つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無垢

2006-11-26 | Weblog
般若心経は法を語っている。
法によってすべてが存在となっているために、
法がなくならない限り存在もなくならない。
法がなくならないのは、法がくるくると回る動きとなって、円となっているためで、始まりも終わりも分からない動きとなっているから。
始まりも終わりも無いから永遠と続く動きとなっている。
法はエネルギーである。エネルギーの性質が回る動きを創っている。
すべてがこの法則の存在である。
神がいたとしても、仏がいたとしても、このエネルギーの中の存在であるために、
法則を動かすことはできない。
人間のもつ科学がどんなに進歩しても、このエネルギーの法則を超えてしまうことはない。なぜなら、超えてしまったとしたら、その時点で存在とならなくなるから。存在とならないということは、例えて 語ることも、考えることも、考えようと思うこともできないこと。無であるということすら思えないこと。
例えもできないことなのだが わかりやすくするために仮にとしている。

法の存在であるために、すべてが回っている。
時間が回り、一日として明日は回ってくる。なくならない動きである為に、
変わらず未来はやってくる。
この回る動きが変化を創り、エネルギーは変化に対応した動きとなって
様々な生命が作られている。
変化が諸行無常となっている。これが変わることが無く常住として法となっている。
時間は止まることなく前へ進むが、円となっているためにゼロにもどる。
ゼロから始まってゼロに戻る。前も後ろも無いために、どんなに進んでいっても前に戻る。時間は可逆しないが、過去の時間がなくなってしまったわけでもない。
かといって あるわけでもない。時間は不可逆であるが元に戻る。

般若心経は智慧で見ることを教えている。智慧で観ると心経の説いていることが見えてくる。
子供は信じるために愛される。疑いの心が無いために愛される。子供は自然であるために。
だから、救われると神は言う。始めに善いことを聞いたらそれに従うために。
コメント
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