ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

粋生倶楽部通所リハビリ

2016年07月16日 | 日記
○6時半起床、起床時室温24℃。夜中の目覚め3回。下宿することになった。家屋は無く、真っ白い岩肌の上が生活場、サザエの殻のような屹立した岩もある。この岩が柱の代わりにはなるだろうが、トイレもなければキッチンもない。どうやって生活するのだ?…という夢。
○午前中通所リハビリ。やはり脚の調子が悪く、あまり運動量を保てなかった。
*Sさんという新しい利用者さん。何もかも規格品外。脚の長さといい、運動スピードといい、こなす訓練品目といい、全てトップクラス。皆と一緒にやることを厭わず、区切り目では素敵な笑顔と拍手。ただ、ぼくとはあわないな。というより、ぼくからは近寄れないオーラがあります。
*Tさんという女性と会話。「今より悪くならなければいいと思っているの。」とおっしゃるので、ぼくも半分ほどはそんな気持ちが強いこともあり、「そうですね。わたしもそうです。」と応じたら、「歳いくつ?」と訊ねられた。Tさんは90だと、とても若くしっかりしておられるので感嘆しました。「まだまだだからがんばりなさい。」と励ましを頂きました。
○国民健康保険の被保険者証が届いた。通所施設にコピーを届けること。8月3日の通院の際にはこの保険証を持っていくこと。忘れるべからず。
○キリスト教世界にとって、絶対神があらゆる創造主であるとするならば、極端に対立する存在、たとえば富と貧、善と悪、健常と「不治の病・障害」というものをなぜ創造したのか。宗教者は、こういう問いを世俗者から突き付けられ、どのように教義として答えたのか。「白痴」の問題をどのように答えたのか。ウージェーヌ・シューが『パリの秘密』の中で、「忌まわしい交わりの結果」だと書いている。これは、「モーゼの十戒」(原始キリスト教)が分かりやすい、神によって命じられている戒律を破ったことによる「罰」(仏教で言えば、罪業)を与えられた、しかも永遠に、という理解がなされ、そう説明され続けた。だが、キリスト者であるセガンは、「白痴」が教育によって社会参加可能なほどにまで成長・発達することを実証した。これは、神の教え【聖書】に反するのではないか?いや、セガンは言う、神は人々が手を携えることができるようになるために、社会的弱者(白痴等)を創造した、と。
 今日の翻訳学習はここまで。セガンのキリスト教世界がかなり深いところでつかめたような気がする。「連帯」「絆」なのだ。
○通所仲間のKさんが7月10日のバス遠足の時の写真を撮ってくださいました。左手で杖を振り回し、何ふざけてんだろうね。記憶にないシーンです。しっかりカメラ目線なのにね。