この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『空のない街』/第六話

2017-06-14 22:33:05 | 空のない街
 刑事たちの夜中の訪問のあと、ジョシュアの元に再び平穏な日常が訪れた。
 日常が、自らの心の裡を隠し、仮面を被って暮らすことを意味すれば、だが。
 手がかりは途切れた。落胆はしたが、ジョシュアは諦めるつもりはなかった。この世のどこかにあの灰色のオーバーコートの男がいる限り、諦めるつもりなど毛頭なかった。
 時間を見つけてはジョシュアは駅や公園に出かけ、電話を掛けた。相手が出てもこちらからは名乗らない。声のトーンは落とし気味に、時には世間話をするように、そして時には脅迫めいた口ぶりで。
「やあ、ディルフォードさん。先日の件、考えてくれました?おっと、切らないで!切らない方が貴方の為だと思いますよ。お金?いえ、お金なんかじゃあないんです。ある男を捜していましてね。そうです、あなたと同じ趣味を持つご同輩ですよ。その男の特徴は…」
「ジョセフ・クレインズさん?どうも初めまして。いえいえ、悪戯じゃありませんから。実はですね、こちらに名簿があるんですよ、ある会員制クラブの。心当たりはありますか?意外ですねぇ、ご存知なんですか、顧客の方々は弁護士である貴方がこんなクラブに名を連ねていることを…」
「ノートンさん、そんな聞き分けのないことはおっしゃらないでください。貴方がそういった態度に出られるならば、我々もいろいろ考えなければいけないじゃないですか…」
 狭い世界のはずだった。人としてのプライドを半ば以上捨てた彼らであれば、赤の他人を庇うとは思えなかった。
 いつかは必ずあの男の情報が自分の仕掛けた網に引っかかるはずだと、ジョシュアは信じていた。諦めるつもりという選択肢は彼にはなかった。
 ジョシュアはただひたすら電話を掛け続けた。
 それでも男の行方は杳として知れなかった。
 日常が過ぎていった。
 その日常の中で、ジョシュアはよく笑い、そして時に泣いた。けれど本当に楽しいと思うこともなければ、また悲しいと思うこともなかった。
 周りにいる人間が楽しそうにしていれば、それに合わせて笑顔を浮かべ、ここは悲しむべき状況であると判断すれば、大粒の涙を流してみせた。それは彼にとって造作もないことだった。
 自分の中のそういった感情を司る部位はあの日、エミリーとともに死んでしまったのたと少年は思っていた。
 ただ一つの例外は、あの男のことを考えている時であり、その時だけは少年は胸の奥深くに触れることがかなわぬほど熱いドロリとした何かを感じることが出来た。だからこそ彼にとって男のことを考えるときだけが生きているということを実感できるのであった。

