背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋周辺の人物たち~朋誠堂喜三二

2014年05月29日 22時58分18秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 享保20年(1735)閏3月21日、江戸に生まれる。父は武士の西村氏で、その三男であった。幼名・昭茂。14歳で母方の縁戚にあたる平沢家の養子に入る。本名・平沢常富、通称・平格(平角)。平沢家は二十五万五千八百石の大藩・秋田久保田藩の家臣で、代々剣術の師範格でもあったらしい。愛洲陰流という剣術の開祖の血筋を引く家柄で、それもあってか、平沢平格は江戸住のエリート藩士として昇進していったようだ。
 しかし、硬派の剣術使いとは真反対に軟弱な気風に染まり、子どもの頃から芝居を好み、乱舞や鼓なども習っていた影響からか、成年になると、吉原通いを始めた。酒はたしなまなかったが、芸達者で評判を高め、自ら「宝暦の色男」と称していたというから推して知るべしである。文武両道というより、硬軟両股といった行き方であった。宝暦期だから、20代半ばの頃であろう。
 彼は子供の頃俳諧を馬場存義に学び、後年は夜雨庵亀成の門に入り、俳名を雨後庵月成(つきなり)と言った。蔦屋重三郎は、彼のことを「月成さん」と呼んで敬愛しているが、二人はかなり早い時期(安永以前)から知り合いだったように思われる。月成は明和6年、35歳の時すでに「吉原細見」に序文を書いているほどで、吉原ではお武家様の通人(つうじん)として知らぬ者のない名士であった。そして、蔦重が「吉原細見」を発行するようになって、安永6年から毎春序文を寄せてくれたのも、月成さんこと朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)であった。
 武士としての平沢平格は、久保田藩の渉外役を務めていたようで、他藩との連絡折衝や他藩についての情報収集をしていたと思われる。吉原を社交サロンないしは接待の場として、自藩や他藩のお偉方の案内役のようなこともしていたのだろう。社用族ならぬ藩用族である。駿河小島藩の倉橋格(戯作者恋川春町)も、小藩だが同じような役目で、二人は莫逆の交わりを結び、のちに二人とも吉原通いを生かし、黄表紙のベストセラー作家となり、安永天明期において、武家出身の戯作者の両巨頭と呼ばれるようになる。
 恋川春町は文才画才兼ね備え、黄表紙も自作自画であったが、朋誠堂喜三二は、文だけ書き、絵は親友の春町に描いてもらうことが多かった。朋誠堂喜三二は戯作者としての筆名であるが、この名は「干せど気散じ」(干上がっても気楽)のもじりで、武士は食ねど高楊枝の意味ではないかと言われている。彼は狂歌も数多く詠み、狂名を手柄岡持(てがらのおかもち)といい、狂詩を書くときには韓長齢(かんのちょうれい)と号した。また、洒落本を書くときの名は、道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)で、ほかに、浅黄裏成、亀山人、朝東亭などがあり、真面目な号は愛洲(先祖である剣術の開祖の名からとった)、隠居後は平荷であったという。


