星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

ラーメンズ的日常(15)5700系

2016-07-26 01:36:53 | ラーメンズ的日常
*これはほぼフィクションです。

夫:「ラミーさん、生きてますか?」って暑中見舞い来てるよ。
妻: 最近ブログアップしてないからね。
夫: イチローが引退するまで続けるって言ってなかった?
妻: 春に突然、「アメショっす!」の銀チャンが亡くなったのね、そのこと、書けなくて、そこで止まったままになってる。まだお星さまになってないの。
夫: 富士丸くんの時も、突然だったな。
妻: そう、あまりにも突然。…天使は飛び立つのが速いなぁ。
   銀チャン、夢の中に出てきたことがあるのよ。
夫: どんな?
妻: 普通にそこの廊下の真ん中に仰向けに寝てたの。私が「銀チャ、足短いね」って言ったら「オマエもな」って言った。
夫: オマエ?
妻: そう、彼は私のこと「おまえ」って呼んでもいい唯一の男子だったの。
夫:(そういえば、呼んだことない)
   でも、ブログ更新しないのを、銀チャンのせいにするのは、どうかな?
妻: パソコン、乗っ取られたし。
夫: 10だな。
妻: ある日突然、PC画面に「WINDOWSをアップグレードしています」というのが現れ て、おかしくなったの。2月に「このパソコンはWINDOUWS10に対応していません」て FUJITSUから連絡きていたからしてなかったのに。もうグシャグシャよ。メールも消えたし。自分の通信・表現手段を失った気がしたわ。
夫: 元に戻したじゃないか。
妻: ありがとう。でも、あの2週間で受けたダメージ、後遺症は大きいの。
  自分は、新しい物を受け入れようとせずに古い物に固執している人間なんだ、という自 覚。そんな自分にイライラするのね。理解できないものを敵視する、そんな偏狭な老人コース一直線を辿っているんだという自覚。街で暗い目をした不機嫌な表情の高齢者いるでしょ。彼らの不機嫌の源を自分の中でかいま見た気分なの。
夫: 最近、愚痴が多くなったね。
妻: そう、一挙に老化が進んで、希望が語れなくなってる。
夫: そこまで悲観的になるか?
妻: だって、若者は選挙に行かないで、ポケモン妖怪追っかけているし。
夫: 若者のせいにしない。
妻: …あのね、この間本屋で『本屋さんのダイアナ』っていう本を立ち読みしてたら、ショックな文に出会ったの。主人公の小学生が言うのね~「私は神崎彩子っていうの。子がつく名前なんてめずらしいでしょ。おばあさんみたい」って。
夫: そういえば、子供の頃、「トメ」とか「ヨネ」とか「キク」なんていう名前聞いたら、「明治の人だ」って思ったなぁ。それと同じか。「昭和の人」だ。
妻: この間行った体操教室は、90%くらい「~子さん」だったわ。
   私と同じ名前の人が何人もいた。
夫: どうしてわかる?
妻: 日常を忘れるために、20代のコーチがすべて下の名前で呼ぶの。
  「こんにちわ、○○子さん」て。そして「皆さん、笑顔で頑張りましょう」よ。
夫: 新興宗教じゃないのか?
妻: 近いわね。「筋肉つけたら寝たきりにならない」っていうのが宗旨よ。
夫: 体脂肪減らすんじゃないの?
妻: そんな目に見えることじゃないわ。未来への不安を和らげるという深いところに訴えるのね。
夫: 和らぐの?
妻: 少なくても、自分と同じ流れの中でもがいている人がいっぱいいる、自分だけじゃな いっていう安らぎはある。
夫: 昭和倶楽部だな。
妻: でも私みたいに精神的に不安定な老人ばかり増えていく日本社会って、どうなるんだろ。
夫: 少なくても、何でも人のせいにせずに、自分でできること、コツコツとやっていった ら、いいんじゃないかな。
妻: それ…なんか…つまんない。
夫: そのうち、ワクワクすること見つかるよ。
妻: あ、そういえば、今日は、めったに来ない阪神電車の新しい普通車に乗れたの。青いつり革、グリーンシートのところは緑のつり革、床の真ん中は水路のような模様になっていて、全体が晴れた日の六甲山のイメージね。シートカバーは蒼い夜空に100万ドルじゃなく、家々に灯る暖かい窓の灯りのような点々カラー。同じ料金で、あの車両に乗れたら、本当にラッキー!って思う。もう向こうから近づいてくるの見てるだけでワクワクよ。
夫: 5700系だ。しかしあれだっていつか旧型車両になる。
妻: あなたの方が悲観的だわ。



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サクラチル

2016-04-13 00:08:13 | 五七五
  サクラチルで始まる春も桜咲く

まだセンター試験も始まっていない何十年か前の春、「サクラチル」という一通の電報が私のもとに届いた。
信じられなかった。予想問題が的中した世界史と数学は完璧な答案が書けたという自信から、私は合格を確信していた。不合格なんて思ってもみなかった。
身体も思考も硬直したままの時間。言葉が出てこなかった。家族も無言だった。
その夜、いつものように着物姿で碁会に行っていた父が、何か叫びながらドタドタと走って帰ってきた。「○○~、合格しとるぞ~」???
個人情報保護法のある今日では信じられないことだけど、当時はラジオで夜中に大学の合格者発表があったのだ。「○○大学、合格者、○○○○」
やがて、大学から合格者宛の分厚い封筒が届き、私にもサクラサク春が来た。

大学に入学してから、受験当日大学正門前で電報を依頼した「陶芸研究会」なるものを探したが、大学内に該当する研究会はなかった。まあ逆の「サクラサク」という電報が来て実際には不合格だった、というよりは、はるかに罪は軽い。
その後、就職試験で挫折を味わい、「サクラサク」の後は必ず「サクラチル」のだと悟ったような大人になった。
今年の春も桜は咲いて、散っていった。

