焼肉 千山閣

特選和牛を使った本格朝鮮料理
ご家族で楽しめる焼肉屋です
鶴岡にお越しの際は、ぜひ一度「千山閣」へお越しください

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講演したときのお話です。

2012年12月18日 | ママのおしゃべり

            

皆様、おはようございます。

朝早くから、こんな私のお話を聞いてくださるなんて、申し訳ございません。

こんなに偉い人達の前で、話すなんてお恥かしいことなんですけど、聞いてください。

始めに、自己紹介させていただきます。

私は67才の大井俊子です。焼肉千山閣のママです。

私の3年前を知る人は、なんかママ変わったの!と、思ってくれるでしょう。

口の手術をしても、まだ空気がもれて、言葉が聞きづらいと思いますが、我慢して聞いてください。

 

つらいことが多くて「なんで私がこんな目にあわなければいけないのか」苦しみました。

私は、昭和20年終戦の年の5月に、中国の満州で6人姉妹の5女として生まれました。

生後3ヶ月の時、ロシアの最後の空襲にあって、左の耳が聞こえなくなりました。

そのため言葉が聞きとりにくく、小さい頃は、うまく話せませんでした。

小学校の入学も、ろうあ学校から入学通知がきました。

母が市役所に何度も頼んで、やっと鶴岡第3小学校に入学することが出来ました。

しかし入学してからも耳もよく聞こえず、言葉がうまく話せないため、いつも「アッタッター!アッタッター!つんぼ!」と、

いじめられ、泣きながら帰って来る私に母は「勉強で勝て!負けるな!勉強で勝て!」と言われ、

私は勉強はもちろんの事、スポーツもがんばりました。

貧乏な家庭に育ったため、お姉さん達は、誰も高校に入ることが出来ませんでした。

それでも私は「どうしても高校に入りたい!アルバイトするからお願い!」そして鶴岡北高等学校に入学しました。

好きなバレーボールと陸上の部活もやめました。

毎日、学校が終わるとすぐ、昭和通りにあった「キッチンナカムラ」に、夜の8時まで皿洗いで働き、

そのあとすぐに、川端通りにあった「都寿司」に深夜12じまでアルバイトしました。

雨の日もカッパを着て、重いおかもちを片手にぶら下げて、自転車に乗って、よく出前もしました。

1日に2ヵ所アルバイトをして、3年間やり通しました。

授業料、生活費なども自分で出して、卒業することが出来ました。

テスト勉強も朝4時に起きて、よく自分でもがんばったと思います。

高校を卒業して、羽田空港に就職することができました。

3年たった12月のことです。急に頭と耳が痛み、救急車を呼べば良かったのに、夜の汽車に乗って8時間かかって

鶴岡に帰ってきました。

荘内病院に行くと、すぐ裸にされ、背骨から太い注射器で水を取りました。その水がにごっていたのです。

脳膜炎寸前だったのです。

すぐ長ーい長ーい手術をしました。そして診断は「急性中耳炎」でした。

小学生の頃から、いつも左の耳から露がたれていました。

貧乏で医者に行けなかったので、毎日母のヒザに寝て、オキシフルで治療してもらっていたのです。

それが奥の方まで、長い間に悪化してたのです。

手術が終わってみた顔は、みにくい顔になっていました。

目と口と耳の神経の束を切られていまったのです。

左の目は開けっ放しで、左のみみの神経を切られ、左の顔が全部たれ下がって、口は曲がったままで、

あまりにもみにくい顔になってしまいました。その日から毎日毎日泣いていました。

笑うとギューと曲がるので、笑うことも出来ません。

食べたものがダラダラこぼれるから、恥ずかしくて人の前で食べることも出来ませんでした。

退院してから「日本航空」の会社には、辞表を出しました。

治療を続けるために、仕事は毎日注射ができる、荘内病院の売店に務めました。

忘れもしません、23才の5月に、荘内病院に来ていた、若いインターンの先生が、新潟大学病院に帰る前、売店に来て私に言いました。