「手柄岡持」 北尾政演(山東京伝)画、狂歌本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』より

 いろいろな名を持つこの平沢平格は、天明期には秋田藩留守居役筆頭にまで昇りつめ、120石取りであった。留守居役というのは、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や諸藩との交渉を行う実務上の最高責任者である。公務のかたわら、30数作の黄表紙の書き上げ、次々とヒット作を飛ばしていったのだから、すごいものである。
 戯作の最初は安永2年(1773)、金錦佐恵流(きんきんさえる)の名で著した洒落本『当世風俗通』(恋川春町画)である。そして、恋川春町はこの本に刺激され影響を受けて、安永4年に黄表紙ブームの開幕を飾る大ヒット作『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(鱗形屋版)を自作自画したと言われている。「金々(きんきん)」というのは当時の流行語で、金ピカで豪華なこと、贅沢な遊びを指し、金々先生は当世風の伊達男を意味し、朋誠堂喜三二の仇名でもあった。
 朋誠堂喜三二は、安政6年、43歳から黄表紙を書きまくるが、奇想天外な大人の童話、歌舞伎の筋書きをもじったパロディ、当時の政治に触れた問題作などに、都会人らしい洒落、滑稽、ナンセンスを盛り込み、巧緻な構成は他の追随を許さず、彼の代表作は十指にあまるとされている。
 昔話の「かちかち山」と歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をないまぜにした『親敵討腹鞁(おやのかたきうて はらづつみ)』(1777)をはじめ、『桃太郎後日話(ももたろう ごにちばなし)』(1777)、『鼻峯高慢男(はなみね こうまんおとこ)』(1777)、『案内手本通人蔵(あなでほん つうじんぐら)』(以上すべて春町画、鱗形屋版)、『見徳一炊夢(みるがとく いっすいのゆめ)』(重政画 1781)、『一流万金談』(政演画 1781)、『景清百人一首』(重政画 1782)、『長生見度記(ながいき みたいき)』(春町画 1783)(以上すべて蔦屋版)が主な代表作である。
 ウィットに富んだ面白い題名が多い。『桃太郎後日話』『見徳一炊夢』の2作だけ、私は絵を見ながら読んでみたが、後者は傑作である。
 安永9年以降、朋誠堂喜三二の黄表紙は、ほとんどすべて蔦屋重三郎が発行しているほどで、喜三二は蔦重にとって最高かつ最大の協力者であった。
 ほかに喜三二は、滑稽本『古朽木(ふるくちき)』(西村伝兵衛版 1780)、咄本『百福物語』(春町らと合作、伏見屋版1788)も残している。
 喜三二の最終作となった黄表紙、天明8年(1788)正月発行の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(喜多川行麿画、蔦屋版)は、前年から始まった老中松平定信の改革を鎌倉時代に移してユーモアと隠喩を込めて描いた問題作であり、発売されるやいなや爆発的な大ヒットとなった。馬琴もこの本について、「古今未曾有の大流行にて……赤本の作ありてより以来、かばかり行はれしものは前代未聞の事なりといふ」(「物之本江戸作者部類」)と書いているほどである。しかし、幕政を茶化していると取られかねない内容でもあり、政治問題へと発展する恐れもあったため、喜三二は主家から命じられ、戯作の筆を断つことになってしまう。
 蔦屋重三郎も喜三二もこれほど重大な事態になるとは予想もしていなかったであろう。まさに晴天の霹靂であった。重三郎にとっては、喜三二の断筆は大きな打撃だった。
 『文武二道万石通』は、短期間に再版を何度も重ね、問題になりそうな箇所は初版に修正を加えたことが現在では分かっている。この本は、発禁にもならず、重三郎も処罰を受けなかったが、寛政期に入り、幕府の取り締まりは厳しさを増していく。これについては回を改め述べるつもりである。
 朋誠堂喜三二はその後公務に励みながら、手柄岡持の名で狂歌だけは詠み続けたという。彼の家庭や妻については不明であるが、長男の為八が平沢家を継いで、同じく留守居役を勤めたことが知られている。
 平沢平格、文化10年(1813)年5月20日、死去。享年79歳の大往生であった。戒名は法性院月成日明居士。墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。歿後翌年の文化11年(1814)には狂文集『岡持家集 我おもしろ』が刊行されている。

*参考資料
 朝日日本歴史人物事典、ウィキペディア、「日本古典文学大系 黄表紙洒落本集」(岩波書店)所収の解説(水野稔)、同書付録・月報18掲載の「喜三二と春町」(濱田義一郎)、「江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集」(現代教養文庫)
 なお、『見徳一炊夢』『文武二道万石通』は「日本古典文学大系」に、『桃太郎後日話』『一流万金談』は「江戸の戯作絵本(一)」に収録されている。




蔦屋重三郎(その3)

2014年05月29日 06時34分07秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 江戸時代は本の制作・卸売・小売が未分化だった。版元(板元、現在の出版社)は、問屋でもあり、小売店も持っていた。そして、印刷・製本業者である板木屋(彫師)、摺り師仕立屋(表紙屋ともいい、今の製本所である)等を下請けに抱えていた。
 出版販売する本の種類によって版元は二系列に分けられた。書物問屋地本問屋である。主に京大坂の版元から出された、いわゆる「物之本」(硬い本)すなわち和漢の学術書等を出版販売する業者が書物問屋で、地本すなわち地元の江戸の大衆娯楽本である草双紙類(赤本、黒本、青本)、洒落本、噺本、浄瑠璃本、長唄本、そして浮世絵などの出版販売をする業者が地本問屋であった。書物問屋と地本問屋を兼ねる大手の版元もあった。たとえば、京都に本店があり、江戸日本橋に支店を持っていた仙鶴堂・鶴屋喜右衛門がそうであった。
 江戸時代中期に株仲間といわれる同業組合ができるが、書物問屋の株仲間が幕府に公認されるのは享保年間で、地本問屋の方はずっと遅れて寛政2年である。ただし、地本問屋にも株仲間はあり、仲間同士の取り決めや約束を定め、違反したものには制裁を加えたりしていた。今で言う著作権というものはなかったが、板株(いたかぶ 版権)や販売権というものはあった。
 また、海賊版を作った版元は、被害者が奉行所に訴えれば、吟味の上、お上から処罰が下った。安政7年1月に鱗形屋孫兵衛が罰せられたのも、身内の徳兵衛が大坂の版元からすでに出版されている「早引節用集」(コンサイス国語辞典といった本)を重版し、勝手に鱗形屋から売り出したからであった。
 蔦屋重三郎は、版元として初めて吉原細見を出した時、板株を持っていなかったため問題となり、吉原の妓楼玉屋山三郎の口利きで、やっと紛糾を収めたと言われている。
 天明3年9月、重三郎が一流版元の居並ぶ日本橋通油町へ進出する時は、地本問屋の丸屋小兵衛の店を買い取ってそこへ本店を移したのだが、丸屋が持っていた版元の権利一切も買い上げたとのことである。トータルでいくら支払ったかは不明であるが、相当な金額であったことは確かだろう。また、その際、問屋有力者のだれかの斡旋があったと思われるが、それが鱗形屋孫兵衛なのか、それとも最大手の鶴屋喜右衛門(通称鶴喜)なのかは分からない。鶴喜は、日本橋通油町に店を構えていたが、その斜向かいに移転してきた蔦屋重三郎と親しく接し、なにかにつけて助力を惜しまなかったようだ。

