ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

過ぎ去りしことの記録のために(3)

2017年09月26日 | 研究余話
S先生 いかがお過ごしですか?近藤益雄研究を進めておられることと存じます。
 さて、いつもの身勝手なファックス通信で申し訳ありません。もう2年以上も前になりますでしょうか。セガンの「1856年論文」を訳出して先生にお届けした折、「スペインの修道士による精神療法のこと」に強い関心をお持ちだと、返信を下さいました。それ以来、心に引っかかっているものの具体的な史料を求めることができないできております。しかし、中井久夫氏などの著書を紐解いて感覚的にせよ理解に努めようとしてきました。今日は、セガン自身の手で綴られていることでしかありませんが、私なりの到達をお伝えいたしたく、ファックスさせていただきます。
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 セガンが記述するスペインの修道士たちによる精神療法を説明する直接的資料は不詳である。ただ、セガンは、大著『1846年著書』において、「有益な労働」の節を設け(第3部白痴の教育 第45章第9節)、自身の白痴教育が到達すべき目的地は白痴の子どもたちに労働する能力をつけることだ、との趣旨を述べている。労働は健康や知性、道徳性を培うという。「常に私は労働を組織することに全力を注いだのである」。
 さて、「労働の優位性」を説明するいくつかの事例が同節で紹介されている。ビセートル救済院の医師モロウが「ゲールに関する書簡」(1845年)で報告した「ベルギー・ゲールの精神病者コロニー」、かのフィリップ・ピネルが『精神病者に関する医学哲学的治療』(1809年)で報告した「スペイン・サラゴスの精神病者施設」など。そのうち、ピネルの報告から、以下に紹介しておこう。松矢勝宏氏によるセガン『1846年著書』翻訳書176頁より―。
「・・・この国のサラゴセという村に<万人に>・・・という単純な碑銘を持つ施設があり、国籍や政体や信教のいかんに関わらず、病人、とりわけ精神病者に奉仕している。機械的な作業はこの施設の創設者たちの配慮の唯一の目的ではなかった。彼ら は精神錯乱を抑える一種の分銅を田園の文明が喚起する好みと魅力によって再認したいと思ったのである。・・・朝に私たちは多勢の精神病者が働くのを見るであろう。施設の労働事務所につめるものがいる。またある者は個々に割り当てられた仕事場に連れて行かれる。しかし大多数のものはいくつかの作業隊に分かれ、聡明な経験を積んだ監督者の指導の下で、施設の広い囲いのある所領のさまざまな部分に陽気に散らばって行き、季節に関係した作業を一種の競争で分配される。小麦、穀物、野菜を栽培し、順々に借り入れ、格子垣作り、ぶどうやオリーブの収穫に従事する。そして夕方にはこの人里離れた施設に再び静寂と平安な休息が訪れる。最も変化のない恒常的な経験は、この施設において患者に理性をもたらすのに最も確かな、最も効果的な手段であることを教えてくれる。そしてこの機械的な作業というすべての考えを軽蔑し、昂然と拒否する高貴な人は、無感覚な逸脱と精神錯乱を永続させるという悲しむべき利益を得ることになることも教えてくれる。」
 ところで、セガンと同時代の労働観はと言えば、労働は貴族やブルジョアジーの階級では忌諱すべきものとして認識されていた。読み書きができ、「教養」を修得するようになることは歓迎されるのだが、労働は「一族(家)の恥辱になる」とみなされていたわけである。こうした認識からは、当然、貴族やブルジョアジーたちは、白痴である自分の子どもに対する教育への願いは「子どもに(家督相続の手続きなどに必要な)読み書きを教えるように熱心に要望したが、彼らに何らかの適切な仕事をさせるように希望した者はいなかった」のが実情であった。それに対してセガンは初期実践から労働の持つ人格形成の優位性を重んじていた。
 そうした思想と実践の根底にある哲学が何に依拠しているのかは、別に検討しなければならないだろう。

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