ところで、『おしどり駕篭』という映画は、初物づくしだった。まず、マキノ雅弘が錦之助の映画を撮るのが初めて、ひばりの映画を撮るのも初めて。錦之助が弟の賀津雄と共演するのが初めて。ほかに、錦之助が江戸の庶民(この映画では左官屋)と殿様を演じ分けるのが初めて。威勢のいいべらんめぇ調をこれほど遣うのも初めて。ほかに、軽喜劇といったオペレッタ映画に錦之助が出るのも初めてだった。
その意味では、この映画は、錦之助の映画人生でもターニング・ポイントとなった作品だったと言える。この作品との出会いがあったからこそ、錦之助のその後の発展があったにちがいない。この作品に続く昭和33年の出演作を並べてみれば、それがよく分かる。まず、沢島忠監督との一心太助シリーズ第一作『江戸の名物男・一心太助』があり、これが大ヒットで、同年10月に総天然色の第二作『一心太助・天下の一大事』が上映される。同じ沢島監督の「殿さま弥次喜多シリーズ」もこの年に始まり、第一作『怪談道中』が同年の夏に上映される。錦之助が江戸っ子の庶民と殿様を演じ分けるこれらの映画は、言うならば『おしどり駕篭』の踏襲だった。
ほかに昭和33年には加藤泰監督の『風と女と旅鴉』が作られ、錦之助がノーメイクであまりカッコ良くないチンピラのやくざ役に挑戦した。そして、マキノ監督の錦之助映画の第二作『清水港の名物男・遠州森の石松』が作られ、錦之助の石松が絶品で、大ヒットした。加藤泰の異色作『源氏九郎颯爽記・白狐二刀流』、内出好吉監督の『剣は知っていた・紅顔無双流』、松田定次監督の『隠密七生記』、河野寿一監督の『浅間の暴れん坊』が作られたのもこの年であった。さらに錦之助は『大菩薩峠第二部』と『旗本退屈男』にも出演するといった充実ぶりだった。この年、子供向けの中篇映画は一本もない。
なぜ、この年錦之助がこれほどまで意欲的に映画に出演し、しかも多くの傑作を完成させることができたのだろうか。それは、『おしどり駕篭』の製作中に錦之助の意識変革があったからである。映画にかける情熱が燃え上がったのだ。その大きなきっかけとなったのは、東映の黄金時代を作り上げた名物プロデューサー、マキノ光雄(雅弘の弟)の急死だった。昭和32年12月9日のことである。
錦之助はマキノ光雄をオヤジのように慕い、全幅の信頼を寄せていたというから、彼の急死は大きなショックだった。
マキノ光雄の死の前後の様子については、マキノ雅弘の自伝『映画渡世・地の巻』に詳しいが、かいつまんで説明するとこうだ。昭和32年、マキノ光雄が企画した錦之助主演・マキノ雅弘監督の映画『成吉思汗(ジンギスカン)』が社長大川博の反対にもあって製作中止になった。そこで、光雄は、それに代わる企画として、戦前に山上伊太郎・マキノ雅弘のコンビで作った『弥次喜多・名君初上り』のリメイクを考えた。錦之助とひばりには出演承諾をすでに得て、脚本・監督を兄の雅弘のところへ頼みに来た。この映画は、製作中にマキノ兄弟の母が死んだという不吉な思い出があるため、雅弘はリメイクには気が向かなかったらしい。が、光雄のたっての望みということで、引き受けることにした。題名を『おしどり駕篭』に変え、脚本の執筆に取り掛かったのだが、突然光雄が病いに倒れてしまった。脳腫瘍だった。雅弘は11月末脚本を完成させ、製作に取り掛かった。(私が入手した脚本はこの時の初稿である。)12月4日京都撮影所でクランク・インした。が、その5日後、光雄は東京の病院で帰らぬ人となる。『おしどり駕篭』は、正月第二週の封切りが決まっていたので、二十日間で完成しなければならなかった。雅弘は正月の上映を楽しみにしていた光雄の遺志を尊重し、東京に帰って通夜に出ることもせず、映画の完成を優先した。錦之助はじめ、出演者もスタッフも同じで、京都に残り全員一丸となって製作に打ち込んだのだという。光雄の葬儀は、映画完成後、12月25日に行われた。『おしどり駕篭』はそんないわく付きの映画だった。