 安政7年、8年の蔦屋の出版点数が激減したことはすでに述べた。出版物というのは編集制作に3ヶ月から半年かかるので、蔦屋のピンチは安政6年の半ばあたりから安政8年の半ば頃までの約2年間であった。その原因は、蔦屋が援助を受けていた版元の鱗形屋孫兵衛の経営破綻であったことは間違いない。
 鱗形屋は安政4年から毎年10数点出版していた黄表紙が、安政8年には7点に減り、安政9年には無くなってしまう。その2年後の天明2年にはまた黄表紙を出版し始めるが、鱗形屋の経営者が変わり、建て直しをはかったように思われる。しかし、これは一時期だけの復活で天明期の半ばに第一線から退き、寛政初めには廃業している。
 鱗形屋にとって定番の「吉原細見」は、安永9年正月に発行したのが最後で、安永10年(天明元年)は蔦屋版「吉原細見」が1点、天明2年以降は蔦屋が「吉原細見」を独占し、春と秋の年二回に発行することになる。鱗形屋は蔦屋に「吉原細見」のほかにも黄表紙ヒット作の版権(板木も含めて)を売ったと思われる。恋川春町の「金々先生栄華夢」「高慢斎行脚日記」、朋誠堂喜三二の「鼻峯高慢男」などは寛永6年、蔦屋から再刊されている。

 安永9年(1780)、重三郎は一気に出版点数を増やす。この年の蔦屋からの発行本は全部で約15点(黄表紙が8点)である。そのうちの半数は、正月発行分だろうから、前年の秋からは編集制作に取り掛かっていたはずである。ということは、安政8年の夏までには出資者を見つけ、出版の資金繰りがついていたのだろう。3年ほど前からすでに版元間で黄表紙(当時はこれも青本と呼んだ)の販売競争が激化していたが、重三郎は、鱗形屋に代わってその競争に加わることを決断し、売れっ子作家の朋誠堂喜三二と専属契約のような約束を結び、喜三二に執筆を依頼していたはずである。また、北尾重政には挿絵を依頼し、愛弟子の北尾政演山東京伝)とも知り合って、彼の早熟した才能に期待をかけていたと思われる。
 この年、蔦屋が出版した朋誠堂喜三二の黄表紙は次の3作が知られている。
「鐘入七人化粧(かねいりしちにんげしょう)」(朋誠堂喜三二作、北尾重政画)
「廓花扇観世水(くるわのはなおうぎかんぜみず)」(朋誠堂喜三二作、北尾政演画)
「竜都四国噂(たつのみやこしこくうわさ)」(朋誠堂喜三二作)
 他の作者による黄表紙は、5点ある。
「虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)」(鳥居清経画)の作者・四方屋本太郎正直は、大田南畝ではないかと言われている。そうだとすれば、重三郎は南畝とも親交関係を結んでいたことになる。
「夜野中狐物(よのなかこんなもの)」(北尾政演画)の作者・王子風車は、山東京伝になる前の筆名で、画を描いた北尾政演も京伝のことだから、これは、彼の自作自画の黄表紙である。「通者言此事(つうとはこのこと)」(北尾政演画)には作者名がないようだが、これも彼の自作自画かもしれない。
 この年の出版目録に洒落本が2点あるが、「一騎夜行(いっきやぎょう)」の作者・志水燕十(1726~86 しみずえんじゅう)は、絵師鳥山石燕門下の高弟で、絵よりも文筆に才を振るった人物だが、彼も重三郎を支えた一人であった。
 
 重三郎の活躍期は安政半ばから寛政半ばまでの約20年であるが、時流に乗る巧さ、企画の斬新さ、販売方法の大胆さといった才覚に加え、重三郎の人脈作りの能力は著しいものがあった。重三郎の社交性と人柄が大きく物を言ったのだろう。重三郎は吉原で顔がきくことを利用し、著名な作家や画家たちを吉原に招き、接待して、人間関係を広げていく。
 出版社は、文章を書く人間の才能と、絵(挿絵、漫画)を描いたり、デザインをしたりする人間の才能に依存する業種である。才能を見出し、才能を発揮させることができなければ出版社は発展しないが、出版社の社長はその才能を引きつけるだけの人間的魅力と人心掌握術を備えていなければならない。重三郎は、その二つを十分に持ち合わせていたにちがいない。


蔦屋重三郎(その2)

2014年05月28日 11時11分44秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 通称・蔦重(つたじゅう)、屋号は耕書堂(こうしょどう)または薜羅館(へきらかん)、流行の狂歌も詠み、狂名は蔦唐丸(つたのからまる)。狂歌の師は宿屋飯盛(やどやのめしもり)こと石川雅望だと言われている。のちに大田南畝に私淑する。自作の戯作も5点ほどあり、自社の蔦屋から出版している。

