ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

改めて確認と大きな課題

2017年11月01日 | 研究余話
 セガンの白痴教育の到達点(最終目標)とは何か。
 読み書きができるようになる、感情を豊かに持つことができるようになる、身体機能を活発にすることができる。
 いや、それは、いわば「方法」「過程」であって「目的」では無い。1843年著書におぼろげに綴ってはいるが、はっきりと書かれているのは1846年著書である。松矢訳書からー
「どんなに卑しい地位であろうと、またその仕事がどんなに取るに足らない単純なものであろうとも、白痴児が有用な人間になることができるように彼らを導くこと、その価値が彼らの消費生活を満たすよう労働に従事する可能性を彼らに与えること。これが白痴教育の究極的な目的となる。」(訳書150ページ)
 要は労働に参加し社会的自立をする人として、白痴を育てる、ということだ。ぼくは、2010年の著書でこのことを「社会化」と形容した。ただ、歴史過程の中で、白痴者は搾取・虐待の対象犠牲を払わされてきているから、その点への考察を欠くことは出来ないのはたしかだ。ただし、それは、ぼくの仕事では無いだろう、と思ってきている。
 ところで、セガンの白痴教育の卓越しているところは、セガンの最初の実践報告書(1838年)に示された、教育は1.活動、2.知能、3.意思を包括する、ということ、そして実践の手順もその順である、ということにある。「これはあの卓越した本の、人類最初の本の最初のページに書かれているのと同じ」だと、セガンは言う。
 あまり教養を持たないぼくは、このフレーズの理解に苦しみ抜いている。「人類最初の本」?いや、そのフレーズだけを取り出してはならないだろう。「卓越した本」。次のフレーズが続く、「人間は神によって完成された像として示され、云々。」このフレーズで、キリスト教世界の三位一体を「人間の三位一体」と重ねて理解している。
 ルソー『エミール』?違いますね。明らかに違う。ドイツ啓蒙主義のレッシングに『人類の教育』(1780年)という著書がある。このことを指しているのでは無いか、と考えはするが、まだ論証はできない。セガンは、「自分はレッシングに強く同意する」と、何かに書いていた。「個人の問題を考えることが人類の問題を考えることになる」 このレッシングの命題は、セガンの「エミール」を捉える目に繋がっている?「一人の子どものことを書いているが普遍となっている」。いや、サン・シモンの「新キリスト教」の方が適切か。レッシングの著書は前世紀、サン・シモンの著書は1824年だったか?いずれも、サン・シモン主義者たちの「聖書」的な性格であったことは確かだ。原書を所有しているのだから、確かめましょう。
 しかし、清水寛氏は論文「セガンの知的障害児教育思想の背景」において、「あの卓越した本の、人類の最初の本」に()書きで、(聖書ー筆者注)と加筆している。これほど無検証な注書きもないだろう。「新約聖書」?「旧約聖書」?セガンの原書原文の該当部分は次のような記述になっている。
l'on ait faites dans ces derniers temps, comme aussi elle est écrite dès la première page du premier livre, du livre par excellence;
 つまり、「近年刊行された」という言葉をまったく無視した引用なのだ。松矢氏の翻訳文も少しこの点への配慮がないから、フランス語原文にあたらなかった清水氏は、松矢氏の訳文の曖昧さに幻惑されてしまったわけである。ひどいものだ。
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