つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

舎利子としての修行僧

2014-03-08 | Weblog
キリストもまた舎利の子として修行を積み、悟りを開いた修行僧の一人であった。
その縁によって菩薩の啓示を受け、それを神の言葉としている。
人が、
全知全能としている神というのは、人の恐怖心が作っているもので、
恐怖が無ければ神も必要とせず、何に縋るという事も無いものである。

こうして生命があるのも是によるもので、
是が宇宙の法則であり、諸々の法則となっているものである。
是には恐怖も善も悪も無いもので、ただ廻るものである。
だから、絶対善となり、浄化となっているものである。
その質が是の自由である。その自由によって諸々は現れている。
ここが理解されなければ、すべてが矛盾したものとなって、永遠に解決できるものではない。

回る変化に対応して存在となっているものである。
変化の無いところには時空も無い。この変化することが変化の無いもの(永遠)であることを知り、
是を覚ることである。是というのは常住である。
無常の中にあって常住を知り、それが是そのものであり、常住である是に宿るための無常に生きるものである。

常住が弥陀の世界である。如実。如来。宇宙。虚空。唯一。

恐怖を思うのも善悪を思うのも自由であり、心の自由によるものである。
その心が是によって作られているためである。
だから本来、心には恐怖も善悪も無いものである。
回る変化に正しく対応していれば、正しい浄化となって、
生命エネルギーが正しく浄化されていく。その浄化の行為が愛の行為である。
生命エネルギーの絶対行為であるために、愛を正しく理解して行為としていかなければ、
愛も可愛さ余って憎さ百倍などと顚倒してしまう。
キリストはこの愛の行為を説いていったもので、愛の行為こそが生命の真実の世界の幸せを作るものであることを説いていったのである。
神の国を説いたのでもなく、神の愛を説いたものでもない。愛こそ天国を作る行為であることを説いていったのである。
天国も地獄も死後の世界である。人が死んで赴く世界である。それは、
肉体から離れた心が作る世界で、心に死が無いためである。それは、心がエネルギーであり、
是と同じエネルギーだからである。
心は、経験した思い、記憶が蓄積されて作られていく。
正しい経験が大事である。
コメント
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