サロン「セトジマダム」

日々の仕事や暮らしの中で感じた事、体験した事など
楽しくシェアしたいと思います。

エネルギーを作るという事

2016-08-23 09:52:45 | 日記
オリンピックの閉会式が終わりました。
何度見ても男子400mリレーはワクワクするし、吉田沙保里選手が泣いているシーンはこちらも貰い泣きしてしまいます💧
閉会式で日本国旗がモチーフにされたセレモニーがありましたが、日の丸ほど美しい国旗は無いと改めて感じました🇯🇵
21日のセミナーでエネルギーを作るという事についてお話ししました。
エネルギーを作るには2つのシステムがあります。
1つは糖質から素早くエネルギーを作り瞬発力を産み出す解糖系。
もう1つは酸素を取り入れて持久力を産み出すミトコンドリア系。
子供の頃は食べて活力を確保し成長する解糖系が優位で、20歳になると解糖系とミトコンドリア系の調和が取れた瞬発力も持久力もバランスの良い身体になり、その後徐々にミトコンドリア系に移行し、50歳を過ぎると食べてもエネルギーに変えられず肥満や糖尿病になりやすくなるそうです。
50歳を過ぎると少食気味にして、ミトコンドリアを活性化させるコエンザイムQ10や年齢と共に減り始めるミトコンドリアの数を増やす運動やVIVIXが必要となるのが納得出来ます。
ボルト選手が引退するそうですが、瞬発力が必要な短距離走や水泳競技は30歳を超えるとエネルギーを作る仕組みからも限界なのだとよく分かります。
オリンピックにからめたそんな話で盛り上がりました。
今日は福井出長で、ホームで新幹線を待っていたら隣のホームにエバンゲリオンの新幹線が停まりました。思わず写真撮り、得した気分になりました🚄

終戦記念日に寄せて

2016-08-16 12:45:04 | 日記

終戦記念日に録画してあった「日本でいちばん長い日」を観ました。
戦後教育を受けた私は昭和史の真実を知らずに育ちました。
この年齢になってから、君が代の意味や天皇陛下の存在意義や第二次世界大戦についての史実を
知りました。
父親が終戦記念日に必ず護国神社に参拝する時のドライバーとしてついでに御参りする様な感じで
過ごしてきました。色々と本を読んで史実を知る事で日本人としての誇りを持てる様になった気がします。
致知のメルマガ掲載の記事をご紹介します。


「若者よ、君たちが生きるきょうという日は死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」

                    ――八杉康夫(戦艦大和語り部)

 ・ ・ ・ ・ ・

 第一波、第二波と攻撃を受けるうち、大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。

 なおも攻撃が続けられ、魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
 
 次第に船は傾いていきます。
 砲術学校では、戦艦は15度傾いたら 限界と習ってきましたが、25度、30度とどんどん傾いていきます。
 
 それでも、戦闘中は命令がない限り持ち場を離れることはできません。
 その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。

 軍には「逃げる」という言葉はありませんが、これが事実上「逃げろ」という意味です。
 
 すでに大和は50度ほど傾いていましたが、この時初めて「大和は沈没するのか」と思いました。

 それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。

 もう海に飛び込むしかない。

 そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。

 私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を掻っ捌いたのです。

 噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
 
 船はますます傾斜がきつくなっていきました。
 90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。


 飛び込んだのも束の間、沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。

 その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった「生きるための数々の方策」です。


 海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。

 海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。

 漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。


 陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと
 言われたことは一度もありません。

 ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
 

 だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。

 しかし、どんどん巻き込まれ、あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
 
 その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。

 戦艦大和が大爆破したのです。そこで私の記憶はなくなりました。


 気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。

 幸運にも、爆発の衝撃で水面に 押し出されたようです。

 しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、重油まみれの海水を飲み込んで
 しまいました。

「助けてくれ!」と叫んだと同時に、なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
 
 この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。
 
 すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。

「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。

 そう思って身構える私に、彼は優しい声で「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
 自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
 そして、なおもこう言ったのです。

「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

 4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
 川崎高射長はそれに背を向けて、大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。

 高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
 
 大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を取られたのでしょう。
 高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、彼の命そのものだったのです。
 
 昭和60年のことです。
 いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。

 彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、こう言ったのです。

「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

 驚いたなんていうものじゃありません。

 戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
 前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。

 念願叶って佐賀にある高射長の墓前に手を合わせることができましたが、
 墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。

 もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。
 
 その時私は50歳を超えていましたが、自分が31歳だった時を思い返すとただただ恥ずかしい
 思いがしました。
 
 そして、
 不思議なことに、それまでの晴天が急に曇天となったかと思うと、突然の雷雨となり、まるで
「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。
 
 天皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。

 不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、そして、敗戦。
 
 そのすべてが17歳の時に一気に 起こったのです。

 17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。

 最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、現在の学生の姿を見ると明らかに戦後の教育が間違ったと
 思わざるを得ません。
 
 いや、生徒たちだけではない。
 間違った教育を受けた人が先生となり、親となって、地域社会を動かしているのです。 
 
 その元凶は昭和史を学ばないことにあるような気がしてなりません。

 自分の両親、祖父母、曾祖父母がどれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
 いくら石器時代を学んだところで、真の日本人にはなれるはずがない。

 現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、学校の先生ですら
「持ってどうするんですか?」と真顔で聞き返すのですから。
 
 よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、毎日のように
 親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?