 蔦屋重三郎(蔦重)を知る手がかりで今に残る基本的資料は、次の四系統である。
一、墓碑銘
 石川雅望(宿屋飯盛)撰文の「喜多川柯理墓碣銘」と大田南畝による重三郎の「実母顕彰の碑文」である。重三郎とその一族の墓は、浅草の正法寺にあったが、関東大震災と戦災の被害によって、今は跡形もない。明治時代の文献に記された翻刻文が残っているにすぎない。雅望、南畝の碑文は漢文である。
二、蔦屋発行本の奥付と広告、蔦重自身によるまえがき、浮世絵に刻印された蔦屋の商標
三、文献に残る、作家・絵師たちによる蔦重に関するコメント
 大田南畝、山東京山、雪麿、曲亭馬琴など
四、黄表紙などで蔦重を描いた挿絵

 蔦屋重三郎は、寛延3年1月7日(1750年2月13日)江戸新吉原に生まれた。父は尾張の人・丸山重助、母は江戸の人・津与(広瀬氏)で、柯理(からまる)と名づけられた。
 父がどういう人で何をしていたのか、母がどういう人だったかも全く不明である。重三郎が吉原で生まれたことだけは確かだが、父は遊郭で働いていた人だったのではないか、母はもしかすると元遊女ではなかったのかとも言われているが、これは憶測にすぎない。
 幼い頃は母の愛情を浴びて幸せに育てられたようだが、その後、母が離縁されたらしく、重三郎は7歳の時に喜多川氏に養われることになる。喜多川氏というのは、新吉原仲之町の妓楼・引手茶屋の蔦屋本家のことだとされている。宝暦・明和期に幼少年時代を送るが、その伝記はまったく不明である。
 後年(天明3年)、重三郎が出世して、日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に本店を構えるようになって、別れていた父と母を呼び寄せ、一緒に暮らして親孝行したという。母津与は、寛政4年10月26日に病死したが、その翌年、重三郎は浅草の正法寺にあった墓を立派な墓に作り直し、大田南畝に頼んで、碑文を書いてもらっている。
 重三郎は、養家蔦屋のバックアップと遊郭街吉原で育った利点を生かし、まず、吉原の大門そばに小さな本屋を出し、吉原お遊びガイドブック「吉原細見(よしわらさいけん)」の小売を始めた。当時吉原細見を出版していたのは老舗の版元鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)であったが、重三郎はその支援を受け、吉原細見の小売から編集制作、出版に手を広げる。
 重三郎が新吉原大門口五十間道(五十軒道)に本屋を開いたのは、明和の末から安永2年初めまでだと推定されている。蔦屋治郎吉という人の家(蔦屋の案内所?)の入口を借りた小さな店だったようだ。


「吉原細見」*大門に向かって左側の店並に重三郎の「つたや」がある。また、吉原内中央のメインストリート(仲之町通り)の左側、前から7軒目に「つたや」がある。

 安永2年(1773)秋発行の鱗形屋版の吉原細見本「這嬋観玉盤(このふみづき)」(勝川春章画、再摺本)の奥付に初めて蔦屋重三郎の名前が載る。蔦重24歳(数え)の時である。

 此細見改                新吉原五十間道左りかは
 おろし小売 取次仕候                蔦屋重三郎
 安永二癸巳歳
 毎月大改                     板元 鱗形屋

「改」というのは、調査、編集のこと、「おろし小売 取次つかまつりそうろう」、つまり、板元から委託され、小売店、行商人、貸本屋に本を卸し売りするということである。
 安永3年(1774)春発行、鱗形屋版の吉原細見本「嗚呼御江戸(ああおえど)」の奥付にも名前が載る。

 細見おろし小売 新吉原五十軒道左側        蔦屋重三郎

 この頃、重三郎は、版元鱗形屋の下請けの編集者(従業員がいれば編集プロダクション)になって吉原細見本の制作に携わっていたと思われる。そして、おそらく1年かそこらで、版元へと転進をはかる。

 安永3年7月発行 遊女評判記「一目千本 花すまひ」が版元蔦屋の処女出版である。序文は紅塵陌人(誰だか不明)が書き、口絵は一流絵師の北尾重政が描いている。
 刊記に、

 安永三甲午歳七月吉日      画工北尾重政
 板元書肆 新吉原五十軒     蔦屋重三郎

 出版資金は蔦屋と各遊郭が出し、鱗形屋孫兵衛の全面的協力があったことは間違いなかろう。この本は、吉原細見ではなく、遊女評判記である。廓関係の出版物には二種類あって、吉原細見は公式ガイドブック、評判記は副読本である。ほかに遊女の錦絵もあり、こちらはブロマイドといったもの。
 北尾重政(1739~1820)は、この頃、勝川春章と並ぶ第一線の人気絵師であった。重政との結びつきはその後の蔦屋の発展に大きく寄与した。重政門下の俊英三人、北尾政演(まさのぶ のちの山東京伝)、北尾政美(まさよし)、窪春満(くぼしゅんまん)、また門下同然の喜多川歌麿(当時は北川豊章)と知り合うことで、重三郎は彼らの大きな協力も得ることになる。北尾重政は、重三郎より11歳年長であったが、以後ずっと蔦屋発行のさまざまな本に挿絵を描き続け、重三郎が亡くなるまで親交を絶やすことがなかった。

