土曜日になると孫に電話をする。可愛いから声を聞きたいという気持ちからだけではない。
人に状況を伝える、伝達意識の向上を知りたいという実験的な試みもないことはない。
三才の孫が、どんな風に言葉を選び、自分の日常の断片を言葉のみで相手に伝えることが可能になっていくかを実感して行くのは楽しい。
「朝は、パン」から「朝はパンを食べたの」そして「パンにクリームみたいなものをつけて食べたの」という風に変化していく。
幼児の成長は早い、瞬く間といっても過言ではない。その変化の一端を電話という器機で愉しんでいる。
「お父さん、洗濯しているの」
「・・・」
お父さん(息子)も頑張っている。
今思うと、人の一生などあっという間の出来事のような気がする。その中での喜怒哀楽、その振幅がどんなに大きくても天命と甘受し、自分自身を生きて行く義務と権利がある。
耐えられない辛酸はない、どんなときも逆転のステージが待っているのだという希望を抱いている能天気なわたし、今は現実的に転倒の危機だけは避けたいというに留まっているけれど。
片言を話す孫、その一生には付き合えないけれど、こうして巡り合えた幸福を週イチくらいの電話で満たしてもらっている。
人に状況を伝える、伝達意識の向上を知りたいという実験的な試みもないことはない。
三才の孫が、どんな風に言葉を選び、自分の日常の断片を言葉のみで相手に伝えることが可能になっていくかを実感して行くのは楽しい。
「朝は、パン」から「朝はパンを食べたの」そして「パンにクリームみたいなものをつけて食べたの」という風に変化していく。
幼児の成長は早い、瞬く間といっても過言ではない。その変化の一端を電話という器機で愉しんでいる。
「お父さん、洗濯しているの」
「・・・」
お父さん(息子)も頑張っている。
今思うと、人の一生などあっという間の出来事のような気がする。その中での喜怒哀楽、その振幅がどんなに大きくても天命と甘受し、自分自身を生きて行く義務と権利がある。
耐えられない辛酸はない、どんなときも逆転のステージが待っているのだという希望を抱いている能天気なわたし、今は現実的に転倒の危機だけは避けたいというに留まっているけれど。
片言を話す孫、その一生には付き合えないけれど、こうして巡り合えた幸福を週イチくらいの電話で満たしてもらっている。