  二人から三人になる新学期わたしは介護科一年生

4月から、いよいよ本格的に母との同居生活が始まった。
母は2月に路上で転倒し、大腿骨を骨折して手術、大腸癌も見つかり切除手術。初期で転移なしと、I先生が言ってくれたエイプリルフールの日、ようやく退院した。40日ぶりに下界に戻った母を満開の桜が迎えてくれた。
同居3日目、おむすび持って、25本の桜が満開の近所の公園にお花見に行った。曇り空に時々太陽が出てくると驚くほどの熱線を感じる。春休みの少年達がサッカーをしている。桜の木が集まる場所には、老人会の横断幕がかかっている。ゆっくり歩く人達が、時間差で集まってきて、ついに50人くらいの団体になった。そんなゆっくり老人会を遠目に見学しながら、桜の下のベンチに坐り、バスケットを開ける。あちらにもお弁当が配られている。しばらくすると、アコーディオンが流れ、マイクを持った人が歌い始めた。昭和20年代に青春時代だった人々にとって懐かしのメロディが続く。あっ、母の頭も揺れだした。

♪古い上着よさようなら♪さみしい夢よさようなら♪青い山脈~♪(西条八十作詞)
「しかし、その上着は捨てなかっただろうな、この世代の人達は…」と、今まで一人暮らしをしていた母の部屋を整理している私は思う。石鹸、ティッシュペーパー、ラップ、貼り薬などの膨大な買い置きに驚く。1970年代石油ショックの時トイレットペーパーを買い溜めしたのは、戦中戦後配給切符持って並んだことが原体験としてあるこの世代の人達に違いない。
最近母は、表情が乏しくなって以前のように他人への配慮も忘れかなり自己中心になっている。しかし、薄いピンクの光の中で、公園でサッカーをしている子供達へ注がれた母の目線は、なんとも優しく、桜の下のその横顔をみていたら、とても嬉しくなった。

「良かったね。母さん、今年もお花見できたね。」

私達がベンチに腰掛けておむすび食べ始めたら、サッカー少年の一人が、新型の青い自転車に乗って前を通った。「いいねー」と母がいう。見ていると少年は向こうのベンチに置いたリュックを、満開の桜の根元に置き換えた。お年寄りがベンチに座れるように置きっぱなしのリュックをのけてくれたのだと思う。それを見て、リュックの持ち主らしい三角顔の少年が駆けつけた。聞こえないが「何でこんなところに置くんだ?」と彼を責めている様子。リュックを移動した顔の丸い少年は頬を染めて桜の根元を見ながら黙って笑っている。彼らは、このままの立ち位置で大人になるのかなぁ。
「心優しき少年よ、君の優しさに気づく人もいる。桜の木はちゃんと見てるわ。」
少年も、老人も、一緒に、桜色の世界で微笑む時間。
母が生まれた昭和の初めには、こんな少年達が遊ぶ姿を見ながら、「彼らもやがて兵隊さんになるんだなあ」と大人は思っていたのだろうか。そんな時代が訪れませんようにと、桜の下で真剣に祈る。桜の木の下では、遠い時間が突然訪れたりする。
 
  サクラサク人が集まり時重ね思い重なりサクラチル
 
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ザムザ氏の散歩

2016-02-18 01:45:04 | 持ち帰り展覧会
この冬の芦屋市立美術博物館の「戦後のボーダレス~前衛陶芸の貌」展。
戦後、関西の陶芸界にも新しい流れが起こった。1947年に四耕会、1948年に走泥社結成、若者たちは、新しい時代の新しい焼き物を作った。クレイ・ワークの出発。

まず、第一室には「われわれが活けられないような花器を」と前衛華道家に求められた花器が並ぶ。
器(うつわ)とは、「ウツ」なる空洞なるものがその中に何かの到来を待ちうけているものらしい。オブジェのようだが、そこに花が加わって完成する世界。どんな花を生けようかと、想像しながら見ていく。体用留は考えない。
三浦省吾の「作品」1951は、動きのある男児のように可愛い。まるで映画「スターウォーズ~フォースの覚醒」に出てきた、BB8。
八木一夫の「春の海」1847はお正月に飾りたい。花咲き、蝶が飛んでる季節、春の海では、まあるい幸せそうなフグが泳いでいる。


  三浦省吾「作品」   八木一夫「春の海」 ~写真は展覧会図録より  

持ち帰りに選んだこの2点には、お花は必要ないかな。それでも丸く空いた空間は、何かを待っているみたいなので、私の気配でもしのばせてみよう。

第二室はいよいよオブジェ。
林康夫の1948の作品には「雲」という題がついているけど、私にはおでことおでこをこっつんこしている母子像に見える。真ん中の空間の形が美しい。バレンタインチョコの形にしてもいいわ。
重量感あふれる熊倉順吉の「作品」1956は、洞窟の風景みたい。コップのフチコさんになって坐りたくなる。どこにしようかな。
陶製ではなく、鉄製のオブジェも出ている。現代美術懇談会つながりで登場した、堀内正和の「うらがえる円筒a」1960。確かに途中で裏返っているのに、ある角度から見ると上から下まで一直線を辿れる。本当に格好いい作品。


 林康夫「雲」  熊倉順吉「作品」 堀内正和「うらがえる円筒a」

そして八木一夫の「ザムザ氏の散歩」1954である。

         

このザムザ氏は、おそらく回転しながら歩むのだろう。次々に小さな足を地につけて、自分がまわりながら進むのだ。(そういえば、SMAPがデビューしたての頃、新春かくし芸大会で、グルグル回る鉄の環(ラート)を全身で回して鮮やかに技を決めていた。ドイツ生まれのスポーツを彼ら一生懸命練習したんだろうなぁ。あれから24年)