 安永3年半ばから8年半ばまでの5年間は、蔦屋重三郎にとって、創業後の模索期であり、その後の発展の雌伏期でもあった。
 まず、出版資金がないこと、古くからある大手版元の中へ参入することの困難、ヒット本の選定がまだ不確かであったことなどが上げられるだろう。
 一方、鱗形屋孫兵衛の協力を得て、出版社の基礎である制作スタッフ(板木屋、摺り師など)の獲得と充実、作家や絵師たちとの交流と人脈作り、売れ行きが確実な本(たとえば「吉原細見」)の刊行といったことを着々と進めていった。刊行本のジャンルも少しずつ広げていったことは、その出版目録から窺われる。

 安永4年 噺本「現金安売ばなし」(蔦唐丸序、鳥居清経画)。
 秋、吉原細見版元となり、「籬(まがき)の花」刊行。遊女評判記「急戯花の名寄」(耕書堂序)
 安永5年 吉原細見「名華選」、吉原細見「家満人言葉」
 読本「青楼奇事 烟花清談」
 同年正月、版元山崎金兵衛(本石町拾軒店)と共同発行(合版)で、四季の遊女たちの姿絵および遊女自作の俳諧集「青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)」(勝川春章、北尾重政・画)3巻が刊行される。蔦屋重三郎が序文を書き、この艶やかな多色摺り豪華絵本は大ヒット作となった。
「蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち」(昭和60年2月 浮世絵 太田記念美術館)に白黒だが全ページ掲載されている。吉原の遊女約150人の春夏秋冬の日常の姿(男客は皆無)を勝川春章と北尾重政の美人画の名手が描き、巻末に彼女たちの俳諧が載った大作である。


「青楼美人合姿鏡」3巻


 春、扇屋の遊女たち

 また、同年、大手版元西村与八と合版で錦絵「雛形若菜初模様」(湖竜斎画)を刊行するも、わずか数点出して決裂。(以後、このシリーズは版元西村与八の単独出版で天明初年まで続刊された。また西村与八との角逐は重三郎が亡くなるまで続く)

 安永6年 吉原細見「四季の太夫」、吉原細見「三津の根色」
 洒落本「娼妃地理記」道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)作 *朋誠堂喜三二のこと。
 評判記「江戸しまん評判記」
 絵本「明月余情」(朋誠堂喜三二序、恋川春町画)
 活花本「手ごと清水」
 富本正本「夫婦酒替奴中仲」(北尾政演画)
 冬、五十間道東側堤寄りの家田屋半兵衛方跡へ移る。

 安永7年 吉原細見1点のみ。
 安永8年 吉原細見1点、噺本2点のみ。

 安政6年の版元鱗形屋孫兵衛の経営悪化が蔦屋にも大きく影響し、この2年は、蔦屋最大のピンチだった。
 鱗形屋は創業100年の歴史を誇る江戸の版元(地本問屋)で、大伝馬町3丁目にあった。主人は山野孫兵衛で、何代目かは分からないが、重三郎が取引していた孫兵衛は、お人よしで経営能力が欠けていたようである。
 吉原細見は、それまではほぼ鱗形屋の独占出版で、確実に収益が上がる本であった。重三郎に販売権と編集制作を委ね、さらに出版権まで与えたのは、孫兵衛が重三郎を見込んでのことであり、また彼の好意であったと思われる。
 安永4年春、鱗形屋は、黄表紙の第一弾、恋川春町の「金々先生栄華夢」を刊行し、大ベストセラーになって、黄表紙の新作を次々と売り出しヒットさせ、江戸の出版界をリードするようになった。吉原細見の出版権を蔦屋に与えたのは、鱗形屋が黄表紙の出版に追われたことも理由の一つだったかもしれない。が、好事魔多し、同年夏に既存本の無断重版で奉行所から咎めを受ける。この時は、大事には至らなかったようだが、2年後の安永6年夏にも同じ不祥事を起こし、今度は厳罰が下る。翌安永7年1月、鱗形屋の関係者が処罰され、主人の孫兵衛も罰金を科せられた。これで、鱗形屋の屋台骨は一気に傾き、吉原細見の版権も黄表紙の売れっ子作家も手放さざるを得なくなってしまう。結局鱗形屋は、吉原細見の版権をそのまま蔦屋に委譲することになった。そして、鱗形屋の専属売れっ子作家であった朋誠堂喜三二が蔦屋に移って黄表紙を出し、さらに恋川春町も2年ほど休筆した後、蔦屋に移ってくることになる。
 
 蔦屋重三郎が機を捕え、勇躍して出版業界に打って出るのは安政9年正月からである。




蔦屋重三郎(その1)