 初秋のある日、ジョシュアは救護院の院長であるシスター・テレジアに呼ばれた。
 ジョシュアは救護院の大人たちの中でも院長が一番苦手だった。
 シスター・テレジアの穏やかな笑みは、まるで全てを見通しているのような気がした。無論それは錯覚に過ぎない。もしジョシュアの手についている汚れた血が見えるのであれば、何事もなく彼を一人の人間として扱うことはないはずだからだ。
「院長先生、ジョシュアです。入ります」
 そう言って院長室に入った彼は先客を認めた。窓のそばに一人の少女が立っていた。年の頃はジョシュアと同じか、一つ上ぐらいだろうか。着ているものを見ただけでいわゆるいいところの出であることがわかる。ただ上流階級の年頃の子女であれば腰まで髪を長く伸ばしているのが常で、その少女の髪が肩までしかないことにジョシュアは少しだけ違和感を覚えた。
「今日来てもらったのは他でもありません。来月始めに行われるバザーのことです」
 院長の台詞に、もうそんな時期か、とジョシュアは内心つぶやいた。彼が暮らす救護院では毎年春と秋の二回、チャリティのバザーが開かれる。そこでは救護院特製のクッキーや、子供たちの手作りの工芸品も売りに出されるが、実際商品として主となるものは近在の資産家や名家からの寄付によって賄われる。そのためのまとめ役が必要であり、救護院と住人たちから一名ずつ選ばれる。まとめ役といえば聞こえはいいが、実際には各々の家を頭を下げて回る損な役 回りだった。特に救護院側のまとめ役は苦労も多いと聞く。
「住民たちの代表のマクマーナンさんよ、ジョシュア」
 シスター・テレジアがジョシュアに少女を紹介した。
「アティルディア・マクマーナンです。ティルダと呼んでください」
 少女が握手を求め、ジョシュアに右手を差し出した。
 まとめ役を断ってはいけないという決まりがあるわけではなかったが、自分に回ってきた苦役を他人に押し付ける気にはなれなかった。ジョシュアは穏やかな笑みを浮かべて、ティルダの手を握り返した。
「ジョシュア・リーヴェといいます。よろしく、ティルダ」
 正直に言えばジョシュアはいわゆる上流階級の人間は好きではなかった。資産家の婦人や令嬢がボランティアと称し、週に一度、もしくは月に一度、救護院にやってきて子供たちの面倒を見ることがある。
 けれど彼らがやっていることは、動物の世話でいえば、エサやりや散歩だけで、フンの後始末や小屋の掃除といった汚れ仕事には決して手を出そうとしない。
 それでも救護院が財政的には決して豊かではなく、そういった人々の寄付で成り立っていることも事実であるということを十分に承知していたので、ジョシュアが彼らの前で笑みを絶やすことはなかった。ティルダもその一人なのだろうと彼は思った。
 このときの会合はごく短時間に終わった。
 ティルダが帰る段になって、玄関先まで見送りに出たジョシュアたちは迎えの車が来ていないことに気づいた。不審に思ったジョシュアがそのことを問うと、彼女は歩いてきたのだから車がないのは当然だと平気な顔で言った。夕刻も迫り、救護院からティルダの家までは歩いて三十分以上掛かる距離だった。ティルダは固辞したが、結局ジョシュアが送ることとなった。
 道すがら、ティルダがジョシュアに話し掛けてきた。
「私のアティルディアっていう名前、おばあ様に付けていただいたの。面白い由来があるのよ。ねぇ、聞きたい?」
 いや、別に、そう答えるジョシュアに構わず、ティルダは話を続けた。
「アティルディアっていう名前は、おとぎ話に出てくる登場人物の名前なんだけど…」
 ティルダはジョシュアの方を向いてから、少しだけすねたような表情を浮かべた。
「でもそのおとぎ話に出てくるアティルディアは意地悪な魔女なの。ひどいと思わない?可愛い孫に、魔女の名前を付けるなんて!」
 ティルダは道端の小石をつま先で軽く蹴った。
 だがそんな不機嫌そうな仕草もほんの一瞬で、でもいいの、この名前、気にいってるから!と少女は言った。
 ティルダの変わり身の早さにあっけに取られたジョシュアだったが、思わずくすっと笑ってしまった。
 そんなジョシュアを見て、ティルダは不思議そうに、私、何かおかしなこと言った?と聞いた。
 いや、何でもないよ、そう答えながら、ジョシュアは自分の中の、ずっと張り詰めていた何かが溶けていくようなそんな不思議な気分になった。
 初めは鬱陶しくさえ思っていたジョシュアだったが、いつしか少女の話に耳を傾けるようになっていた。
 マクマーナン家は代々医者を輩出してきた家系であること、彼女の父親や、叔父、亡くなった母親もまた医者であること、彼女自身もその意思を継いで将来は医者を目指していること、貧しい国々の恵まれない人々に奉仕することが彼女の希望であること、ティルダは初対面であるにもかかわらず、目を輝かせながら、少年に語って聞かせた。
「ねぇ、ジョシュアは将来何になりたいの?」
 ティルダにそう問われ、ジョシュアは戸惑った。そんなことは考えたこともなかった。
「別に…。将来なりたいものなんて、ないよ」
 そう彼が答えるとティルダは怒ったように言った。
「だめよ、ジョシュア。生きるっていうことは、単に生きているだけじゃだめなの。パパが言ってたわ。明日はこうしたいっていう希望を持ち、将来はこうありたいと夢を抱いて、それが叶うように努力することが生きるということだって。私もそう思う。夢や希望がなければ、死んでいるのと一緒よ。そうでしょ、ジョシュア?」
 少女のきつい口調にジョシュアは苦笑しながら頷いた。
「うん、そうだね。きっとそうだ」
「そうよ。世の中見回しても暗い話題ばかりだわ。せめて自分の体の中に、無限の可能性があるんだって信じなくっちゃ、つまらないじゃない」
 そう言ってはにかむと、ティルダは競走よ!と叫んで駆け出した。慌ててジョシュアもその後を追う。まるで彼が追いかけてくることを信じて疑っていないように、少女はジョシュアの方を振り返ろうともしない。
 ジョシュアももちろん足が遅い方ではなかったが、気を抜けば置いていかれそうなほど少女の足は速く、少年はスピードを上げた。久しく本気で走っていなかったせいか、いつになく心臓の鼓動が激しくなり、少年はそれを無視した。
 この少女なら、きっとどこまでも遠くに行けるのだろう、風を切って走りながら、ジョシュアはそう思った。



                              *『空のない街』/第七話 に続く
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