続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『エナメルを塗られたアポリネール』

2016-07-20 07:05:44 | 美術ノート

 『エナメルを塗られたアポリネール』
 SAPONIN→APOLINEREに、ENAMELをENAMELEDに変え、『エナメルを塗られたアポリネール』とした作品。

 文字を見て「おやっ」と思い単純に悪戯したと思えるが、文字の持つ特性、疑似的な文字の並びに勘違いすることは往々にしてある。スペルには意味はないが、並べられた命名には意味という約束が生じていて、違えることは意味を大きく変えることでもある。

 文字遊びと言ってしまえばそれまでだが、単語のスペルを少し変えることで想定外の状況や意味を表出させる文字(スペル)の不思議。言葉における約束はいとも簡単に破棄され異世界を紡ぎ出す文字(スペル)のパワーに翻弄されてしまう。

 エナメルを塗られたアポリネール(人の名)という人物はこの作画の中には存在していない。にもかかわらずアポリネールと読めることから、人を、そして特定の人物を想定してしまう。しかもエナメルを塗られたアポリネールなんていう自動から他動への変移はは、この画面からは浮かばない。

 文字だけではなく絵のほうにも手を加えただろうか。少女が塗るベットは、立体かとおもえば、平面であるというようなだまし絵的な手法が見える。「鏡に少女の髪の毛が映っていることに気づいた人がほとんどいなかった」という発言も角度的に疑問が残る。つまり空間の歪みがそれとなくあり、ベットも床から浮いているようでもある。

 本来の意図とはかけ離れた作為を施していて、エナメルを塗る少女の絵を『エナメルを塗られたアポリネール』と茶化している。
 つまり表面上の虚偽・粉飾ゆえに、鑑賞者は文字や絵柄に答えの焦点を探すために迷走してしまうが、この心理的な魔法は作家の意図である。

(APOLINEREは、本名APOLLINAREをもじったものらしいが、アポリネールと読めることと、むしろ微妙に違うことが、この作品に活きている。ある意味不特定多数でもあるという意味で)


  

(上の写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
(下の写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)