ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

フレネからパリ・コミューン(1871)へ 2

2017年11月11日 | 研究余話
(承前)
 朝市でパリ・コンミューン調査への糸口を下さったパリ、タクシードライバー労働組合書記局長のDさんのお導きで、パリ13区のビュット・オー・カイユにある「パリ・コミューン友の会(Les Amis de La Commune de Paris(1871)」へと出かけた。フレネの友人であるもと中等学校教授のE氏が常任である「友の会」の事務所にいるはずだというDさんの言葉に従ったのだった。しかし、アポ無しという無謀さはパリでは認められない、ということを知らしめられたのだった。「電話番」の事務局員のマダムと幾つかのやりとりの後、D氏E氏を我がアパートにお迎えして聞き取りをする、という幸せに恵まれた。


 E氏は、フレネはいろいろと批判の対象となり理解されないところがある人だったが、彼が切り開いた学校が実証するように、現代教育を子どもの側から変革することがいかに必要か、その根本のところ、その筋道、そして方法・内容のすべてを創造的に提案した偉大な教育者だ。フレネはパリ・コンミューンをよく学んでいた。その学びがフレネ教育運動に活かされている。」と、語ってくれた。まだ、フランスの教育史や教育事情にほとんど通じていなかったぼくにとっては、この聞き取りは、精神を集中するのが関の山で、さらに聞き込む」ということはできなかった。
 フレネがパリ・コミューンから学んでいた?一体何を?
 パリ・コミューンを社会主義革命の短命な運動としか学んでいなかったぼくにとって、フレネとパリ・コミューンとをつなぐキーとなるものが一体何なのか、見当も付かない。だったら、パリ・コミューンって、本当のところは、どのようなものだったのか、そしてどのように評価すべきなのか、そこを勉強するしか手立てはない。D氏が、パリ・コンミューンの第一次史料が、地方の古書店によって復刻されているから、まず、それを入手する必要がある。と示唆下さった。
 こうして、ぼくのパリ・コミューン研究の幕が開いたのだった。無知がなせる幕開けであるので、試行錯誤もいいところである。(続)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加