「ジョシュア君といったかな。話というのは、ティルダのことかね」
アルバート・マクマーナンは、穏やかな表情を浮かべて言った。
まるで医者が患者に接するときのような落ち着いた口調だとジョシュアは思った。実際に彼は医者なのだからまさにその通りなのだろう。
「いえ、彼女のことではありません」
ジョシュアは、ゆっくりと小さく首を横に振った。
彼が通されたのは屋敷の二階にあるアルバートの書斎だった。壁に据え付けられた書棚にはびっしりと医学の専門書が並べられ、それらは荘厳な雰囲気さえ醸し出していた。
ジョシュアには現実とは思えなかった。灰色のオーバーコートの男とこうして二人きりでいるということが。
彼は不思議でならなかった。目の前にいるこの男は、なぜこうも善人ぶっていられるのだろう。自らが犯した罪を、すべて忘れてしまったとでもいうのか。それとも間違っているのは自分の方で、あの日起こったことはすべて夢であり、灰色のオーバーコートの男も、エミリーが死んだことも本当は自分が作り出した幻想だとでもいうのか。
いや、違う。そんなわけがない。
ジョシュアはもう一度かぶりを振った。今度は少しだけ大きく、アルバートにもわかるようにはっきりと。
「お話したいことというのは、妹のエミリーのことです」
ジョシュアは、少しだけ後悔していた。武器になるようなものを何も持ってきていなかったのだ。まさか友人の誕生パーティに招かれ、そこで、仇敵に出くわすなどと思ってもみなかったのだ。視線を走らせ、部屋の中に何かないか物色する。マホガニーのデスクの上に銀製のレターナイフがあった。
「妹さんがどうかされたのかね」
アルバートが、なおも変わらぬ口調で少年に尋ねた。カルテでも作るときのように。
ジョシュアは考え込むような素振りを見せながら、ゆっくりとした足取りでデスクへと近づいた。医師に背中を見せたまま、レターナイフへと手を伸ばし、袖の中に滑り込ませる。本来殺傷能力を持つものではないが、使い方さえ間違わなければ、十分目的は達せられるだろう。
「妹は死にました」
ジョシュアはアルバートに向き合うと相手の目を正面から見据えて言った。少年の言葉に医師はわずかに表情を曇らせた。
「そ、そうかね、それはお気の毒に…」
「殺されたんです、エミリーは」
ジョシュアは畳みかけるように言葉を続けた。相手の表情の変化を一切見逃すまいと視線を固定したままで。
「二年前のことです。その時僕も半死の目に合いました。何か心当たりはありませんか?」
ジョシュアがアルバートの方へ一歩近づいた。今では医師の顔に明らかに動揺が見て取れた。自白したも同じだと少年は思った。
「あ、あの時の、少年が、君なのか?」
その一言によって、ジョシュアの心の中で、アルバート・マクマーナンに対する死刑執行の命令書にサインがされた。
「そうです、思い出しましたか!?」
そう言いながらジョシュアは鋭く一歩踏み出し、レターナイフをヒュッと横に薙いだ。首筋から鮮血が滲み、アルバートはウッと呻いてそれを手で押さえた。
しまった、ジョシュアは小さく舌打ちした。根元から首をかっ切ってやるつもりだったのに、使い慣れない道具のせいか手元が狂ってしまった。
よろめいたアルバートが扉を背にした。
このまま書斎の外に出られたら面倒なことになるとジョシュアは一瞬思ったが、同時に、構うものかという気にもなった。その時は追いかけていって背中から心臓にナイフを突き立てるまでだ。
「ま、待ちなさい、話を、話を聞きなさい…」
相手の言葉などもうまともには聞いていなかった。今更何の話があるというのか、ジョシュアは内心せせら笑った。
レターナイフを両手にしっかりと持ち直し、腰を落とし、ヒュウと息を深く吸い込みながら、ジョシュアは体重を預けるようにアルバートへとぶつかっていった。ズヒュという確かな手応えを感じた。
少年は目を閉じて、ゆっくりと大きく息を吐き出し、そして天を仰いだ。
