ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

ビセートルの歴史検証(11)

2017年09月21日 | 研究余話
 エデュワール・セガンがビセートルの「白痴の教師」として雇用されたのは、1842年10月1日(?)から1843年12月23日までである。前任の「男子不治者救済院」での実践記録が残されているものの、ビセートルでの実践については記録が無く、指導を担当した子どもの数もはっきりとはしない。50人だ、あるいは、100人だ、と綴るものもいるが(その文献名をはっきりとは記憶していないので、調査する必要があるのだが)、その根拠は不明である。ただ、ビセートル史、とりわけ精神病医療史に関わって残されている患者数は、ある時期(1850年頃)については確認できる。以下のようである。
「まだ、白痴者と癲癇患者について話をすることが残っている。あまり語るべき言葉を知らない。前者は、知性が生まれつき発達が不完全であるかまったく停止しているかであり、その員数は29人である:7人が白痴者であり22人が痴愚者である。前者はまったく言葉を奪われている:一人は聾唖であり、二人は清潔さについての感情を持っている。残りの者は本能にいくらか帰せられている。
 我々が45人の患者について観察した結果、癲癇の発作は、定期的に2週間続いた1ケースを除いて、特徴をつかみえなかった。
 それの精神異常との関係に関連して、我々は、癲癇を、3回で鬱病、6回で痴愚、そして1回で中風症の痴愚と共通していると考えた。」
 この記述から、19世紀には、白痴・痴愚と癲癇とが同一カテゴリーで捉えられており、その総数45人。内、白痴が7人、痴愚が22人。残る16人が癲癇患者である。
 セガンは「癲癇と白痴とを一緒にして教育することはできない」と強く主張し、癲癇への教育を命じる上司と鋭く対立することになり、馘首される結果を生んだのである。この件に関しては、過剰解釈や誤訳による史実誤認というじつに<面白い>研究成果を生んでいるのだが、具体は『十九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)に綴ったことである。

 添付写真は、セガンが教えた「白痴・痴愚」「癲癇」の子どもが収容されていた児童病棟。

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