「あなたのは神経がマヒしたんじゃなくて、神経が切れたんだから、いくら毎日注射してたって無駄だよ!」と言われて、

目の前が真っ暗になりました。

家に帰ってから私は、一生この顔なんていやだー!いやだー!と、自分の首を両手でギューっと絞めました。

そのまま目が見えなくなり、意識もなくなりました。

次の朝、「どうして死ぬなー!なんで死ぬなー!死んでダメー!」と、助けられた母に抱かれながら、ワーワー泣きました。

首の内出血の跡は、しばらく取れませんでした。

はれぼったい目をしたまま、仕事をつづけ、ある日新潟大学に行った若い先生から、電話がきたのです。

「あなたのことを博士に話したら、診てあげよう!と、言ってくれたから、明日すぐ新潟に来なさい!」

次の日ボストンバック一つ持って入院しました。

一回の手術、二回の手術、三回の手術を受けました。

5カ月間毎日注射したために、神経が腐ってしまっていたのです。

腐った神経を引っ張るとポッキンポッキン切れてしまい、間が14センチも空いてしまいました。

私は研究材料になったらしく、車イスに乗せられ、先生たちがいっぱいいる講堂に連れていかれました。

「身体のどこかのケンを取って、14センチ離れたところに結ぼう!それを足首のケンにしょう!」

「先生!そしたら足はどうなりますか?」 「それは、ちょっとビッコになるけど」 

「それだったら私、曲がったままでいい!手術しないで鶴岡に帰るー!」と、言いました。

次の日、「首のケンを取ることにしたよ!」先生が言いました。

4回目の手術が終わって病室に帰ると、ベットに手と足も体もベルトで縛られ、痛い痛いの毎日でした。

退院の時に「左の目は失明するかもしれないけど、がんばるんだよ!」と言われ、3ヶ月で退院することが出来ました。

それからは毎月1回、新潟大学に行っては、麻酔もしないで、6センチの長い針を7本顔にさし、何人もの先生達がいる前で、

「ほら!目を閉じて!ほら!目を上げて!ほら!口を上げて!」ほらほら言われても、神経がないのに動くはずありません。

新潟から鶴岡に帰るときは、いつも顔中が青むらさき色になりました。

3年たったある日でした。自転車に乗りながら、口を動かしてみました。かすかに動くではありませんか。

急いで帰って母に「これー!見てー!動くー!これー!」

母と二人で抱きながら泣きました。「よかった!よかった!」

次の月にいつもどおりに、新潟大学に行き、いつもどおり先生達の前で、7本の針がをさされました。

「はい!もっと力入れて!」いつもどおり動きません。

「はい!今度は口だよ!がんばって思いっきり動かしてごらん!」

私は手をギューっと握り、口を動かしました。いきなり機械の針が、動き出したではありませんか。

「すごーいすごーい」と手を取って喜んでくれました。

「奇跡だー!14センチも離れているのに、すごい生命力だ!でも、あせってはダメだよ!

普通に動かせるまで、何十年もかかるんだからね!」と言われ、毎月の検査は行かなくてよくなりました。

「あなたのカルテは、一生大学に残ってるからね」と言われました。

それから私は努力しました。 首のケンがないから、左の手は上がりません。

プールを歩きながら、両手を上げるリハビリを自分で考えました。

1回、2回、3回もしたら、涙は出るし、脂汗は出る。苦しい苦しい訓練です。

そして左の口に筋肉をつけようと、車に乗った時は、ガムをかむことも考えました。

そのたびいつも口の中の肉をかんでは血だらけになりました。

こんな醜い顔だもの、結婚できないと思っていました。

でもお見合いして25才の時、結婚できたのです。

「東京で生活しないか? オレ将来、自分の店を出したいんだ!」その言葉にOKしました。

彼は三川の横山の人で、高校卒業してすぐ、新宿の千山閣に修行していたのです。

私が25才で、夫は27才で結婚生活が始まりました。二人の男の子と女の子が生まれました。

私の姉妹は嫁に行ってしまい、鶴岡では収入のない両親二人が、細々と暮らしていました。

私は夫に「おじいちゃんとおばあちゃんが、養老院さ入るって言ってるけど、私の親をみてくいねー!