ザムザ氏とは、フランツ・カフカ(1883~1924)が1912年に書いた小説「変身」の主人公である。二度と読みたくないと思った小説である。

~ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもない大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。(訳:中井正文、角川書店1968)
~ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から醒めると、ベッドのなかで、ものすごい虫に変わっていた。(訳:城山良彦、集英社1989)
~ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。(訳:池内紀、白水社2001)
~ある朝、不安な夢から目を覚ますと、グレーゴル・ザムザは、自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた。(訳:丘沢静也、光文社2007)

カフカは、挿絵として虫の姿を決して載せないように指示した。遠方の姿でさえ駄目だとした。虫の姿形を読者の想像にゆだねたのだ。そのことが、この短編を一度読んだら忘れられない感触をのこす作品にしている。私は巨大なゴキブリのような形の単純なイメージしかなかった。

同じ短編を読んで、この虫の形をつくり出した八木一夫の想像力に驚く。(正直、ザムザに「氏」をつけたところから驚いている。小説では氏がつくのは、父親の方だ。まさか?)
壊れそうな足で立っている。実際に何本かは欠けている。それさえ小説の中味と連動した八木の創作の一部かもしれない。いやきっとそうだ。リンゴを投げつけられてボロボロになった身体だ。長い時間見つめていると、表面の無数の穴からは嫌な虫の匂いも漂ってきそうな質感である。でも、カフカの作品にはない、ユーモラスな要素がこの作品にはある。歩き方だ。
このザムザ氏は、どんな風に歩くのだろうと、作品を見ながら考えているうちに、気がついた。回転するのだ。ゆっくりと次々に横の足を地につけながら。足の方向がてんでバラバラに見えるけど、全身でリズムとらないと、ザムザ氏は歩けない。
あー、カフカに見てほしい。
「春の海」のような作品を作った同じ人が、「ザムザ氏の散歩」を作った。
八木一夫(1918-1979)自身も、この作品によって、伝統ある京都五条坂の陶芸家から、オブジェ焼きという新しい造形作家に「変身」したのだ。

  
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月と人と

2016-01-07 23:11:38 | 持ち帰り展覧会
勤めていた頃、駅で降りて、自転車置き場に向かう時、上空の月はいつも三日月だった。また違う日、自宅に近づく東向きの真っ直ぐな道の上空の月はいつも満月だった。記憶では通勤帰りの特定の場所の風景と月の形の組み合わせは、いつも同じなのだ。どうして?とその当時疑問を持つ余裕はなかった。
記憶の中の、同じ時間帯の特定の風景と月の形の組み合わせが同じなのは、当然のことだと知ったのは、つい1年前のこと。薬局で時間待ちしていた時手に取った、子供向けの「そらの絵本Kid’s SKY」(Gakken)という本の終わり頃のページを開いた時だった。わかり易い絵と共にわかり易い説明があった。

~満月は、東の空に現れて、南から西の空へ動いていくよ。お月様の見え始める方向は、形によって違うんだ。半月は、南の空に現れて、西の空へ動いていくよ。三日月は、西よりの南の空に現れて、西の空へ動いていくよ。~

この本を読む5才の子供さえ知っていることを、私はこの年まで知らなかったのだ。
「午後7時頃、西の方角に月が見える時は三日月、東の方角に月が見える時は満月」というのは、地球が誕生した頃から決まっていたことだった。平安時代のご先祖様が「おろかよのぉ」と高笑いしている姿が脳裏に浮かんだ。
もしかして知らなかったのは、世の中で私だけだったの?と衝撃が走った。子供と一緒に絵本を読む経験が欠落しているせいか?高校の地学の授業中内職していたせいか?
いやしかし、この感動!知ることの喜び、といっていいはず。ここは、お月様と私の新しい関係が生まれたことを、喜ぶことにしよう。
 
現在、芦屋市立美術博物館で開催中の「戦後のボーダレス~前衛陶芸の貌」展に出ているこの絵の月は、南南東の方角から出てくる月。

          
        津高和一「月と人と」1948 ~展覧会図録より

男の肩の線いいなぁ。女がもたれかかった左肩は、柔らかく丸い。きっと何かがあった家族。(たぶん貧しいけれど)強く優しく頑張ろうとしている男。頭を上げて月に向かって何か誓っているのか。黄色い月を見た津高37才のそうでありたい自画像かもしれない。
実際にこの絵の前に立つと、透明人間家族だけではなく、月の光が、絵の前に立つ私にも届いてくる。黄色い月の光は、白い月より温かい。

人は月と、直接つながることができる。サドルの上の私と月、ベランダに立つ私と月。
お月様には会えない日もあるけれど、私のことを忘れない。
淋しい夜に一対一でつきあってくれる。一対一。

「月影」というのが「影」ではなく「月の光」のことだと知ったのも、最近のこと。
まだきっと、知らないことがたくさんある。
 
   そのときは月の光になりたいと願う夜あり
 

  
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海老茶筅髷男

2015-09-29 06:16:56 | 持ち帰り展覧会
自転車で図書館に向かう途中の住宅街の路上で、8才ぐらいの男の子と、6才くらいの女の子が、スケートボードで遊んでいた。すれ違う時、聞こえた男の子の声にドキッとして思わず振り返ってしまった。
 「ハナちゃん、だいぶ上手になったね」
ハナちゃんの手はハッと止まり、じわーっと恥ずかしそうな笑顔になった。8才とは思えない優しい声の男の子の顔は、後ろを向いていて、残念ながら見えなかった。
…彼は、これからいったいどんな人生を送るのだろう。彼の言葉が何人の女を笑顔にするのだろうか?などと、つい思ってしまった。

