つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

真実

2011-10-23 | Weblog
人それぞれである。
まさに人それぞれであるために、
思いもそれぞれである。
処が違えば環境も違い育ちが違う。
だから、同じ物事でも感じ方がそれぞれ違う。
真実は一つであれど、たどり着く方法はいくつもに分かれてあるように語られる。
が、やはり、一つの筋は通っていてたどり着くものである。筋が違えば真実にはたどり着くことが無い。
真実がいくつもあれば、真実ではなくなってしまう。何を信じていいのか、その人それぞれの思いによっての
真実とされてしまう。同じことを聞いても、思いを違い受け取る人がいる。
それが
信仰も誤れば地獄に落ちるということである。
信仰は、筋違いとなれば確実に地獄に繋がってしまう。なぜなら、真実が一つである為に、筋違いとなれば
真実には繋がらず虚偽に繋がることになるから。虚偽は悪である。悪は地獄である。
善が善ではないとされ、
善でないのが善とされてしまう為に、善がなくなってしまい悪だらけとなってしまう。

真実は善である。その
真実とは法の真実である。
法には善悪などは無い。そのために、絶対善となっている。
法に創られ、神も仏も法の存在である。法を超えるものは何一つ無く、
法に沿って生きることによって幸せにたどり着くのである。
それが、法を知り得た神、仏の説くところの行為である。
善いことをして生きていきなさい、と。
それが、真実である為に。


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宇宙

2011-10-23 | Weblog
見えないが存在している。
見えないから無いとは限らない。
見えなくてもそこにあり、聞こえなくても音があり、
感触無くても触れているものはある。
感官研ぎ澄まされて見えてくるものあり、聞こえてくるものあり、感じるものある。

時を捉えて映像が刻み込まれる。
時を捉えて音が記される。
そこには、今が過去となって保存されている。
捉えようもないものが捉えられてそこでは繰り返される。
光に変換された時を捉えた。
心というエネルギー。

ものはあるから見えるのではなく、刺激とならなければあっても見えてはこない。
見る目(見ようとしなければ)が無ければ見えないものである。

無から有がつくられることは無く、有からつくられるものである。
ある一点に円い容で偏在しているものである。
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