私たちも鶴岡さ行って、お店を出さねー!」

「よし、そうしょうか!」と、夫は快く引き受けてくれました。

結婚して5年目で、鶴岡に帰ってきました。

5年間で400万貯めて、銀行から200万借りて、600万で、昭和50年、私が30才の時に、市役所の近くの、

赤いみゆき橋の近くに、千山閣をオープンすることが出来ました。

当時は夜中まで営業してる所が少なくて、昼から夜中2時まで営業していました。

有りがたいことに、お店は大繁盛でした。

ところが、駐車場がわりに使用していた川沿いが、駐車禁止区域になってしまいました。

これではダメだと思い、銀行から4000万借りて、昭和54年、私が34才の時、城南町にお店をオープンすることが出来たのです。

おかげさまで3年位は順調で、月に64万の返済ができたのですが、

オープンから4年後、鶴岡に2軒の「焼肉食べ放題」ができました。やはり売上が下がりました。

返済が大変になりました。銀行に返済を伸ばしてもらえるように頼みましたが、すぐに断られました。

仕入れの支払いも1カ月遅れになるし、従業員の給料は、3軒のサラ金から借りては支払い、苦しくなるばかりでした。

31才の時に新築したその家も売ろうとしました。

どうにか立て直したものの、今度は世界中の「狂牛病」のニュースで騒がれました。

日本では千葉県で死者も出ました。

全国の焼肉屋さんは、和牛をやめて輸入肉に変えていきました。売り上げが半分になりました。

一緒に働く長男は「お父さん!千山閣も輸入肉に変えよう!」と言っても、

「絶対オレは、輸入肉は使わね!」と、夫はガンコでした。待っても待ってもお客様は来ません。

そんな時、今でも焼肉屋をやってる人から、飲み屋さんに誘われました。

「マスター!オレさ千山閣やらせろ! マスターに給料払うからどげだ! 千山閣をオレさ売れ!

借金もオレが払うからどげだ! いい話だろ!」

私はいい話だと思いました。借金から離れられれば、どんなに楽になるでしょう。 住んでる家も売らなくても済むし。

それなのに夫は、はっきり断ったのです。

「オレは絶対売らね! どげ苦しってもオレの店だ! 売らね!」と断りました。

その後、どうしょうもならない時です。救いの手が差し伸べられたのです。

今まで1度も取引のなかった銀行の「梅津」さんと言う人が、千山閣に来てくれて

「ママ!千山閣の借金全部を貸してやるよ! 経営というものは、無理をしちゃダメだよ!無理をしないで返すもんだよ!

楽しみもなきゃダメだよ! 商いって、長ーくやることなんだよ!」その言葉は、神様のようでした。

 「梅津」さんの力添えで、残りの借金と、サラ金全部のお金を、貸していただくことが出来ました。

月64万の返済だったのが、利息も減り、月々の返済が28万に減りました。

営業時間が昼から夜中2時までしてたけど、その時から、土・日・祝日以外の平日は、夕方4時から10時までの営業に変えました。

営業時間14時間やってたのが、6時間に減りました。営業時間が減っても、ムダを少し省く努力をしたので、利益は変わりませんでした。

そのおかげで返済もでき、仕入れも給料もスムーズに払えるようになりました。

ゴルフを楽しむ余裕もできました。

経営が上向きになると、不動産からも、2店舗目の話をいただけるようになりました。

でも、ガンコな夫も息子も迷うことなく断りました。

お店が今は順調でも、どん底の期間が長かったから、夢のような話にはのりませんでした。

それよりも、今のお店の中に目を向け、大切にすることを選びました。

 

