気持ちのよい陽気にベルも満足そう。桜の季節はやっぱりいいですね!
桜は日本人の心。
花見というのも、本来は森羅万象の神に感謝する儀式であり、美しい宴で
あったと想像されます。けして泥酔して悪態を晒すのが花見の姿ではないでしょう。
桜の花は日本人の心を浄化する。桜を見ているとそう思います。
「敷島の大和心を 人問わば 朝日に匂う山桜花」
※意訳
大和魂とはどういうものだろうかと人に訊ねられたら、
朝日に照らされて映える山桜のようなすがすがしい美意識だと私は答える。
ってな意味でしょうか、これは江戸時代後期の学者本居宣長の作である
新渡戸稲造は『武士道』の中で、上の宣長の歌を引きながら、桜と大和魂を重ね
「日本風土に固有のもの」として欧州の薔薇と対比させた。
『桜』こそは古来からわが日本民族がもっとも愛した花である。
それは国民性の象徴でもあった。
とくに宣長が用いた下の句の『朝日に匂ふ山桜花』にかつ目して欲しい。
桜はひ弱な栽培植物ではない。
自然に生える野生の草木であり、わが国固有のものである。
その付随的な性質は他国の花と共通するかも知れないが、その本質においては、
あくまでわが風土に自生する自然の所産である。
しかし、私たちはそれが原産だからとの理由で、桜花に愛情を感じているのではない。
その花の持つ洗練された美しさ、そして気品に、ほかのどの花からも得ることのできない
『私たち日本人』の美的感覚を刺激されるのである。
<中略>
私たちの愛する桜花は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。
自然のなすがままいつまでもその生命を捨てる覚悟がある。
その色はけっして派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせない。
草花の色彩や形は外観だけのもので固定的な性質である。
だが、あたりに漂う芳香には揮発性があり、あたかも生命の息吹のように、
はかなく天に昇る。それゆえにあらゆる宗教的な儀式において、乳香と没薬は重要な
役割を演じるのである。香りにはどこか霊的な働きがある。
太陽が極東の島々を照らし、桜の芳ばしい香りが朝の空気を生き返らせるとき、
この麗しい息吹を胸一杯に満たすときほど、さわやかな澄んだ感覚を覚えることは
まずないであろう。
『旧約聖書』には、創造主みずからが、甘い香りをかいで、その御心に新たな決意を固め
られたと記されている。
そうだとすれば、桜の花の匂う季節に、すべての国民が小さな家々から誘い出されて
その空気に触れることになんの不思議があろうか。
彼らの手足がしばしの苦労を忘れ、心の苦しみや悲哀をどこかに置き去ったとしても
それは咎めるには値しない。
その束の間の楽しみが終われば、彼らはまた新たなる力と満たされた心を持って
日々の仕事へ戻っていくのだ。
このようないくつもの理由から、桜はわが日本民族の花となったのである。
ならば、これほど美しく、かつはかなく、風の吹くままに舞い散り、ほんの一瞬
香を放ち、永久に消え去っていくこの花が『大和魂』の典型なのか。
書籍:武士道
著者:新渡戸 稲造
訳者:岬 龍一郎
明治維新を成し遂げ、日本を日本たらしめたものは武士の功績である。
武士は日本の華であったばかりでなく日本のルーツでもあった。
武士は日本人全体の美しい理想となるまでに成長し、民衆は「花は桜木、人は武士」
とうたうほどであった。
武士道とは決して系統立てて作り上げられたものではないが
日本人の道徳律として根底にあるのは今でも武士道だろうし、これからも
変わる事はないと信じたい。
武士道を象徴する桜花のように、四方からの風に散らされた後もなお・・・
そして戦後の自虐史観の教育や経済至上主義によって失われた
日本人の魂と美意識、誇りを取り戻そう。