つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

安住の地を求めて

2016-09-24 | Weblog
命がまだ活発なうちは死が恐怖となってくる。
死ぬのが怖いと思うのであるが、寿命という与えられた老年ともなれば、
死というものがそれほど怖くなくなっていく。
人は皆、それぞれに年老いれば、死ぬものであると理解しているために、
自分もそろそろお迎えが来るのだろうと覚悟を思うのである。
そうして、いつとはなくボケはじめて、あの世が今と同じように続いて見えてくるようになる。
そして、先立って逝った親族や知人友人とのことが頻繁に思い出されてくるのである。
彼らもみな同じように、
死というものがまだまだ先で、はたまた自分には来ないものであると思って生きていたものである。
それが瞬く間に時は過ぎて、病やら、災害、事故やらで先立って逝く。
人生は、誰彼にも波瀾万丈である。
ピンピンころりで、前日まで元気でいながらの老衰で先立つ人は倖せである。
死というものは、生に対して絶対条件である。
なぜそうなのか、それは、死後の世界こそが生命の真実の世界であるためである。
生命自体には死というものがない為である。それは、生命がエネルギー体であり、
エネルギーの法則によって生じているためである。
肉体をもって生きていた経験の記憶が蓄積されて統一され、紆余曲折、栄枯盛衰を
繰り返しながらの存在である。
目的は、変わることのない安住を得るためである。
諸行無常にある常住性ではなく、動きの無い常住である。
安住のエネルギーである。まことに真円であり、
動いていながら動かないものである。

安住=これと言って深い反省も無く、その境地にとどまること。

エネルギーの法則は、安住である。これと言って目的など持たない。自由である。
この安住の意味を悟ることである。深遠であるも単純として理解できるものである。
少数にして知る人ぞ知り、多分には知らないものである。
コメント
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