つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

偏に思うものに留まるものである。

2016-10-15 | Weblog
人を騙すものと騙されるもののどちらが悪いのかといえば、
言わずと知れたことで、騙す側が悪い。
騙される側にも落ち度があるという人がいるが、そうではない。
一理あるように思われるが、それこそ惑わされていることである。
ようくエネルギーの法則を知ることである。そうすれば、
いちいち惑わされることが無く、瞬時にどちらかの判断がつくものである。
それが直感である。その感というのは、勘から来るもので、魂、いわゆる心のエネルギーが観じたものである。
つまり、エネルギーの経験、回る流れの質による自由からきている。なかなかわかりにくい言い方であるが、
そうとしか言えない表しである。
エネルギーがそもそも善悪の無い質であり、だから、絶対善の動きとなっているということの
ため、ということを理解、思慮できなければならない。
この力があるかないかは天性であり、それはまた、誰にでもある、持っている質なのである。
特別に与えられてあるというものではない。本来誰も持っている性である。
人の本来の質は無垢というものであるが、それゆえエネルギーそのものの善にあるために、
顚倒せず「素直」ということに深く心得ることである。
もう一度言えば、エネルギーの法則には善悪は無いのである。どう思うか感じるかは自由である。
エネルギーが自由であるためである。だから、顚倒せずに法則の流れに沿って生きていなければ、
存在そのものがすべて正しいものとして肯定されるのである。たとえ善悪が顚倒していても、
それが正しいとなり、誤りに気が付かないものとなるのである。
法則は、現実がすべて正しいとして肯定されて廻っているのである。
だから、地獄であることも、天国であることも絶対となりどちらも正しい世界となっているのである。
もともと存在しているものではなく、感じとして作られていく世界なのである。
さて、もともとの流れに沿って経験深く、して、思慮深くあり、道徳を心得た神々は、
正しく理解されるよう、ただ願うだけである。
道理を覚った神々も、法則の自由は変えることはできない。そのために、
「願解如来真実義」として、偏に思うのである。


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