海老茶筅髷(えびちゃせんまげ)の男は、小さい頃から、あんな声で、女の子に話しかけていたのかもしれない。
私が、海老茶筅髷の男に出会ったのは、昨年の春。芦屋市立美術博物館での「世界を魅了したやまとなでしこ~浮世絵美人帖」という展覧会だった。大正期に商社マンとして海外に出た片岡長四郎氏が主に海外で買い求めたコレクションから構成した展覧会だった。阪神淡路大震災の時、芦屋で倒壊した家屋から出てきた古い皮のトランク。開けたら中には300枚を越える美人画の浮世絵が入っていたという。ゴッホの絵に出てくる渓斎英泉や、歌川国貞(三代目歌川豊国)の、保存状態の良い色鮮やかな美人画が中心の展覧会だった。
この時、私は「笹紅」と「海老茶筅髷」という言葉を初めて知った。

まず、「笹紅」
浮世絵の中で、女性の下唇が緑のものがあった。笹紅とは、赤い紅を重ね塗りすると緑の玉虫色になり、唾液で湿らせると朱に戻る、という実に妖艶な遊女の化粧法であり、文化文政(1804~30)の頃、流行った。ただし、紅は高価で一回塗ると、今の800円くらいかかったので、高級遊女以外は、遠くから見ると緑に見えるように、墨を塗った上に紅をひいたという。ある時代限定の特異なファッションなのである。
この展覧会と同時期に、喜多川歌麿(1753~1806)の肉筆画「深川の雪」が岡田美術館で初公開されていたが、「深川の雪」が歌麿最晩年の作であると認定する決め手となったのが、笹紅だったと聞き、箱根まで確かめに行ってきた。確かに「深川の雪」の遊女達の下唇は、緑色だった。

そして、「海老茶筅髷」
「浮世絵美人帖」展なのに、所々に、女性達より豪華な衣装を身に纏った男が、女性と共に画面に出てくる。概ね、周りの女よりも目立っている。そして、何より、髪型が変。
髷の先が海老のしっぽのように、二つに分かれている。
手回し扇風機や、大きな金魚鉢の出てくる、歌川国貞のこの絵にも登場している。

     
     「吾妻源氏見立五節句 皐月」~展覧会図録より

   


調べたら、浮世絵の一分野として、源氏絵と呼ばれるものがあるらしい。
その絵には、必ずこの海老茶筅髷の男が、登場する。
彼はもともと、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」という合巻(小説)の主人公として挿絵に描かれた男だった。文政12(1829)年~天保13(1942)年の14年間に38編が発刊され、大当たりをとった小説である。その絶大な人気は、種彦の筋立てと歌川国貞が描く挿絵が生み出したものだった。「源氏物語」をベースに時代を室町におきかえ、足利義政の妾腹の子で、美しく女性にもてる足利光氏が、将軍職をねらう山名宗全を、はかりごとで滅ぼすという物語らしい。町民の圧倒的支持をうけたが、大奥・将軍を連想させると当局の弾圧を受け、絶版を強いられ、作者柳亭種彦は天保の改革時に亡くなっている。小説は未完で終わったが、海老茶筅髷の男の人気は高く、どうやら、挿絵から独立して、浮世絵の題材として、このキャラクターが、一人歩きをしていったらしい。

海老茶筅髷男は、徹底してお洒落である。かつてジュリーが「魔界転生」で着ていたような南蛮風外套のような衣装も着こなしている。ただ、周りの人たちと何かがずれていて、ひとりのんびりとしている印象がある。周りの女達が日常仕事をしていても、彼は当然何もしていない。おそらく、彼の仕事は、優しい声で話かけること、だったと思う。

考えたら、当時一枚が掛け蕎麦一杯の値段の浮世絵を買ったのは、男達より、女達ではなかったのか。ならば、役者絵と同じように、絵草紙屋の店頭に、彼が登場する度に、買い求めた女達がきっといたはず。

軽薄そうな口先男は、嫌いだけれど、浮世絵展に行ったら、きっと私は、海老茶筅髷男を捜すと思う。




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2015年秋

2015-09-14 06:45:48 | 五七五
戦争をしない国からする国へ変わろうとする国の主権者

反対と大きな声で言わないと自分許せぬそんな気がする

終末期残る命で反対叫ぶそんな大人がデモする三宮
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トートロジーな勇者

2015-07-01 00:09:08 | 持ち帰り展覧会
勇者が、長い冒険の旅の果てにやっと手に入れた秘伝の巻物。
開いてみると、そこに書いてあったのは…
              

(高松次郎「日本語の文字」1970)

  
思わず硬直してしまった勇者。

「もはや文字は意味を持たなくなったのか…」
「文字は形(かたち)にすぎないのか…」

3時間後、勇者は笑みを浮かべ、
巻物の裏に次の文字を記して、次の冒険に旅立って行った。
  
               こ
               の
               こ
               こ
               の
               つ
               の
               文
               字
     


高松次郎の、この作品を初めて見たのは、2009年兵庫県立美術館のコレクション展だった。その時、この勇者が生まれた。
3時間もの間、彼は何をしていたのか?というのが、謎として残る。

今回の国立国際美術館での「高松次郎~制作の軌跡」展にも出ていて、この作品が、1970年ゼロックスのコピー機普及のプロジェクトをきっかけに制作した作品であることを知った。明朝体の7文字を、コピー機で繰り返し拡大し、それを原版としてオフセット・リトグラフで100部刷った作品。

1970年代、私が大学の卒論を書いた時は、まだ青焼時代だった。隣の研究室にあった、独特の匂いのする湿った紫色の紙が出てくる機械を「青焼き機」と呼んでいた。
コピー機のない時代に、卒論を書いた私や皆様は偉い!
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たま駅長

2015-06-29 00:50:39 | 私の星々
JR和歌山駅で、ホームについた猫の足跡をたどると、いつのまにか和歌山電鉄の改札に着く。この電車に乗って、終点の貴志駅までは、20分。

           
     
2009年秋、初めてたま電車に乗って、たま駅長に会いに行った。
しっかりお勤めしてました。

   