これで、ようやくすべてが終わった…。
「気が、済んだかね?」
アルバートはまるで何事もなかったかのような口調で言った。胸にはレターナイフを生やしたまま、顔には穏やかな笑みさえ浮かべて。
「人は、他人を傷つけることでは、自らを癒すことは決して出来ないのだよ」
医師の言葉はあくまで落ち着いていて、静かなものだった。
ジョシュアはその静かな迫力に気押されて、思わず後ずさった。
「いいかね、ジョシュア、よく聞きなさい。まずそこの洗面台で手を洗い、そして…、そして、ハンカチは持ってきているね?そう、持ってきたハンカチで手を拭きなさい。それから、一階に下りて、何もなかったように、み、みんなと話をして…。いいね、すぐに帰ってはいけない…。パーティが終わるまで、最後まで残っているんだ…。そうだ、服は…、よ、よかった、汚れて、いないようだ…」
そして医師は少年が自分の言葉に従ったのを確かめると、震える手で扉を指し示した。
「行きなさい…」
アルバートは半ばジョシュアを押し出すように、けれどその体には決して触れぬように細心の注意を払い、書斎から追い出した。
ジョシュアの背後で扉が閉まるとガチャリと中から鍵が掛けられる音がした。
階下のパーティ会場に戻ったジョシュアに、ティルダが無邪気に、もしくはそれを装って話し掛けてきた。
「ねぇ、パパとは何の話だったの?」
「いや、何でもないよ…」
ジョシュアはぎこちなく笑みを浮かべると、そう答えた。それから十分ぐらいの間、ジョシュアは上の空でティルダの話に適当に相づちを打ち、うなずいたりしてみせた。
突然バーンと何かが破裂するような音がした。一瞬パーティ会場は静まり返ったが、誰かが特大のクラッカーでも鳴らしたのだろうと、すぐに人々は喧騒を取り戻した。
破裂音が何だったのか、その正体を正確に理解したのは、パーティ会場でおそらくジョシュアただ一人だった。
*『空のない街』/第十話 に続く
アルバート・マクマーナンは、穏やかな表情を浮かべて言った。
まるで医者が患者に接するときのような落ち着いた口調だとジョシュアは思った。実際に彼は医者なのだからまさにその通りなのだろう。
「いえ、彼女のことではありません」
ジョシュアは、ゆっくりと小さく首を横に振った。
彼が通されたのは屋敷の二階にあるアルバートの書斎だった。壁に据え付けられた書棚にはびっしりと医学の専門書が並べられ、それらは荘厳な雰囲気さえ醸し出していた。
ジョシュアには現実とは思えなかった。灰色のオーバーコートの男とこうして二人きりでいるということが。
彼は不思議でならなかった。目の前にいるこの男は、なぜこうも善人ぶっていられるのだろう。自らが犯した罪を、すべて忘れてしまったとでもいうのか。それとも間違っているのは自分の方で、あの日起こったことはすべて夢であり、灰色のオーバーコートの男も、エミリーが死んだことも本当は自分が作り出した幻想だとでもいうのか。
いや、違う。そんなわけがない。
ジョシュアはもう一度かぶりを振った。今度は少しだけ大きく、アルバートにもわかるようにはっきりと。
「お話したいことというのは、妹のエミリーのことです」
ジョシュアは、少しだけ後悔していた。武器になるようなものを何も持ってきていなかったのだ。まさか友人の誕生パーティに招かれ、そこで、仇敵に出くわすなどと思ってもみなかったのだ。視線を走らせ、部屋の中に何かないか物色する。マホガニーのデスクの上に銀製のレターナイフがあった。
「妹さんがどうかされたのかね」
アルバートが、なおも変わらぬ口調で少年に尋ねた。カルテでも作るときのように。
ジョシュアは考え込むような素振りを見せながら、ゆっくりとした足取りでデスクへと近づいた。医師に背中を見せたまま、レターナイフへと手を伸ばし、袖の中に滑り込ませる。本来殺傷能力を持つものではないが、使い方さえ間違わなければ、十分目的は達せられるだろう。
「妹は死にました」