2014年05月28日 05時49分16秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう 1750~1797)は、安永・天明・寛政期の江戸出版界に大きな足跡を残した出版社・書店の社長である。一代で、小さな本屋から江戸随一と呼ばれる新興の大出版社を築いた人物で、現代では彼のことを江戸出版界の風雲児、天明文化の演出者、江戸後期の大プロデューサーと呼んでいる。
 重三郎は、遊郭吉原の風俗本および画集、挿絵入り娯楽読み物、流行歌謡本、戯歌(ざれうた)集、話のタネの本などを手がけ、大都会江戸のアップトゥーデイトな大衆娯楽の分野でベストセラーを続々と刊行し、今で言うポップアート、浮世絵においても、吉原名花の遊女たち、街で評判の美人、人気歌舞伎役者などの姿絵を数多く発売し、江戸庶民を喜ばせ、まさに一世を風靡した出版界のヒットメーカーであった。
 
 蔦屋重三郎が大衆的なエンターテインメントに徹した出版事業にいそしむことになった最大の要因は、彼の生まれと育ちにあった。重三郎は、江戸の風俗街吉原のど真ん中で生まれ、吉原という、人間の欲望が渦巻く特殊な環境で育った。遊郭や茶屋を営む人々やその客たち、そして遊女や芸人たちに囲まれて成長し、人間社会の悲喜こもごも、社交術の大切さ、人間の浮き沈み、身分の違いに関わらない人間の本性、金の力、義理と人情、嘘と本音など、子供の頃から実地の社会勉強を重ねてきたにちがいない。
 蔦屋というのは、吉原の妓楼と引き手茶屋の屋号で、重三郎は、そのチェーン店の本家の養子だったという。重三郎は長じて、蔦屋の宣伝担当を任されるようになったようである。吉原の入口である大門(おおもん)の外にいろいろな案内所があって、その一軒でガイドブックを販売することを始めた。「吉原細見(さいけん)」といって、吉原内の地図、遊郭と遊女たちの紹介、値段などを書いた小冊子で、吉原で遊ぶ男たちの必携本である。吉原細見は、鱗形屋(うろこがたや)という老舗の出版社が毎年春と秋に版を変えて発行していた本で、吉原の遊郭各店が宣伝費として資金提供し、また、一定部数が確実に売れる堅実な本だった。重三郎は、まずその小売から始めたのだが、発行元である鱗形屋の社長孫兵衛と親しくなり、吉原の内情に詳しいことから改訂版の編集を行なうようになった。これが、蔦屋重三郎の出発点で、のちに飛ぶ鳥落とす勢いの新興出版社を築くきっかけであった。
 重三郎が妓楼の主人にも茶屋の主人にもならずに、吉原の外に出て、人生の転機をとらえ、出版事業に乗り出すようになったことは、あとで振り返れば江戸文化史にとって非常に大きな意義を持つことであった。文化を花開かせるのは、時代環境や歴史的契機もあろうが、やはりその時代に運命的に登場した人間の活躍によるものである。蔦屋重三郎が現れなければ、天明寛政期の江戸文化はまったく違ったものになっていたと思われるほど、この男は重要な人物であったと言えるであろう。
 山東京伝(画号:北尾政演)の画才文才を発揮発展させ、喜多川歌麿を美人画の大家に育て、東洲斎写楽を売り出し、売れる前の曲亭馬琴や十返舎一九を世話し、著作活動へ導いたのも、蔦屋重三郎であった。


写楽論(その35)~これまでの総括と雑感

2014年05月24日 23時38分07秒 | 写楽論
 「諸家人名江戸方角分」と「浮世絵類考」について、長々と書いてきましたが、現在のところ私が考えていることをまとめてみます。