2013年、たま駅長がいる貴志駅は、駅舎が改装されて猫形の駅になっていた。
カフェもできたけれど、駅長室は狭くなって、たまちゃんは最初の頃のように、自由に動き回ってはいなかった。壁には、若い頃のたま駅長の写真が。
   
        

2015年、今年のたま駅長は、少し目力が、優しくなっていて、もうそろそろ引退したいんですけど、と思っているのではないかしら。とふと思った。
でも、あの日(5月5日)も、眠たそうではあったけど、
「た~まちゃん」「えきちょうさん、また来ましたよ。」とガラス越しにつぶやくと、小さな声だったのに、こっちを向いてくれた。




あなたとパンダに会いに行くという和歌山の旅は、ここ数年、我が家のGWの定番コースでした。楽しい時をありがとう。お疲れ様でした。
ガラスケースのない虹の向こうでは、お日様の下、野山を駆けめぐる、自由な猫生活を送ってね。
でも、駅長さんの帽子、持っていってるかもしれないなぁ。

     ネコだからお仕事なんかしたくない
      ネコだから帽子はかぶりたくないの
       でもわたし 駅長さんと呼ばれたら
        ついついついつい返事する

     
…そんなあなたが好きでした。 
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坂道と影の幻想

2015-06-28 01:26:50 | 持ち帰り展覧会
臨港線の遊歩道から、図書館横の坂道を、自転車に乗って駆け下りる瞬間が好き。「ヒュー!」
坂道は子供が駆け下りても転ばない、これくらいの長さでこれくらいの傾斜がちょうどいいわ。

          
高校生の時、25分の自転車通学の途中に、「ヒューヒューヒューヒュー」が続く長い坂道があった。傾斜は40度くらいあったような気がする。当時田舎のその辺では、唯一整備された主幹道路だったが、交通量は多くなかった。
最初は、とても気持ち良かった。途中でスピードが増して、まるで空中を飛んでいる気分になる。足を浮かせてスカート翻して「ヒュー!」
少しカーブしているので、ブレーキハンドルはしっかり握っていた。
ある日、「今、手を離したらどうなるかなぁ」と、ふと思った。
それからは、毎朝そこを通るたびに、「この手を離したらどうなるだろう?」と、必ず思うようになった。
やがて「手を離したい」という誘惑と戦うようになった。。
毎朝、坂道にさしかかると、もの凄い緊張感が自分を襲うようになった。
足を浮かすことができない。ハンドル握る手のひらがいつも汗をかいていた。
何にも考えず、最初の時のように、浮遊感をただ味わえたらいいのに、どうしてそう自分はできないんだろう?と悩んだ。
受験生を自覚し始めた3年の春、朝の緊張感に絶えきれず、自転車通学をやめて、バス通学に変えた。
恐怖感は、自分でつくり出すことを知ったのだ。

今から思えば、それ以前にも、私は、恐怖心は自分がつくり出すことを体験していた。そして、その時も、これはしてはいけない遊びだと、自分でやめたのだった。
それは、物心ついた頃、近所の遊んでくれるお姉さん達が、学校から帰ってくるのを待っている昼下がり、やっていた、一人で自分の影と遊ぶ、という不思議な時間。
炎天下の影は小さいけど強い。夕方が近づくとだんだん長くなる。

     「私なのに、私じゃない」

つかもうとしても変な形になるばかり。

     「そこにいるのにいない」

キリコの絵のような、午後の不思議な時間。
自分の影を見てるうちに、いつも頭がくらくらしてきた。
ある日、どこにいてもついてくる影を、もうこれからは見ないことにしようと思った。


先日行った、国立国際美術館の「高松次郎~制作の軌跡」展。
「そこにいるのにいない」「そこにいないのにいる」影は、美しい。

          ~高松次郎「女の影」のクリアファイル

子供の影ではなく、大人の影。自分ではなく、他人の影は、怖くない?
フランソワーズ・アルディの歌声が、聞こえてくるような影だった。
この影にぴったりの「もう森へなんか行かない」は1968年の曲。
高松次郎さん(1936~98)も、彼女の歌声を聴いたことがあるかもしれない。
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玉山(ユイシャン)

2015-04-25 00:25:23 | 持ち帰り展覧会
~この世にアイスクリームがあることは素晴らしいことだわ~
と思う季節がやってきた。かつて「エルヴィス・プレスリーは、毎日1ガロンのアイスクリームを食べたために、激太りして亡くなったんだよ」と私に教えてくれた友達がいた。二人はその時サーティーワンにいた。自分たちがその後同じ運命をたどるとは、思いもしなかった。

アイスクリームは、ブロッコリー化する木々の緑と同じく、私にとっては初夏を予感する春の季語。PCの壁紙もこの絵にしましょう。 

       
           林玉山(リン・ユイシャン)「故園追憶」1935(展覧会チラシより)

いい絵だなぁ。いい展覧会だったなぁ。昨年の今頃、兵庫県立美術館でみた「東京・ソウル・台北・長春~官展にみる近代美術」展に出品されていた隣国の近代絵画は、私にとってすべて初めて見るものだった。ちょうど隣国との関係が悪化に向かっていた頃だったので、担当の学芸員さんは、さぞかし大変だったと思う。なにせ、日本統治下の3地域で開催された官設の公募展である。長春は、借りることができなかったのだろう、官展入選作ではなく、当時審査員を務めていた日本人画家の作品が展示されていた。

「故園追憶」は、後に台湾の国民的画家となった林玉山(リンユイシャン、1907~2004)が、日本で絵を修行中に、故郷の台湾を思いながら描いた風景画である。
     
この絵の前では、本当に心が遠くに、異国の地というより、自分の過去の、いや生まれる前の時の、遠い夏休みに、心が飛んでいくような気持ちになった。

画家の名前の玉山(ユイシャン)というのは、調べたら、実在する山の名前であった。台湾のほぼ中央にある標高3952㍍の高山。なんと富士山より高い山が小さな島にあった。
1885年~1945年の日本統治下では、富士山よりも高いので、日本では新高山(ニイタカヤマ)と呼ばれていた。あの、1941年12月2日の、日米開戦日時を伝える海軍暗号電報「ニイタカヤマノボレ一二〇八」のニイタカヤマである。

