学者として認められているものでも、
真に、その人のいう事が正しいものとは限らない。
人が人たる者として認め、作り上げている
ある基準に達している知識深い人としての見識であっても、
人たる者が認めているに過ぎない基準は、ただ曖昧なものでもある。
人たる者は、人だものという貴賤さを臨機に於いて持つ。
相憐れむものの内にある。
この宇宙が、ただの一つとして留まるものでは無いもので、
廻りながら回るものである為に、未来も過去もそして現在も同じくしてある。
そのために、隔たりというのは無く、変化に於いて、時の現れが知れるものでもある。
その時々に於いて、ありとあらゆる場面があるもので、それはまた、
自業自得にして変わるが、衆縁和合としてのありかたは、悟ることの一事につきる。
もし、悟ることができれば、自業自得も良縁にして和合となる。
悟るとは、何を悟ることなのか?
「現在あるこの身を知った」ということである。それはどういうことかと言えば、
今の自分は突然にして現れたものではなく、
過去にわたって何世代もの命の繋がりによって現れているものであるということである。
それはなぜかといえば、エネルギーの法則が円運動であり、止まることのない動きである為に、
無くなることのないものとなっているためである。
あの人生、この人生と、幾多、久遠にわたって生きてきた現れであると知ったことである。
それが「我以知見」の知見である。つまり、法則を悟ったのである。
真に、その人のいう事が正しいものとは限らない。
人が人たる者として認め、作り上げている
ある基準に達している知識深い人としての見識であっても、
人たる者が認めているに過ぎない基準は、ただ曖昧なものでもある。
人たる者は、人だものという貴賤さを臨機に於いて持つ。
相憐れむものの内にある。
この宇宙が、ただの一つとして留まるものでは無いもので、
廻りながら回るものである為に、未来も過去もそして現在も同じくしてある。
そのために、隔たりというのは無く、変化に於いて、時の現れが知れるものでもある。
その時々に於いて、ありとあらゆる場面があるもので、それはまた、
自業自得にして変わるが、衆縁和合としてのありかたは、悟ることの一事につきる。
もし、悟ることができれば、自業自得も良縁にして和合となる。
悟るとは、何を悟ることなのか?
「現在あるこの身を知った」ということである。それはどういうことかと言えば、
今の自分は突然にして現れたものではなく、
過去にわたって何世代もの命の繋がりによって現れているものであるということである。
それはなぜかといえば、エネルギーの法則が円運動であり、止まることのない動きである為に、
無くなることのないものとなっているためである。
あの人生、この人生と、幾多、久遠にわたって生きてきた現れであると知ったことである。
それが「我以知見」の知見である。つまり、法則を悟ったのである。