 まず、「諸家人名江戸方角分」は、後世の作ではないかという疑念が消えません。ここに書かれた情報は、写楽斎という浮世絵師が八丁堀の地蔵橋あたりに住んでいたが、文政元年までにすでに死亡している(死亡の表記はあとで付け加えたという説明もある)、ということだけです。地蔵橋という特定された地点が書かれていますが、写楽が八丁堀に住んでいるという記述は、「浮世絵類考」の三馬の補記にもあるわけですから、別にそれほど重視せずに、無視してもかまわないのではないかと思います。三馬がこの「江戸方角分」を見て補記を書いたとか、斎藤月岑が「江戸方角分」の記述から調査して、能役者の斎藤十郎兵衛を突き止めたとかいった推定は、根拠がないと思います。中野三敏氏ほか、「江戸方角分」にある大田南畝の奥書を信じて疑わない学者たちは、傍証も示して、これが本物だとぜひ証明していただきたい。著者でも編集者でもいいですが、三代目瀬川富三郎という人がどういう人物だということもよく分かっておらず、原本の存在も不確かで、写本が1冊、その転写本が1冊しかない「江戸方角分」を、文化14年頃に三代目瀬川富三郎が書いたものであると即断してしまう軽卒さは、学者としてのレベルの低さを露呈していると思います。
 次に、「浮世絵類考」の写楽についての三馬の補記ですが、八丁堀に住んでいるという情報は、町の風聞にしろ、重要なことです。三馬は写楽が誰だか知らなかったかもしれませんが、写楽という絵師の描いた役者絵を見ていたことは確かでしょうし、写楽が流派に属さない独特な絵師だという認識は持っていました。三馬の「稗史億説年代記」にある孤島で示した写楽の表記がそれを明らかにしています。
 「浮世絵類考」の補記で、最も重要なのは、栄松斎長喜老人が写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)という名だと言っていたという情報です。この朱筆の頭注を、誰がいつ書いたのかは分かりませんが、一応、後世のでっち上げではないのかということも疑ってかからなければならないと思います。それには、この頭注が書かれている二つの写本、「奈河本」と「達磨屋五一本」を比較し、頭注の筆跡を確かめ、詳細に検討してみる必要があります。この頭注は、私の推測では、天保2年以降に書かれたものであり、栄松斎長喜はすでに亡くなっていたと思われます。写楽が出現してから、30数年後の記載であり、なぜその頃になって、このような情報が飛び出したのか不思議な印象を受けます。
 斎藤月岑の補記、「斎藤十郎兵衛、阿波侯の能役者なり」は天保15年、写楽出現50年後の記述であり、これも何を根拠に書いたのかが不明です。しかし、月岑がこれを書いた以上、何か確かな情報をつかんでいたことは間違いありません。月岑は、「奈河本」も「達磨屋五一本」も当時見ていなかったことは確実ですが、「写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)」だという話を別のルートから入手したようです。「能役者」だということは、月岑が調査して突き止めたのではないかと思います。その時、月岑は、国学者の村田春海(故人)の家の隣りに阿波侯お抱えの斎藤与右衛門という能役者が住んでいて、その父が斎藤十郎兵衛ということを知ったのではないでしょうか。それにしても、写楽とこの斎藤十郎兵衛を結びつけるには、別の根拠がなくてはなりません。
 写楽=能役者斎藤十郎兵衛説で、いちばん弱いところは、斎藤十郎兵衛の画歴がまったく不明なことです。斎藤十郎兵衛という能役者が実在した人物であることは分かっていて、歿年も生年も家族構成もつかめているのですが、絵を描いていたという記録がまったくないわけです。また、版元の蔦屋重三郎との関係も分からず、そのつながりの細い線すら見えない状態にあります。写楽が描いた歌舞伎役者たちと斎藤十郎兵衛との関係も見えません。
 浮世絵師の英泉は「無名翁随筆」を書いた天保4年当時、写楽がどういう人物かについての情報をまったく知らなかったわけですが、斎藤月岑や「無名庵随筆」の写本を月岑に貸した石塚豊芥子がどこから写楽=阿波侯の士・斎藤十郎兵衛という情報を得たのか、いろいろな推測はできますが、立証資料がまったくありません。

 写楽という人物の捜索は、これまで主に四つの方面から行われてきました。
 一、画風と落款
 ニ、「浮世絵類考」の補記
 三、版元蔦屋重三郎とその周辺の人間関係
 四、歌舞伎役者および関係者
 ほかに、東洲斎写楽という名前の謎解きからの探究もあります。

