして生死も、生命そのものも

この世にあるかぎり相対の共存はなくならない。
よく道理をみて、道理にしたがって生きていけば
知識などなくても現象はみえてくる。
高度な技術も必要でなくなる。

知らないものには及びがつかない

2006-10-04 | Weblog
百獣の王ライオンの生態を観察するために、ライオンを捕らえて
その体の中に高度な技術のチップを埋め込む。そして 放つ。
そのために、ライオンの住む草原へヘリコプターに乗って捜しにいく。
ライオンはヘリコプターに驚き逃げ回るが、麻酔銃に撃たれて眠る。
その間にチップは埋め込まれる。
ライオンからみて・・・
ある日、突然 大きく吼えながら飛んでくる巨大な鳥をみつけた。
今まで見たことも無く、とても大きな声で大きな体で近づいてくるために
びっくりして起き上がり一目散に逃げた。
何度も振り返りながら逃げるが、あっという間に近づいてきて
ピカリと光った。
その瞬間、体のいうことがきかなくなり、その場に倒れこんだ。
どれだけの時間がたったのだろうか、何か体に異変を感じながらも
眠りから覚めて、夢だったのか、なんだったのだろうとうつろに思いながら不思議な感じで、しかし何事も無かったように歩き出した。

人もまた、見たこともなく あったこともない高度な技術にであっても、
信じることができない。
畏怖の念におぼろげに思い出すが、夢としてしまいこむ。
ライオンと同じように思いをめぐらすことが無い。

平等

2006-10-03 | Weblog
夫婦には三人の子供がいた。
この夫婦の愛情は三人の子供たちに常に平等である。
子を持つ親の愛情はいずれのときも平等にそそがれているのだが、
子の一人が大事に至ったとき、親の気持ちはその子に主に向けられる。
だからとて平等でないわけではない。

まっすぐに歩んでいける者と、道に迷う者がいるとすれば、
迷う者に手を差し伸べるのは自然である。
平等というのはこういうことを言う。



質素な・・・

2006-10-02 | Weblog
正しい八つの道を歩んでいる人は極めて少ない。
その道は単純にして険しいために、強靭な意志がいる。
悲しいことと、寂しいことと、切ないことと、が入り混じり訪れるが、
超えていくと不安が無くなり、たじろぐことが無くなる。
歩めば歩むほど快く癒されていくばかり。さらに身は磨かれていく。
また、その道のりを行く人は大人しい。
きわめて静かである。酸いも甘いも知り尽くしたものとなるために。
強い犬がやたらに吠えないように。
もし尋ねて、答えの返ることは無く微笑むだけであるが、再三にわたり尋ねることにより答えは返る。
聴く者は返答を得る。必ず。
ただ聞く者は答えを見逃す。
八つの正しい道を行くものの占いは実に嘘がない。
そういう人に道を尋ねることである。
その人は得てして質素である。

嘘を見分ける

2006-10-01 | Weblog
人の運命を占う人がいるが、自分の運命も知らないのに他人の未来など
到底分かるはずがない。
明日がどうなるのか、はるか先の自分がどうなるのか誰にも分からない。
分からないからこそ生きていられる。生きていける。
未来がはじめから決まっているのなら、何を努力する必要があるだろうか?
誰にも未来が分からないのは
未来が決定されているものでなく不定なものだから。
その瞬間の条件とその瞬間の縁によって事象となるために
どのようにでも変わる。不確定であるために、山をかけてこうであろうとするだけで、だから、当たるも八卦当たらぬも八卦となる。
神でさえ人の運命を見ることはできない。まして人が・・・である。

真理のダルマは縁りて起こるものであるために縁起という。
因縁所生である。
様々な事象は その原因とそのときの条件が絡み生滅する。
依存して成る。
右により、あるいは左による生き方は偏りの生き方である。
世の中は丸い形の中にある。中心がどちらかにずれていれば
うまく回らない。
‘へん’にずれてしまえば為にならないこととなる。
偏ることなく極端に走らず中を歩めば
道にはずれることはない。

未来は中道によってのみ見え、中道は智慧によって得られる。
智慧は八つの正しい道をいくことで身につく。
これではじめて未来が読めて予言となる。
ダルマの予言となるためにはずれることがない。・・と仏は言う。
八つの正しい道を歩んでない人の占いは嘘になる。