雑誌『時代映画』(昭和33年1月号、マキノ光雄追悼)に、錦之助、千代之介、橋蔵の三人による座談会が掲載されている。「親父よ見ていてくれ」という題名で、三人がマキノ光雄の思い出を語り合い、今後の決意を誓い合っていた。錦之助の言葉には、オヤジ亡き後、いい映画を作って、東映を盛り立てて行こうという固い決意のほどが伺われた。(つづく)
その意味では、この映画は、錦之助の映画人生でもターニング・ポイントとなった作品だったと言える。この作品との出会いがあったからこそ、錦之助のその後の発展があったにちがいない。この作品に続く昭和33年の出演作を並べてみれば、それがよく分かる。まず、沢島忠監督との一心太助シリーズ第一作『江戸の名物男・一心太助』があり、これが大ヒットで、同年10月に総天然色の第二作『一心太助・天下の一大事』が上映される。同じ沢島監督の「殿さま弥次喜多シリーズ」もこの年に始まり、第一作『怪談道中』が同年の夏に上映される。錦之助が江戸っ子の庶民と殿様を演じ分けるこれらの映画は、言うならば『おしどり駕篭』の踏襲だった。
ほかに昭和33年には加藤泰監督の『風と女と旅鴉』が作られ、錦之助がノーメイクであまりカッコ良くないチンピラのやくざ役に挑戦した。そして、マキノ監督の錦之助映画の第二作『清水港の名物男・遠州森の石松』が作られ、錦之助の石松が絶品で、大ヒットした。加藤泰の異色作『源氏九郎颯爽記・白狐二刀流』、内出好吉監督の『剣は知っていた・紅顔無双流』、松田定次監督の『隠密七生記』、河野寿一監督の『浅間の暴れん坊』が作られたのもこの年であった。さらに錦之助は『大菩薩峠第二部』と『旗本退屈男』にも出演するといった充実ぶりだった。この年、子供向けの中篇映画は一本もない。
なぜ、この年錦之助がこれほどまで意欲的に映画に出演し、しかも多くの傑作を完成させることができたのだろうか。それは、『おしどり駕篭』の製作中に錦之助の意識変革があったからである。映画にかける情熱が燃え上がったのだ。その大きなきっかけとなったのは、東映の黄金時代を作り上げた名物プロデューサー、マキノ光雄(雅弘の弟)の急死だった。昭和32年12月9日のことである。
錦之助はマキノ光雄をオヤジのように慕い、全幅の信頼を寄せていたというから、彼の急死は大きなショックだった。
マキノ光雄の死の前後の様子については、マキノ雅弘の自伝『映画渡世・地の巻』に詳しいが、かいつまんで説明するとこうだ。昭和32年、マキノ光雄が企画した錦之助主演・マキノ雅弘監督の映画『成吉思汗(ジンギスカン)』が社長大川博の反対にもあって製作中止になった。そこで、光雄は、それに代わる企画として、戦前に山上伊太郎・マキノ雅弘のコンビで作った『弥次喜多・名君初上り』のリメイクを考えた。錦之助とひばりには出演承諾をすでに得て、脚本・監督を兄の雅弘のところへ頼みに来た。この映画は、製作中にマキノ兄弟の母が死んだという不吉な思い出があるため、雅弘はリメイクには気が向かなかったらしい。が、光雄のたっての望みということで、引き受けることにした。題名を『おしどり駕篭』に変え、脚本の執筆に取り掛かったのだが、突然光雄が病いに倒れてしまった。脳腫瘍だった。雅弘は11月末脚本を完成させ、製作に取り掛かった。(私が入手した脚本はこの時の初稿である。)12月4日京都撮影所でクランク・インした。が、その5日後、光雄は東京の病院で帰らぬ人となる。『おしどり駕篭』は、正月第二週の封切りが決まっていたので、二十日間で完成しなければならなかった。雅弘は正月の上映を楽しみにしていた光雄の遺志を尊重し、東京に帰って通夜に出ることもせず、映画の完成を優先した。錦之助はじめ、出演者もスタッフも同じで、京都に残り全員一丸となって製作に打ち込んだのだという。光雄の葬儀は、映画完成後、12月25日に行われた。『おしどり駕篭』はそんないわく付きの映画だった。
雑誌『時代映画』(昭和33年1月号、マキノ光雄追悼)に、錦之助、千代之介、橋蔵の三人による座談会が掲載されている。「親父よ見ていてくれ」という題名で、三人がマキノ光雄の思い出を語り合い、今後の決意を誓い合っていた。錦之助の言葉には、オヤジ亡き後、いい映画を作って、東映を盛り立てて行こうという固い決意のほどが伺われた。(つづく)