話は変わりますが、アルバイトの話をさせていただきます。

30年も前には、高校の先生たちが、「うちの生徒が学校に来なくなって、千山閣で働かしてきれませんか?」

あるときは、「シンナー吸っていて、退学になった生徒だけど、千山閣で働かしてくれないかなぁ」と、訪ねてくることがありました。

何十人来たでしょう。

いざお店で働いてみると、トイレから出てこなくて、後から見に行くと、トイレのタンクに、シンナーの入った袋が、

プカプカ浮いているではありませんか。

別の子は、お店を無断欠勤で休んだので、私が迎えに行くと、玄関に靴が7つあり、「2回に上がりまーす!」と、

声をかけて戸を明けました。するとたまり場になっていて、洗面器にはゲーゲー吐いたのがいくつもあり、

4人が雪の中2階の窓から飛び降りて逃げました。

残った3人に名前と住所を書かせても、全部嘘っぱちという事もありました。

それでも1人1人、面倒をみました。 

歩き方、身なり、大きい声を出すこと、人の目を見て話すこと、ウソをつかないこと、汗を流して鉄板も磨いてくれました。

1年、2年、3年と働き、社会に出ていきました。

千山閣から巣立って、いろいろな子がいました。自衛隊の幹部になった子、中学校の先生になった子もいます。

いいパパになってお正月やお盆に、奥さんや子供をつれて「ママと逢ってなかったら、オレやくざになってたやー!」と、合いに来てくれます。

その度に、「あぁー、私は幸せだー!何十人もの子たちが立派になって」と感じます。

こういう子もいます。3年間アルバイトした後、青森に行き、そして鶴岡に帰って来て自分で会社を作り、何年前か長者番付にのりました。

その子に合って「うれしいのー!すごいのー!」と伝えたら、

「ママがオレさ言った言葉を、苦しいとき思い出してたんだ!」 「私、なんて言ってたっけー!」

「オメは大丈夫だ!オメは大丈夫だ!と、何回も何回も言ってくれたっけー!だから、落ち込んだ時も、

オレ、大丈夫かも!と思って次々大きいこと出来たんだ!ママのおかげだ!」と、うれしいこと言ってくれました。

こんな事もありました。ズボンからパンツをベローと出して、髪を茶色に染めて、ピアスをぶら下げて、

その子が2年で素直になり社会に出て行ってからの事です。

ある日、東北でも大きい会社が、40人以上の宴会をしてくれました。その会社の社長さんが、お店に来てすぐ正坐をして手を畳につけ

「ありがとうございました!」と、私に頭を深々下げてくれました。

「どうしたの?社長!」

「オレの息子を更生してもらって、ありがとうございました!」 「エ!知らなかった!」

「ママのおかげだ!みんな聞いてくれ!このママから息子更生してもらったんだ!」と、握手してくれました。

今では、年に何度も宴会してくれます。みんな立派になって、今がとっても幸せです。

今、私がやってることは、うつ病で苦しんでいる方、12人とお話をする機会があります。

「ママー!」と電話が来ます。精一杯の声でかかってきます。

迎えに行くと暗い部屋のすみに座っています。気分転換に外出して、二人っきりになると、誰にも話せないことを全部はきだしてくれます。

4時間も5時間も、泣きながら話してくれます。それを泣きながら、ただ聞きます。 会う度によくなっていきます。

私は大学も出ていません。資格もありません。どうしてそんな余計なことをするのかと、思うかもしれませんが、

私の母が、一人住まいの人や、病気で悩んでいる人に、おやつを作って一緒に食べたりしていました。

貧乏だったのに、学校から帰るといつも「ワッハッハー、わっはっはー」と、いつも楽しくみんなが集まっていた家です。

私がそれを見て育ったからだと思います。