戦時中に小学生だった母は、ニイタカヤマがどこにあるのか知らなかった。習った記憶はないという。ニイタカヤマは、もはや暗号電報の言葉としてしか存在しない。これは当然の事だ。もし、外国人が富士山に適当な名前をつけて、以後この名で呼ぶようにといわれても、私は断固拒否するだろう。富士山は富士山。玉山(ユイシャン)はユイシャンだ。エベレスト山はチョモランマ山かサガルマータ山、メナム川はチャオプラヤー川と、現地の名前で呼ばれるのが正しい。名付けることには意味がある。


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幸せの黄色いガス管

2015-04-11 01:20:07 | 散歩計
          
「お城の漆喰に黒カビがついて、5年も経てば、元のような色になるらしい」と聞いて、まっ白の白鷺城をみられるのは、今しかない!と、今年のお出かけ花見は、姫路城に決まった。
 お城のそばの小学校の門辺りにも桜がいっぱい咲いている。
今度生まれ変わるのは、城下町がいいなぁ。
                 
 
 城の中堀を埋め立ててひいた国道2号線沿いには、ずっと石垣が続いている。
    
         

「明治の廃藩置県で、兵庫県になった時、県庁所在地が、神戸にあることで、姫路の人は怒らなかったのかしら?」「行政的には、神戸なんて格下の港町だよね」「でも、それが明治という新しい時代がきたということかな」などと、友人と話しながら立派な石垣の2号線歩道を歩いた。
(廃藩置県の後、何度も府県統合が行われ、明治4年には姫路県があったものの、明治9年に兵庫県に編入されたことを後で知った。)

           

 お城の堀沿いの桜道には、「千姫の小径」という名前がついていた。
千姫といえば、なぜか美空ひばりを思いだす。彼女より自分が年上になったとは思えない。彼女の♪し~おやのみさき~という歌(みだれ髪)聴いて涙ぐんでしまったことがあったわ。春には二重で秋には三重の帯ってどれだけ痩せたんだろう?塩屋岬って福島県ね。震災で大丈夫だったのかなあ。1月のKIITOでの加川広重さんの「フクシマ」は凄かったなぁ。などと思いながら、桜色の光を浴びながら、小径を辿りお城に近づいて行った。

 姫路市立美術館の喫茶コーナーのソフトクリームはとても美味しい。
姫路市動物園は、この日無料で、祝祭気分。

             

バシャーバシャーッと音がしているのは、ホッキョクグマの檻。プールにドボーン、水に潜っては黄色い筒を持って立ち上がる。筒で、水をすくって辺りに飛ばしている。こんなに延々と遊ぶホッキョクグマを見たのは、初めて。ユキちゃん15才。だんだんスピードは増し、はしゃぐテンションが高い。彼女の周りを、ホクトくん14才が、うろうろと歩いている。この黄色い筒は、動物園の世界では、「幸せの黄色いガス管」と呼ばれているホッキョクグマのおもちゃ。愛媛県立とべ動物園のピースもこれで遊んでいる写真を見たことがある。
1995年の阪神淡路大震災において、ガス用ポリエチレン管の被害が皆無であったため、以来古いガス管の交換はすべてこの、黄色(国際規格の色)いガス管になっているらしい。
オッと、檻に顔つけてたら水しぶきが飛んできた。みんなを幸せにしてくれる黄色いガス管だわ。

 ゾウの姫子さんもいる。一昨年王子動物園に嫁入りしたけど、ノイローゼになって体調を崩し、3ヶ月で、お城の見える実家に戻ってきたらしい。(推定38才)
姫子さんはやはり、お城が似合う。晴天の空、まっ白のお城、満開の桜、大勢の子ども達に、囲まれて、姫子さんは、独り暮らしを楽しんでいるみたい。

       

  
 またね~。
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年輪

2014-12-29 12:50:59 | NO SMOKING
 「バームクーヘンは薄く切った方が美味しい」


ついその場のノリで生まれた言葉が、真実になることがある。
かつて体育祭の後の打ち上げホームルームに、担任の先生が、ユーハイムのバームクーヘントゥルムを3本持ってきて、ナイフで切って生徒達と分け合って食べた。全員に、薄いのと厚いのと2枚ずつ。その時、誰かが言った「薄い方が美味しい」と。負け惜しみのようなその言葉に皆が笑った。でもそれは本当だった。あれから長い時が経ったけど、それ以来ずっと、本当にバームクーヘンは薄く切った方が美味しいと感じる。楽しいあの時間中に、集団催眠にかかったのかもしれない。

10月に芦屋市立美術博物館で、谷川俊太郎さんの「朗読とお話」会があった。83才の谷川さんは、子ども達のために、「いちねんせい」(和田誠絵 小学館 1988)所収の、楽しい詩を朗読して下さった。「どんなとき、詩が生まれるのですか?」という質問にこんな答えが返ってきた。

「人生は年輪のようなものだと思う。
 中心に幼い自分を抱えている。時々それが噴出することがある。」

年輪を重ねるように年をとっていく、というのは、よく聞く言葉。でも、今まで、考えたことなかった。「年輪」も「コレステロール」とかと同様に、ある一定の年齢になって初めて、考える言葉なのかもしれない。そして、谷川さんの言葉に「あれ?」とひっかかるものがあった。私はなぜかこれまでずっと、樹木は、木の中の部分の方が新しいのだと思っていたのだ。

