つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自由というエネルギー

2016-01-11 | Weblog
エネルギー;物体が持っている、仕事をする能力の量。・とある辞書にある。

ゆらゆらと揺らいでいる陽炎の様な(エネルギー)があった。
それは微細な微細なものが反応(引き合い)、渦を巻き寄り集まり、
その変化が刺激となって、対応したエネルギーが生まれていく。

刺激に対してよく反応する。
そこに変化が現れる。つまり、創造される。

外部からの刺激に
よく反応して(受け入れて)創られていく世界であるために「受」として、
この世(生命の世界)は受の世界となっている。
エネルギーである。エネルギーの世界である。

このエネルギーが廻るものであるために、環状となって循環となっている。
これが世界の姿となっている。有限でありながら無限となっている。
このエネルギーを離れて、存在は無い。つまり、
エネルギーの外側は無である。存在とならないために、
私達には考えることのできないものとなっている。
考えても仕方の無い事なのである。
このエネルギーの根本が自由となっている。自由が性質である。
すべてがこの自由から成っている。
この自由を束縛する力は無い。
如何なる力も自由を動かすことはできない。
すべてがこの自由の下の存在であるためである。
この自由がエネルギーの法則である。
すべての存在の法則である。無上であり唯一である為に「百千万劫難遭遇」と
説かれているものである。

エネルギーが無くなることのないものとなっているために、
明日が来ないということはない。そのために、明日が信じられ、人は生きていけるものとなっている。

生きていくことは、生命の世界を苦の無い世界とするためで、
生命には死がないためである。 生命に死がないのは、
生命がエネルギーの法則によってつくられているからである。
人の肉体が生命ではなく、生命エネルギーが肉体をもって生まれ活動しているもので、
活動するのは、生命エネルギーそのものの浄化の為である。
肉体は無常であり、生命は常住である。
生命が常住である為に、生命世界を苦の無い世界とするために、
回る変化という無常に宿り、生命エネルギーの浄化とするのである。
故に、人は死ぬために生まれ、死後の世界こそが生命の真の世界として、
その世界の幸福を得るために、無常の肉体をもって人生生命の浄化として生きていくものである。

エネルギーが自由である為に、人生もまた己の自由な行動としてあるものである。
そのために、このエネルギーの法則に気が付いて、正しい浄化として生きていくことが、
生命エネルギーのこの世の目的である。先人たちがこぞって、人生正しく生きなさいというのはそのためである。
生命エネルギーは肉体をもってエネルギーの浄化ができるもので、
肉体が無くなってから(死後)では、記憶の現象の肉体でしかなく、
何ら浄化の行為はできないものとなってしまうからである。
あの世に逝ってからでは、エネルギーの浄化はできないものとなってしまうのである。
死んでからでは遅いのである。死後の世界は時間空間の無い世界である。
そのために、どれだけ長くいても飽きるということはない。
この世での無知の為に、エネルギーの法則を覚れなかったために、
何れ輪廻してくる。生まれてくるのは前世の行いによる縁によっての場となる。
無知である為に、一切皆苦として生きていく。どうあれ、生命(魂)が知らねばならないことが
隠されてある場である。それに気づくことである。

人生、エネルギーの法則を覚り、悔い改めて正しく生きることで、
輪廻を離れていくが、それまでは、幾多となく、この世とあの世を行き来する。
それはただ苦に他ならないが、生まれてくれば肉体を持ち、覚れる機会が与えられたと知るなら、
一条の望みができたことになる。ある意味、人生は秩序持って与えられているものであると知れてくる。

数字があり、計算が成り立ち、緻密にしてあるものでもあると知るものである。
それは、何かの‘はからい’であるなら、自由にしてあるものであるという答えに辿り着く。
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