 一は、これまでの写楽別人説の発生源でした。現在では、写楽=北斎説(田中政道氏)がそうです。能役者斎藤十郎兵衛説は、写楽の役者絵の顔が能面にそっくりだとする主張(定村忠士氏)、着物の文様が能衣裳から取ったとする主張(内田千鶴子氏)、写楽の二人像はシテとワキの構図であるという主張など。
 また、イタリアの美術史研究家のモレルリが発見した識別法を用い、写楽が描いた人物の耳と鼻の線の特徴から絵師を特定する研究もあります。松木寛氏の著書「蔦屋重三郎」には、写楽絵の耳の線の特徴から第一期・二期と第三期・四期は別の絵師であるという説が書かれています。
 私も第一期の大首絵と第三期の大首絵は、違う絵師が描いたとのではないかと思っています。初代写楽(東州斎)と二代目写楽存在説を私は考えています。 
 二については、写楽=能役者斎藤十郎兵衛説を肯定するか否定するかの出発点でしかなく、これ以上発展性がないような気もします。斎藤月岑とその関係者たちを調べて、能役者斎藤十郎兵衛説の根拠を調べるということも必要でしょうが、何か新しい事実が出て来るかどうか。
 三からは、蔦屋重三郎説、十返舎一九説、蔦屋工房の複数絵師説などが生まれています。榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」は、蔦屋重三郎論の先駆的研究で、読み応えがありますが、蔦重が写楽であるという立証はできませんでした。しかし、寛政の改革が始まってからの蔦重の動向についてはもっと調査しなければならないと思います。写楽という人物の来歴を知っていた最も重要な人物は蔦重であったことは絶対に間違いないからです。
 蔦重は寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で幕府から財産半減という処罰を受けたあと、経営上の危機に直面します。幕府の出版取締りで売れっ子作家が次々といなくなった上に、頼みの綱だった京伝の洒落本まで販売できなくなります。浮世絵では歌麿の美人画に望みを託しますが、それも寛永5年までで、その後、歌麿の離反もあり、この頃の蔦重は、死ぬほど悩んだのではないかと思います。しかし、蔦重は、聡明で発想も豊か、頭の切り替えも早い人物です。これは、ちらっと私の頭の片隅に浮かぶことなのですが、寛政6年前後に蔦重は京都大坂へ旅に行ったのではないか、そして、そこで役者絵を描いていた特異な才能を見つけ、のちに彼を江戸に呼んだのではないか。どうも私は、写楽が上方とつながりがあったような気がしてならないのです。写楽別人説には、上方の絵師の流光斎如圭だとする説があります。また、上方で活躍して江戸に下った沢村宗十郎や瀬川菊之丞との関係を重視する見方もあります。二人の絵をたくさん描いているからです。
 写楽の役者絵を見ていると、どうも江戸前ではないような感じがします。描き方が、エゲツナイのです。しゃれっ気もありません。春英や豊国や国政の大首絵と比べてみると、私なんかはこの三人の絵も大変好きなのですが(写楽がダントツに素晴らしいとは思いません)、なんか違う印象を受けます。
 四からは、池田満寿夫氏の中村此蔵説、歌舞伎研究者の渡辺保氏の狂言作者篠田金治説があります。どちらも根拠薄弱で、納得できませんが、ほとんど役者絵を描くことに終始した写楽が歌舞伎役者や関係者と深いつながりがあったという説は、もっと突き詰めてみなければならないと思っています。歌舞伎堂艶鏡=中村重助説に私は興味を覚えます。落合直成という人が大正時代に立証したとされていますが、その根拠を調べてみたい。また、以前に書きましたが、大谷鬼次が東洲という俳号で、中村助五郎が魚楽という俳号だったことも何かのヒントで、もっと調べると、東洲斎写楽という名前の謎が解けるかもしれない、と思っています。先日、榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」を読んでいたら、歌舞伎研究家の伊原青々園がそれを指摘していたことを知りました。写楽は、鬼次や助五郎と親しくしていたのではないかという意見です。

 この一ヶ月、写楽についていろいろな本を読んできましたが、現在私が興味を持っているのは、三と四からの捜索で、蔦屋重三郎と彼の周辺にいた絵師や作者たち、そして、歌舞伎役者と狂言作者たちの寛政6年前後の動向です。
 それと、写楽については、ゼロから出発した方が良いのではないかという気がしています。
 最近思うのですが、写楽は、「しゃらく」と読むのかどうかも分からないわけです。もしかすると、本人は「しゃがく」と読むつもりだったのかもしれません。写楽は、自分の画号「東洲齋寫樂」(落款通り旧字にしておきます)にだけは、非常にこだわっていたと思います。デビュー時から、斎号(一家を成した人物が使うもので、武家出身の本画師の使用例が多い)をつけ、五字で画数の多い、彫師泣かせの名前です。第一期・第二期の役者絵では、この画号を窮屈そうな余白に必ず入れています。時には二行にしても書き込んでいます。
 写楽は、その来歴をわざと隠したという見方も本当なのかなあと私は思っています。謎の絵師写楽が一人歩きして、後世の研究者が謎をふくらませすぎるようなきらいがあるのではないでしょうか。来歴、本名、生歿年など、写楽と同時代に活躍した浮世絵師の中にも、人物像がまったく分からない絵師がたくさんいます。喜多川歌麿だって、不明なことだらけなのです。栄松斎長喜も作画期が長いわりに、実像はまったくつかめていません。短期間で消えた絵師には、歌舞伎堂艶鏡、勝川春艶という謎の絵師もいます。まあ、写楽とは創作力と絵の素晴らしさの点で比較にはなりませんが……。
 浮世絵師というのは、町の絵描きで、職人の一種ですから、社会的身分も評価も低く、その絵を買って楽しむ庶民も、絵に描かれた人物や情景には興味を覚えても、絵師という人間に対してはにはほとんど関心がなかったのではないでしょうか。役者絵でいえば、描かれた役者にはものすごい興味を示しても、絵師にはその興味の10分の1もなかったように思います。ブロマイドを買って、スターの顔や姿に関心があっても、撮影者に関心がないとの同様です。
 絵師の本名、出身地、生家のことなどはどうでもよく、また第三者(たとえば戯作者)がそれを本人から聞いてどこかに書いておこうとすることもなかった、ということだと思います。要するに、作品がすべてで、売れるかどうかが勝負でした。江戸時代には、近代の個人主義といった観念はありません。独創性を重視する芸術家という意識もありません。人の絵を真似ても平気だったと思います。今で言う「パクリ」が平然と行われていたようです。ただし、浮世絵は職人芸ですから、同じ絵がそう簡単にできるわけではありません。
 写楽の絵は確かに独特ですが、近代美術の観点からそれを特別扱いするのは、問題があるような気がします。美術史研究者たちの写楽論は、読んでいて面白くありません。
 画家や詩人や小説家の写楽論の方がずっと面白く、写楽絵の愛好者(変わった人が多いようです)の写楽論も興味深いものがあります。