つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

如来というもの

2015-01-04 | Weblog
人もまた自然によって作られた産物である。
先生という文字に、
生じたとすることが何よりも先だったためにという進化によって、
後世に生じてくるものの先頭に立つ。

自然というものに善悪は無く、ただ廻るものとしてあるための繰り返しによって、
正義となる。
円を描くために元に戻るという意味で浄化となっていて、その変化は進むという運動、進化であるが故に
戻りながら進むという渦巻き状である。生命もまた、この渦巻き状のエネルギーによってはかられている。
そのスピードは光にしてあり、高速で動いているが、エネルギー全体の動きである為に、内容は
動いていながら静止状態である。
どれもこれも自然にしてあるものは、微なるものから大なるものまで、一つの容の様を呈していて動いているのである。
たとえていうならば、リンゴのような形を成していて、常に中心から相対して上下左右に伸び広がり、また集束してと繰り返している。
収縮している様はまさに生きているもの、エネルギーである。
その変化の刺激を受けて、対応したエネルギーの容として各現象となっている。

真っ先に生まれたものの進化は、よく反応したものとしないものに分かれるが、
よく反応したものは、その道理を熟知していき、あらゆるものに対応する能力を身に付ける。が、
どんなに身に付けても、完全無欠という溶け込む状態にはならない。つまり、限りなくゼロ地点に近づけはすれども、
ただ限りなくである。それはまたエネルギーそのものが自由であるためである。
それは、全体を司るものと、個々を司るものという自由にしてあるために、個々にして成り立っている全体であるためである。
なかなか正確に言い表せないものであるために、敢えて言うなら「個々にして生きている」という言葉が当てはまる。

原始的なもの、後進的と先進的なものの開きに於いて、その能力格差絶大であれば、
原始的なものは先進的なものに支配されてしまう。その支配がまだ発展途上にして善悪なものであれば、
善悪なものに左右されてしまう。
地球人が、恐る恐る宇宙に飛び出し始めて、とある星々に探索に出かける様に、そして、それは人類に利となるためのものであるように、
地球より遙かに先進した知的生命が、しかし、まだ発展途上であるが故に善悪を持ち、自利にして行動しているものであるなら、
その自利に支配されてしまう。その知的生命よりまた遙かに進化していて、善悪を超えてある生命があり、この宇宙の根本法則である浄化を
正しく持っているとすれば、闇雲に支配しようとする者の力を阻止するものである。そこに、慈悲の慈があり、悲を葬り去るものである。
それを、いまだ法則を理解していない人類は、一様に神とするが、真理は更にそれを超えてあり、神の有り無しを明示する。
ただ漫然にしてある法則に、正しく浄化されてあるか否かを訓えるのである。