私の妹が3才の時、姉の自転車の後ろに乗って、倒れた時、運悪く石にぶつかって、

それっきり8年間寝たっきりの脳小児麻痺になりました。

でも母の明るさで乗り越え、困ってる人に手を差し伸べていました。

私は小さいときから、母親みたいな人になりたいと思っていました。

その気持ちが、今のわたしの行動につながっていると思います。

今、私が困っている人に手助けができるようになったのも、子供たち3人のおかげです。

おばあちゃんが先に亡くなり、おじいちゃんは93才でなくなりました。

お店の仕事をやっている長男は、夜中外に徘徊したり、夜中夢をみたのでしょうか?包丁を振り回すおじいちゃんを、

やさしく寝かせてくれました。

娘は当時、大型トラックに乗って、大阪まで米や肥料や材木を一人で運ぶ仕事をしていました。

私たちが店から帰る前に、オムツをいやがるおじいちゃんだったので、

下着を取り換えてくれ、洗濯して、干しておいてくれる、やさしい22才の娘でした。

下の息子が16才で、いつもおじいちゃんと一緒に留守番をしていて、お風呂に入れたり、話し相手をしてくれる、やさしい子でした。

3番目の16才の息子が、ある日店から帰ってきた私たちに「お父さんはどうしておじいちゃんを、やさしくしてやんねなやー!」と、

不満をぶつけた時がありました。

「おとうさん、やさしくしてやってるっちゃやー!おじいちゃんが垂れ流しでも、臭せー!臭せー!って言わねし、

釣りもよく連れて行ったし、なんでそんなこと言うなやー!」

「だってお母さんばっかり、おじいちゃんのことさせてー!」

「お父さんが一生懸命仕事してくいてっちゃやー!」 「生意気なー!」と、夫が16才の息子に向かっていきました。

身体の大きい息子からステーンと倒されてしまいました。

私は争ってる二人を見ていられず、外に飛び出しました。

帰ってきた長男が「お母さんは?」と、聞いたそうです。「二人取っ組み合いしてたら、外さ出て行った!」と話すと、

泣きながら歩いていた私を探し、抱っこして私を連れて行こうとしました。

「なにすんなー、おろしてー!もういいー!もういいー!もうどうなってもいいー!」私は息子の腕の中であばれました。

長男は「お母さんどうしてやー!なんでやー!お母さんせっかく今まで頑張ってきたなさー!これからいいくなんなさー!」

それでも玄関まで下しませんでした。

私は2階に上がって、布団の中で泣いていました。

下の息子が上がってきて「お母さんごめんなさーい!お母さんごめんなさーい!生意気なこと言ってごめんなさーい!」

それから部屋に降りて、みんなで今まで通り、力を合わせてやっていこう!と話し合いました。

次の日おじいちゃんをいつも通り抱っこして、プリンを口に入れてやると「俊子ありがとのー!」と、おじいちゃんの目に涙があふれていまし

た。 「どうしたなー!」と、私も涙があふれました。 「おじいちゃん店さ行ってくっからのー!」

2月12日祭日のことでした。夕方、下の息子からお店に電話で「お母さん!おじいちゃんの目、閉じていくー!」

ハッと思って、救急車を呼んで、おじいちゃんは救急車の中で、静かに目を閉じました。

「オレ、おじいちゃんが寂しいと思って、オレ布団から抱っこしてきたんだ!おじいちゃんと二人で、ソファーで笑ってテレビ見てたんだ!

オレ抱っこしなきゃよかったんだ!寝かしとけば、おじいちゃん死なねかったかもー!」と下の息子は泣き出しました。

「違うよ!おじいちゃん喜んでるよ!とおるありがとよ!って言ってるよ! 

おばあちゃんがソロソロ天国さおいで!って言って呼んだんだよ!」

本当に3人ともやさしい子に育ちました。おじいちゃん、おばあちゃんのおかげです。

 

