つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無として「ある」もの

2017-05-20 | Weblog
時間の流れは一定にしてあるが、それは個人によっては変化する。
早かったり遅くなったりは斯くもあるもので、また無時間ともなる。
悠久より流れてあるも、どこが発端して始まったかということでもない。
でも始まらなかったということでもない。例えば、何かを記すのに始めた時を起点に
記憶すれば、そこからの流れは記すものからの始まりであり、他に関しては無関係の始まりである。
そのための流れの事実は、
他に関しての事実とは関わりとはならない。そのために関してのその時の現象の関わりである。
記すものの他の関わりであるだけで、だから、記すものからの真実となるだけである。
記すものからの全体の関わりで表れているために都度変化してしまう。
全体側から見れば、真実がこれだというのはない。
客体である自然は、だれにも等しくあるが、主観としてあるものには一様に見えての
多様にしてあるのである。それが客体からの一様であり、同等としての在り方である。
真実は、自分にしての客体の真実であり、客体にしての真実はない。
客体的に見聞しようとすることが主観からのものであるために、
客体の真実は、主観の真実の客体でしかない。
主観には不可思議である。
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