ジョシュアはアルバートに向き合うと相手の目を正面から見据えて言った。少年の言葉に医師はわずかに表情を曇らせた。
「そ、そうかね、それはお気の毒に…」
「殺されたんです、エミリーは」
ジョシュアは畳みかけるように言葉を続けた。相手の表情の変化を一切見逃すまいと視線を固定したままで。
「二年前のことです。その時僕も半死の目に合いました。何か心当たりはありませんか?」
ジョシュアがアルバートの方へ一歩近づいた。今では医師の顔に明らかに動揺が見て取れた。自白したも同じだと少年は思った。
「あ、あの時の、少年が、君なのか?」
その一言によって、ジョシュアの心の中で、アルバート・マクマーナンに対する死刑執行の命令書にサインがされた。
「そうです、思い出しましたか!?」
そう言いながらジョシュアは鋭く一歩踏み出し、レターナイフをヒュッと横に薙いだ。首筋から鮮血が滲み、アルバートはウッと呻いてそれを手で押さえた。
しまった、ジョシュアは小さく舌打ちした。根元から首をかっ切ってやるつもりだったのに、使い慣れない道具のせいか手元が狂ってしまった。
よろめいたアルバートが扉を背にした。
このまま書斎の外に出られたら面倒なことになるとジョシュアは一瞬思ったが、同時に、構うものかという気にもなった。その時は追いかけていって背中から心臓にナイフを突き立てるまでだ。
「ま、待ちなさい、話を、話を聞きなさい…」
相手の言葉などもうまともには聞いていなかった。今更何の話があるというのか、ジョシュアは内心せせら笑った。
レターナイフを両手にしっかりと持ち直し、腰を落とし、ヒュウと息を深く吸い込みながら、ジョシュアは体重を預けるようにアルバートへとぶつかっていった。ズヒュという確かな手応えを感じた。
少年は目を閉じて、ゆっくりと大きく息を吐き出し、そして天を仰いだ。
これで、ようやくすべてが終わった…。
「気が、済んだかね?」
アルバートはまるで何事もなかったかのような口調で言った。胸にはレターナイフを生やしたまま、顔には穏やかな笑みさえ浮かべて。
「人は、他人を傷つけることでは、自らを癒すことは決して出来ないのだよ」
医師の言葉はあくまで落ち着いていて、静かなものだった。
ジョシュアはその静かな迫力に気押されて、思わず後ずさった。
「いいかね、ジョシュア、よく聞きなさい。まずそこの洗面台で手を洗い、そして…、そして、ハンカチは持ってきているね?そう、持ってきたハンカチで手を拭きなさい。それから、一階に下りて、何もなかったように、み、みんなと話をして…。いいね、すぐに帰ってはいけない…。パーティが終わるまで、最後まで残っているんだ…。そうだ、服は…、よ、よかった、汚れて、いないようだ…」
そして医師は少年が自分の言葉に従ったのを確かめると、震える手で扉を指し示した。
「行きなさい…」
アルバートは半ばジョシュアを押し出すように、けれどその体には決して触れぬように細心の注意を払い、書斎から追い出した。
ジョシュアの背後で扉が閉まるとガチャリと中から鍵が掛けられる音がした。
階下のパーティ会場に戻ったジョシュアに、ティルダが無邪気に、もしくはそれを装って話し掛けてきた。
「ねぇ、パパとは何の話だったの?」
「いや、何でもないよ…」
ジョシュアはぎこちなく笑みを浮かべると、そう答えた。それから十分ぐらいの間、ジョシュアは上の空でティルダの話に適当に相づちを打ち、うなずいたりしてみせた。
突然バーンと何かが破裂するような音がした。一瞬パーティ会場は静まり返ったが、誰かが特大のクラッカーでも鳴らしたのだろうと、すぐに人々は喧騒を取り戻した。
破裂音が何だったのか、その正体を正確に理解したのは、パーティ会場でおそらくジョシュアただ一人だった。
*『空のない街』/第十話 に続く
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