こんどは、息子の話を聞いてください。 東京新宿の千山閣で修行してきた息子も、和牛のA5ランクの肉を半身仕入れて、

バリバリ仕込みもできるようになりました。

「息子から食器洗い機を入れよう!」と言われると「もったいない!アルバイトの仕事なくなるー!」と反対するけど、

入れたら1人の人件費が浮くことがわかりました。

又、息子から「社会保険にしょう!」と言われたけど「今までどおりでいいじゃん!払っていかれんろかー!」と反対したけど、

社会保険にしたら、スタッフの意識が変わり、自分たちの店のようにすごく成長することがわかりました。

そして3年前に夫婦で相談して、社長を38才の息子にゆずり、世代交代をしました。

今度は「無煙ロースターにかえよう!」と、社長になった息子が言いました。

「今のままでもお客様が来てくれるんだものいいじゃん!」と私は反対しました。

しかし社長は「オレみんなが帰ってから、鉄板を何十枚も磨いてんな、わかってんなだー!それが終わってから、肉の仕込みしてんな

わかってんなだー!夜中までかかって、店さ寝泊りしてんなわかってんなだかー? 無煙ロースターしねあんだば、

オレはこの店やめる! のたれ死にしてもいい!オレは1からやって、自分で店出す!」と言って、ゆずらず3日間お店に来ませんでした。

私たちも反省しました。「店を息子にまかせたのに、自分のやりたいようにさせればいい!失敗したっていいじゃないか!」と考えました。

4日目に「オレたちは口を出さないから、自分のやりたいようにやっていいから」と謝りました。

お金に困った時に育った子だもの、無茶なことはしないだろう、信用しょう。いつまでも出しゃばらないようにしょう!と、

私たちは気が付きました。今年で店も37年になりました。

 

今度は私のことをお話します。少し前から左の目が、ボヤンとしてきました。

45年前に、左の目は失明するよ!の言葉が忘れられずにいたので、思い切って、荘内病院の形成外科に行きました。

先生に、目を閉じらしてください!とお願いしました。

22才から45年間、左の目は閉じたことがありません。寝ててもパッチリ開けっぱなしで、起きると乾燥して目が痛いです。

手術をしてくれました。少しはすきまがあるけど、45年ぶりに目を閉じて寝ることが出来ました。

先生が「どうして45年間も、うったえなかったんですか?」と聞きました。「私、それ以上のものもらったもの」 

「何をもらったんですか?」 「痛みがわかったもの!」先生はしばらく声を出しませんでした。

「大井さん!口もなおしてあげましょう!」

死ぬまでこの顔のままだと思っていたのに、信じられませんでした。

「先生!私のカルテ、新潟大学病院に一生残ってるんだって!」

次の診察の時、先生は「大井さんのカルテが、大学病院にあったよ!大井さん!ぼくも頑張るから、大井さんもがんばろうね!」

それから4回手術をしました。今はみんなの前で食べても、こぼれなくなりました。

笑えば少し曲がるけど、これくらい平気です。「先生ありがとう!死ぬ前に自分の顔にもどれて幸せだー!

先生に合えてよかっった!」と言うと、先生が「大井さんよくがんばったね!」と言ってくれました。

荘内病院で手術が2回、新潟大学で4回、今の手術が4回、全部で10回の手術をしました。

形成外科の「工藤」先生に出会わなかったら、醜い顔のままでした。

普通にいられることが、こんなに幸せな事だと感じています。夢みたいです。

 

今度は最近の私の事をお話します。3年前に「大井さん、このパソコン使ったもんだけど、1万でゆずるよ!」と、

うどん市の「工藤」さんから譲っていただいた事がきっかけで、パソコンを初めて見ようと思いました。

それまで触ったこともありませんでした。

娘に言ったら「どうせやるんだったら、ちゃんと覚えた方がいいよ!エスモールのアスプで聞いたらいいよ!」と教えてくれました。

それから週に1回通い始めました。

ホームページや、ブログや、ハガキや、ポップやメニューや、いっぱい、いっぱい教えてもらいました。

フェイスブックもやって1年になります。

多くの若い方たちと出会い、多くの事を覚え、毎日が楽しいです。

これからも風評被害にあうかもしれません。

45年前は、私に今日のような幸せが来るとは、夢にも思いませんでした。

これからもすべての人に感謝することを忘れません。

そして一人でも多くの人に、勇気を与えていきたいと思います。

 

皆様、長い時間、ご清聴ありがとうございました。 

 

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