 確かに昔も殺しはありました。

 しかし、「殺してみたかった」などと、意味もなく殺すことは考えられませんでした。 
 
 真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。

 鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば天から降ってくるものではないのです。
 
 しかし、
 一流の国立大学の大学院生ですら、
「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」と平気で言います。

 ならば自分で学べと私は言いたい。

 自分で学び、考えることなしに、 自分の生きる意味が分かるはずがないのです。

 人として生きたなら、その証を残さなければなりません。

 大きくなくてもいいのです。小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
 
 戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
 いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。

 復員後、長く私の中に渦巻いていた「生き残ってしまった」という罪悪感。
 
 それはいま使命感へと変わりました。

 私の一生は私だけの人生ではなく、生きたくても生きられなかった
 戦友たちの人生でもあるのです。

 うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。
 
 未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、真の日本人になってくれるよう
 私は大和の真実を語り続け、いつか再び戦友たちに会った時、

「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と胸を張りたいと思います。


 ――八杉康夫(戦艦大和語り部)
  『致知』2006年7月号より


星野道夫という人

2016-08-11 16:22:30 | 日記
クルーズ中は時間がゆっくりと流れ、お部屋のデッキテラスでボーッと海を眺めたり読書をして過ごしました。
図書室も素敵な空間でしたのでとても気に入って海に面して置いてあるソファに座り夕日を見ながら、アラスカ生活のエッセイ「旅をする木」を読みました。
立寄った州都ジュノーの美しい港町の話や、私が船から見た氷河をカヤックから見上げている話や、遠くに見える山々をセスナ機から見降ろす風景の話など訪れた場所とシンクロして、風や空気感など共有した気分になり幸せな読書タイムでした。
この原稿を書いた半年後に星野道夫さんは亡くなるのですが、随所に死生観が漂う文章が見受けられ、彼は何処かで自分の命の短かさを知っていたのではないかと感じました。
『20代のはじめ、親友の山での遭難を通して、人間の一生がいかに短いものなのか、そしてある日突然断ち切られるものなのかを僕は感じとった。私達はカレンダーや時計の針で刻まれた時間に生きているのではなく、もっと漠然として、脆い、それぞれの生命の時間を生きていることを教えてくれた。
自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。』
人生は短いから好きな事をして生きて行こうと決めて、アラスカに向かったそうです。
エッセイを読むと、彼ほど沢山の美しく神秘的な自然界を見て、豊かな幸せな時間を過ごした人はいないのではないかと感じました。
昨日の新聞に星野さんの記事が載っていて、30代半ばに原稿を書いていた市川市の喫茶店のカウンターの指定席には今も彼のファンが訪れるそうです。
彼が美しいと言ったアラスカ州都ジュノーの街のロシア教会の写真です。

感覚の違い

2016-08-10 16:14:34 | 日記
殆ど外人ばかりのクルーズ船に乗り、色々と習慣や感覚の違いを感じました。
⭕️まるで人種が違うお子さんを連れた家族が多かった事。里親として子供を育てる事が当たり前の感覚なのでしょう。日本人は血族を大切にする民族なので、国籍の違う子供を育てる感覚は中々無いですね。
⭕️ゲイのカップルが多かった事。
船室の中はシングルベッドがくっついて並べてある為、友人同士の旅行はお部屋は別々が基本だそうです。
同室なら、それはレズとゲイだそうです。
日本人だけは友人同士で同室になり、ベッドを離したがるのは不思議な事だそうです。
両隣はゲイのカップルでしたが、彼らから見たら私と友人はレズの関係に見えてるねと、苦笑しました。
⭕️インド人は大家族で旅行していた事。
富裕層の方々だと思いますが家族全員が大ぶりの金のアクセサリーをしていて、ファミリー全員での旅行の様でした。
⭕️クルーの方々はエリート出稼ぎ者
24時間体制でのサービスで、お部屋のお掃除は朝晩2回だし、皆さん明るくてとても感じが良かったです。東南アジアやヨーロッパからの出稼ぎの方が多いそうで、アラスカクルーズが終わると次はエーゲ海クルーズで、船に乗りっ放しでお仕事されるそうです。
夕方、お部屋に戻るとタオルで作った動物がお出迎え。とても嬉しいおもてなしでした。


氷河見ました👀

2016-08-09 15:01:03 | 日記
30日〜8日までの10日間のアラスカクルーズから帰国しました。
平均気温20℃以下の肌寒い涼しさの中で過ごして、帰国後の猛暑にビックリです‼︎
クルーズ船は動くホテルで中にプールやジャグジー、スポーツクラブ、図書館、エステ、シアター、カジノ、バーは8ヶ所、レストランも10ヶ所あり、携帯もネットも繋がらない 時間に縛られない非日常の中でゆったり気ままに過ごしました。
2千数百名余りの乗客の中で日本人はツアー参加の20名弱だけで、全てが英語の世界でした。
お食事も全て無料で、いつでも何でも食べられるのでついつい食べ過ぎて、食傷気味に💦
当然、自然も豊かでレストランで食事中にクジラを何頭も見たり、ラッコやアザラシを見たり、珍しい白頭鷲を見たり、何よりメインのグレイシャーベイ国立公園のクルージングでは、部屋のテラスから迫力ある氷河の崩落を見たりと感動の連続でした。
ヨーロッパの歴史ある街並みも素敵ですが、雄大な自然に触れるのもまた素晴らしい体験でした。