年輪について調べてみると、確かに外側が新しい。
~樹木は、外側の樹皮との境目に形成層があって、形成層は細胞分裂を起こしながら内側に木質部を生産し、外側に樹皮を生産する。生命体として樹木をみた場合、活発に細胞増殖を行っているのは主に形成層であり、木質部と樹皮の多くは死んだ細胞から出来ている。~(山形大学農学部のサイトより)

ならば、バームクーヘンの作り方と同じだ。生地をつけた芯を、火のそばで回しながら、焼き目をつけ、また生地をつけて焼き、外側に次々新しい層を作っていく。

「人生は年輪のようなもの」というのは、過去が積み重なって今の自分ができているけれど、生命体として常に細胞増殖を行っている存在であるということ。外から見えるのは、今の自分だけど、常に真ん中には幼い自分が存在していて、詩人や絵描きさんは、時々、真ん中の幼い自分が飛び出してきて作品を作ったりするのだ。

私も2013年の外側に、2014年のわっこが重なった。意識せずとも幹は確実に太くなっていく。
…そしていつか、枯れる。

樹の足は大地に向かい手は空に自ら古い樹皮破る
    
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円形劇場

2014-12-29 12:25:29 | 劇空間
安藤忠雄設計の兵庫県立美術館は、3つの四角いコンクリートの箱にガラスの箱をかぶせたような、直線的な建物である。中は打ちっ放しコンクリートの壁、御影石の外壁が現代の要塞のように立っている。所々、壁をくり抜いた四角い窓が、動く風景画のように現れる。建物の直線によって、様々な形に切り取られた青空は、美しい。

         

その直線の中に、2カ所だけ、円形のものがある。棟と棟の間にあって地下駐車場につながる円形階段と、南東隅の小さな円形劇場。
2014年11月、2002年美術館のオープン以来ほとんど使われていなかった円形劇場が、素敵な空間に生まれ変わった。元具体美術協会の作家・向井修二さん監修による記号アートインスタレーション。多くの人々が記号を描いた。




しかし、最初「意味のない記号を描きましょう」と言われて困った。
それは、思いつかないものを描きなさい、と言われるに等しく、難しい。
そもそも「記号」は、表象と意味とが結合したもの。意味がなくては記号ではない。
ただ、意味が意味無く集まれば、当初の意味は、意味を持たなくなる。

(~どこにあるでしょう?)

この完成した円形劇場、階段に座ると、落ち着かない。どちらかというと、中央のフロアに立って、何かしたくなる。
ここで、演じるなら「詩のボクシング」か、港に沈む夕陽に向かって吹くサックスがいいなぁ♪


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窓の外、恋の旅

2014-12-15 05:06:38 | 持ち帰り展覧会
この秋、芦屋市立美術博物館の2階ホワイエには、四角い額縁型木枠がぶら下がっていた。「窓の外、恋の旅。~風景と表現」展。作品数は少ないけれど、美術館で見た風景をきっといつまでも覚えているだろうと思う展覧会だった。

~展覧会図録より

村上三郎が、1956年、芦屋公園の野外具体美術展で、松林につり下げた「あらゆる風景」という作品。(60×73㌢、ベネチア・ビエンナーレ出品のために1993年再制作)。

赤瀬川原平さんの「四角形の歴史」(毎日出版社2006刊)を思い出す。
…犬は物を見る、風景は見ていない。…人間も四角い画面を持つことで、はじめて余白を知った。四角いフレーム、それがあって、風景は見えてくる。四角いフレームがないと、目は犬のままだ。四角いフレームというなら、絵よりも前に窓だろう。…大昔にも雨の日はあった。人間は仕方なくぼーっと外を見た。人間がはじめて風景として見たのは、雨の風景かもしれない。

1階ホールの緩やかに曲がった大きな白壁に映る林勇気さんのカラフルな映像作品。1500枚の風景写真から切り取った5000個のピース(椅子、電柱、犬、ゴミ箱etc……)が、3層の奥行きを持って異なるスピードで横に流れていく。これらが急に華やかに拡大したと思ったら、中央に集まってブラックホールに吸い込まれるみたいに消えて行く。
壁に近づくと、自分の影が、作品の一部のように現れ、流れる風景の断片の中で唯一流れない、消えないものとして存在するような気がする。
もしかしたら、今までに私が見たすべての物はこんな風に記憶の断片として脳内に存在しているのかもしれない。写真や映像があるからその組み合わせが固定されているにすぎない。

ヤマガミユキヒロさんの「新宿コーリング」。6Hの鉛筆で細密に描かれた都市の交差点。やがてモノトーンの画面の信号機に赤が点る。街が動き出す。手前から向こうにバスや車が往来し、前方では人々が信号を左右に渡り出す。後方の架橋でも左右に電車が動き出す。ビルの上の空、残月は消える。昼間の街。建物の壁の大型スクリーンのCM。やがて空は夕焼けに染まり、街は明るい夜の姿に変わる。昼間よりにぎやかな音が聞こえてきそうな都会の夜。画面を横切る電車の窓の灯りがとても美しい。街の灯りが消える頃、ビルの上の空から、月が静かに街を見下ろしている。
風景の中で、動かないものは細密な鉛筆画で描き、時間の経過とともに移ろうものは、同じ場所から撮影した映像を編集して鉛筆画に重ねていくキャンパス・プロジェクションという技法の作品。過ぎゆく時間をも表現しようとした新しい風景画である。
「六甲からの眺望」は、六甲山の上からみた、西宮から神戸にかけての街の鳥瞰図の上を、ダイナミックに雲が流れていく。画面の上で一日が、季節が流れていく。私はこの下で生きてるんだなぁと思う。
最近、よく空の雲を眺めるようになった。下から眺める雲もいつも動いている。

