つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

経文の訓え

2017-08-17 | Weblog
「・・我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池・・」
「・・我、汝の為に説くに、名を聞かせて身を現わしているではないか。 法則を身に具えた心念は、あの世においても無駄になることはなく、よく諸々なる苦を滅する。
仮に、害意により大火坑へ落されても、観音と呼ばれるようになった彼の心念の力は、
大火坑を池に変成してしまう・・」・・・
観音経は、
釈迦の妙なる法を行じ、観世音と呼ばれるようになって死んでいった修行僧の死後の世界からの語りである。
そのために、釈迦が説き訓えたことが正しかった証明ともなっている。
釈迦が説いた修行法を行じて、法則を身につけることができ、その具えることのできた人の心の力は、
あの世へ逝ってからでも決して無駄にはならず、瞬時思い通りになっていくとしている。

あの世が、心の現象世界であり、心に死がないことを証明したのである。
所謂、心が生命であり、経験が記憶となって心が作られていき、その経験の記憶が無くなることがなく、
死後の世界となっていくとしているのである。そうして、修行が縁となって、観音と呼ばれるようになった人達によって、
修行僧達に啓示となり、
死後の世界があることが証明されたのである。啓示というのはそういうことである。

啓示は、般若心経が説かれた時分は、正しく理解されていったために広く伝わり、多くの修行僧が悟りを開き、啓示されていったが、
広まるにつれて文字の解釈が間違って伝わっていき、それ以来、悟りを開く者は誰一人現れなくなったために、
啓示となることが無くなってしまった。

観音経は、困ったときに一心に観音に祈りなさい。そうすれば、現れて願いを叶えてくれますよ云々と説いているのではない。
修行して、観音と呼ばれるようになり、その人の死後の世界は、どのような世界であるかを、
説いているのである。決して、祈るために説かれたのではないのである。
文字の知識で解釈していくために、正しく文字の意味を理解できず、曲解してしまう。
だから、般若心経は、知識ではなく知恵でもって理解することである旨を伝えているのだが、
それすら間違って解釈してしまい、仏の訓えが、何の力も発揮できないものとなってしまっている。
「心無圭礙 無圭礙」である。「心は文字に礙げられない(さまたげられない)」としているのは、心の自由であるとしているのである。
だから、知恵をもって文字の解釈をすることである。

どうぞ、間違った解釈をしませんようにと念を押すために、般若心経には開経偈が付され説かれているのである。
「願解如来真実義」=「願わくば、如来の真実の意味をよく解さんことを」
「どうぞ、如来の真実を正しく解してくださいよ」と。これは、観自在と呼ばれるようになった修行僧の啓示である。

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生命とは

2017-08-17 | Weblog
「お金と灰皿はたまればたまるほど汚くなる」
確かにそう思う現実にちょくちょく出会う。
タバコを吸う人は、自己満足を優先してしまうために、
他人のことは二の次ということがわかる。
道理というのは、利己優先にしては
後、多大な害となることを示すが、
多少の時間差があるために、なかなかそれを理解するに至らない。
利己主義は、最も自分を傷つけることを知らねばならない。
利他主義は、最も自分を愛しむことを知らねばならない。
人は誰でも自分が最も愛しいものである。
だからこそ、自分の身において他人の身を知り、
我が身をつねって人の痛さを覚るのである。
このあまりに単純を知ることがなければ、横柄となり
高慢ちきな嫌われ者になる。
つまり、傲慢無礼者。つまり、大馬鹿者なのである。
頭の良い者というのは、道徳に長けているものである。
道の理を覚れば、その道の徳、、つまり、恩恵を受けられるのである。
だから、道理の徳として道徳をよくよく学ぶことである。
よくよく理解すれば、道理が守ってくれるのである。
何事においても終にはあなたの味方となり、極楽往生100%である。
終が大事である。
生きている間は、心の自由に由っての喜怒哀楽の過程である。
肉体の苦楽は、心の無知から起こり、得てして過つものであるために、
それとなく喜怒哀楽の強弱の不均衡に与る。
が、道徳を学びこの身に付けて生きていけば、喜怒哀楽の不均衡も
味方となって、終わり良ければ総て良しとなるのである。
人生において、その生き様(過程)は、善い人でも悪い目に合うし、
悪い人でも好い目に合うものであるが、
終には、善い人は良いところへ、悪い人は悪いところへ逝くのである。
それは、
人生が閉じたとしても、魂、心に死がないために、
魂、つまり、心、つまり、生命エネルギーは、
この世からあの世へと移っていくだけである。
あの世が、生命エネルギー、つまり、心の真実の世界なのである。
もう肉体がないために、心の記憶の現象の肉体となっている。
それは、夢と同じ現象の世界となっているのである。
つまり、あの世は心の記憶の現象世界なのである。
だから、心が悪い経験ばかりしてきたのであれば、当然あの世は悪い世界となっている。
それは、この世のように曖昧な世界ではない。
あの世では、
悪い人(魂)でも、好い思いをするということは無く、善い人(魂)でも、悪い思いをするということは無いのである。
悪い人は悪い思いだけ、善い人は好い思いだけの世界となっている。
肉体がないために、
もう改められない世界となっているのである。あの世では、記憶の現象の肉体であるために、
新たに記憶を変えることができないのである。だから、
肉体を持って経験を積んだこと(人生)が、いかに大事なことであったかということである。
死んでからでは遅いのである。あの世が、絶対世界となってしまうためである。
この道理を知らずして死んでいった人は、魂が、この道理を悟るまで輪廻する。
この世とあの世を何度も行き来するのである。それはただただ苦しみだけであると先人達は訓える。
が、新たに肉体を授かるために、あの世の良し悪しを選択できる自由を持つ。
一切苦の人生から、、道理の徳を覚れるのか、が人生である。
あの世でリセットされた記憶は、故に、無垢となって、無知にして新たな記憶が刻まれていく。
子供の動きとなって、一から歩んでいくのである。
さて、魂、心、生命エネルギーは連綿である。
幾つもの人生経験を経て現世となったのであるから、前々前・・世の記憶が統一されたのが
今の心の質である。どうか、その記憶を呼び戻して、過去の誤りに気が付いて、
再び過つことのない人生を歩むことである。
善い人でも悪い思いをするというこの世は、修行の場、魂の質の向上のできる唯一の場、
そして、あの世を幸せとすることのできる時を与えられたと悟れるならば、
人生の目的を達成することになる。二度と一切皆苦の世に生まれることが無くなる。
日々起こる苦しみにどう応待すればよいのかも自然と知れてくるものである。
特に、貧乏として生まれても、貧乏であるからこそ、分かち合う、助け合うことができたなら、
金持ちが施しをするよりも、比べ物にならないほどの功徳となる。
金持ちは、金持ちであるから施して当たり前なのである。あたりまえであるから、
当たり前のことをしてもご利益というのはない。むしろ、金持である人こそ、
吝嗇であり、浅ましいものである。
金持であるからこそやらなければならない事、して当たり前のことをしないでいれば、
来世、極貧を与り、貧困の意味、魂の苦しみを味わう。
エネルギーの法則は、非情なものである。ただ道理に適うか否かである。
そのようにして、魂の浄化、どのように磨いたかの応対で、「あざなえる縄の如し」を悟ることを与る。
生命はエネルギーである。






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