つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

魂の救いのために神は語る

2017-07-15 | Weblog
惑星ニビルの住人は、人類が滅びることを知っている。
他の惑星の住人もそれは知っている。

世には、捨てる神あれば拾う神ありという。

人に、悪人と善人がいるように、神にも善神と悪神がいる。
良いものにはよいことが、悪いものには悪いことが起こるのだが、
過程においては、あざなう縄のごとくにどちらにも起こる。
ただ終には、良いことにはよいことが、悪いことには悪いことが絶対として起こるのが道理である。
だから、
何もしなくても、善いものには必然報われるという果が現れるのである。
何も神々が、それなりに手を下さなくとも、法の自由に守られるのである。
偏に、自分の心に純粋なる善があればこそ、案ずるより産むが易しとなっている。

一般に、生じることは無知にあり、生きていく過程に於いて学び、善悪の在り方を得るものである。
そのために、右往左往にして迷い、正してこそ安心となるものである。
善い人こそ、生き難くてある世の中であるが、生き難くてくじけても、
善い人であったことの縁は、安心につながっているのである。どんなに不安があっても、
そのために、智者である神々が恐怖を抱くことがなきよう、手を差し伸べ導いているものである。
自分の一生を終えるとき、正しい人は、何も恐怖を抱くこともなく、一切の記憶を忘れて
昇天していく様を感じるのである。

自分の心に利己的にして保身にあってはならない。
素直に、利他にして我が身が救われるものであることを知ることである。
この世においてはただ仮定であり、利他にして我が身損じても、あの世が
魂の真実の生きる世界である。その利他的行為にこそ、本当の幸せとなる世界がまっていることを信じることである。
ただただ、魂、いわゆる生命エネルギーに死がないためである。
だからこそ、この世はとても大事であり、生きてきた行為、業によって生命世界の幸不幸が委ねられているものである。
何もかも自分の心次第、持ち方、あり方である。

このエネルギー世界に善悪などなく、善悪は人の持つ善悪である。
人の心の善悪である。その善悪が転倒しているものであるなら、
すべてが悪の世界となり正義となってしまうために、正されることがなくなってしまう。
くれぐれもこの自由を間違わないように生きることが、神々の願いである。
もう一度言おう。
エネルギーには善悪などない。ただ回るだけである。
そのために、絶対となっている。
そのために、浄化となっている。
そのために、絶対善となっている。
この運動が宇宙である。ミクロからマクロまで隈なく通っているものである。
智者、神々が願うことは、正しい浄化とすることである。
ただただ、自由であるためで、その自由は、いかなる力もおよばないものであるから。
核の力をもってしても、神々の力をもってしても動かすことはできない。
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