下道基行さんの「日曜画家」は、画家だったお祖父さんの絵を訪ねて、その絵のある風景を撮った写真作品。祖父の絵の額ガラスに、室内にいる娘(作家の母)が映る風景を孫が撮った写真、一枚の写真に3代が重なる瞬間。それを意味あるものと感じる不思議。それぞれの写真は、その絵がそこにある理由があって、その生活空間の中でどんな意味を持っているのか、を想像させる。
この感覚、あの時と同じだ。4年前の秋、倉敷市立美術館で「そといす」という写真展を見た。屋外に置かれた椅子の小さな写真が数十点あったと思う。バス停の椅子・公園の椅子・あばら屋の軒下の椅子、その場所で年月を重ね、人が座った後が残る椅子。一枚ごとに、その椅子に座った人の物語を想像してみた。楽しい時間だった。その作家の名前は覚えていなかったけど、今回作家のトークショーに参加して、あれも下道基行さんだったことが判明。何だかとても嬉しい。4年前の私も今の私も確かに自分である。

この展覧会のために谷川俊太郎さんが書いた詩を読んで、私は、小出楢重が1922年に開けた窓からカーニュの風景を、吉原治良が1933年に開けた窓から上高地の風景を見た。

     「初めての風景」 谷川俊太郎

 絵描きさんは四角い画面が好き
 形は窓に似ています      
 透き通っていないから
 向こう側は見えないけれど
 硝子窓からは見えない風景画が見える 
 森そっくりの森 
 リンゴによく似たリンゴ
 子どもみたいな子ども
 海よりも海らしい海
 音も匂いもしないさわれない
 本物よりも本物っぽいまことしやか
 その他いろいろ
 たとえばオナラしちゃった茶色
 楽しくて遊びまくっている線
 大きな川になりたがっている形の子ども
 何もないのが気持ちいい白
 文字になりたくない黒
 見たことない風景ばかり

 展覧会で絵や彫刻や写真を見るのは
 ちょっとした旅みたい
 うんと近くでじっと見る
 すこし離れてぼんやり見てみる
 ときどき休んで目をつぶる
 てくてくせかせか歩いて行くうちに
 ココロの中に初めての風景が
 夢のように生まれてくる

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JIROさんの時代

2014-10-26 11:31:51 | 持ち帰り展覧会
長い時間実物の絵の前に立っていると、突然、画面の中で、何かが動き出す事がある。
それまで白い筆の点々だったのが、なにやら違うものに見えてくる。
画集や写真ではダメ、塗り込んだ、描き込んだ筆触を感じて初めて、それは動き出す。

夏に、芦屋市立美術博物館であった「具体、海を渡る」展に、出品されていた、吉原治良の「作品」(1960)は、ここ8年間で5回くらい出てきた館蔵品である。これまでは、一見、文書のような画面の大きな(181.2×260.2)この作品は、ゲンビ(現代美術懇談会)の活動を通じて書の影響を受けた作品なのかなぁ、ぐらいに思い、吉原の円に至るまでの抽象画の中でも、それほど気にしていなかった。

    ~展覧会図録より

この絵は、今回の展覧会では、個人的には一番鑑賞しやすいと思われる場所に展示されていた。そして、突然、躍動する白い文字跡のようにしか見えてなかったものが、何か叫び声をあげている群衆に見えてきたのだ。彼らは何かを見て叫んでいる。何を?画面上の白くうねるものは何?ネッシー?いやいや、それはない。と、制作年を見て、気がついた。1960年である。日米安全保障条約反対のデモが国会議事堂をとりまいた年である。
この作品は4月の大阪高島屋で開かれた第9回具体美術展に出品されたものなので、5月の強行採決、デモ隊と機動隊が衝突した6月15日よりも前に描かれたものではある。
デパートの屋上で、作品をつけたアドバルーンをあげていた展覧会と、日本史上空前規模の反体制運動は、同じ時代のできごとだった。一見違う次元のものに思われるが、この時代の空気の中で生きた日本人が、この空気の影響を受けていないはずはない。
私には、この絵が、1960年の国会議事堂をとりまく民衆の姿に重なって見える。

吉原治良は、吉原製油株式会社社長であり、生粋のブルジョワである。民衆の立場で世の中を見る人ではない。しかし、時代の空気感を敏感に、自らの制作行為に吸収している。というより、純粋な芸術家であるがゆえに、制作過程で時代の空気感が出てしまうのだ、と思う。

今、兵庫県立美術館のプレミアム展に、吉原治良の「作品(夜の鳥)」(1951)が出ている。

    

戦前抽象画家として認められていた吉原が、戦中戦後具象に戻り、再び抽象に向かう時期の作品である。黒い闇の中、かなり記号化された白い鳥が飛んでいる。しかし、近づいてみると、この絵の地には、赤が塗られている。

             

普通鳥は夜飛ばない。飛ぶのは、ゴイサギ・ヨタカ・フクロウくらいだ。吉原の鳥の絵はみんな暗い。平和なイメージの鳥ではなく、戦争と結びついた暗いイメージで捉えていたようである。戦争中夜飛んでくる巨大な鳥とは?地面は赤い……1945年3月の大阪大空襲・神戸大空襲は未明に始まった。彼がこの絵で描いた鳥とはB29なのではないか。
戦争で、多くの若者が亡くなり、その中には当然多くの画家達がいる。生き残った大人は、皆、戦争を知らない私達が想像する以上に、その影を追って戦後を生きたのだと思う。
吉原のこの絵は1951年の作品、まだ戦後は終わっていない。サンフランシスコ講和条約が発効して日本の独立が回復したのは1952年4月である。

1954年、芦屋公園の松林で、具体のメンバーが「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」を開いた時に、そこを訪れた婦人によると、「それが芸術作品とは思わなかったけど、ああ、戦争は終わったんだ。と心から思った」という。
具体結成後発行した、機関誌「GUTAI」は、英文もつけられていた。吉原の目は世界へ向かっていた。時代の空気を敏感に描いただけでなく、新しい時代の空気を彼はつくった。
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