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梶原和義のブログです。

2011-06-04 19:54:20 | 日記
般苦心経に勝てないユダヤ思想

ヨハネの黙示録の四章を学ぶことは、積極的な意味での神と人との、基本的なテーマの勉強になるのです。消極的な面が抜けていると、積極的な基礎工作がなかなかできないのです。
般若心経の勉強は、消極的な基礎工作になるのです。般若心経の精神を十分に了承しないと、積極的な新約聖書の救いの完成が分かつても、ぐらつくに決まっているのです。キリスト教はそれで失敗したのです。私が般若心経をしきりに推薦する理由はそこにあるのです。別に般若心経にこだわっているのではありませんが、その利点を大いに活用したらいいのです。般若心経のような、人間否定の考えがしっかりしているものを勉強しなければ、新約聖書の原理は分かりません。
イエスは、汝ら悔い改めて福音を信ぜよと言っています。それが福音伝道の基本原理だと主張しているのです。汝らとはユダヤ人をさしています。ユダヤ人が約束の民ですから、ユダヤ人が悔い改めることが、全世界に対する約束成就の絶対条件になるのです。
信仰が不徹底な原因は、般若心経の確認ができていないということです。般若心経な所がありますが、この点を取り上げて、般若心経を軽んじることは間違っているのです。
般若心経は人間本意に考えていますから、聖書から見れば論理不完全に決まっています。聖書は神の知恵です。般若心経は人間の悟りです紗巧次元が違うのです。だから般若心経に欠陥があるのはあたりまえです。それを論うよりは、般若心経の長所を学ぶべきです。これを良く理解して頂きたいのです。
般若心経を持ち出すと、ユダヤ人が論う隙がなくなるのです。幸いにしてユダヤ人は般若心経を知りません。これは攻撃道具にはなりませんが盾になるのです。ユダヤ人は般若心経の盾を破ることができないのです。その意味で般若心経に習熟する必要があるのです。
仏教の坊さんも般若心経を口では唱えているけれど、マスターしている坊さんはいないのです。色即是空は分かります。日本人には親しみを持つ概念でもあるのです。諸行無常が分かる人は色即是空も分かります。これが日本文化の特徴です。
日本人は諸行無常が本当に分かっていませんが、親しみを感じている字句です。ヘーゲルが弁証法を述べる前に、日本ははるかに以前から、諸行無常と簡単に言っているのです。諸行無常は弁証法の原理になるのです。これが平家物語の冒頭に掲げられはもちろん完壁なものではありません。間違っている所もあります。論理的に不完全ています。これは日本文化の非常に力強い点です。こういう古典文学は世界中どこにもないでしょう。
今から千年も前に、こういう古典文学があったということは、驚くべきことです。インド文明を除けば、中国にさえもなかったのです。仏教は中国に伝搬しましたが、仏教の足跡は全く残っていません。儒教ばかり残っているのです。空のセンスが中国にはありません。だから中国人は非常に現世主義的です。日本にだけ現世を否認する空の思想があるということは、全く日本文化の特異性です。
神が日本に、本当の福音を与えようとしていることは、日本文化の特徴を踏まえての事です。日本文化を日本に与えたのは、神の処置なのです。千年前に、神は今日のことを想像しておられたのです。
聖書の言葉が、聖(ホーリー)であることが分からない。これがいけないのです。神が聖であるように、被造物全体も聖です。聖とは、人間の考えの外、驚くべき事を意味します。聖が分からないから、花を見ても、月を見ても、一向に感じないのです。ホーリーを感じないないからです。
日本文化は、月、雪、花に、ホーリーを感じるのです。これが風流という言葉の特徴です。芭蕉の俳句には、いつもホーリーがあったのです。俳という字が、ホーリーの原理を意味しているのです。人間を否定しているからです。教育をいくら受けてもだめです。文化性がない人は、教育が身につかないのです。
教育は専門学であって、部分学です。部分学は人間学とは違いますから、いくら学んでもだめです。生活の情報にはなりますけれど、学びではないのです。
学という言葉は、全体学の場合に使えるのです。存在そのもの、地球そのもの、人間そのものについての勉強がいるのです。
王朝時代には、学と言えば全体学に決まっていたのです。地球学であり、人間学であり、存在学だったのです。この学が人間の命に係わりがあるのです。専門学はいくら勉強しても、人間の命に何の関係もないのです。生活の面だけを学んでいるのです。
人間が方向を見失ったのは、全体学を学んでいないからです。だから人生全体を見失って、ぐらぐらしているのです。福音がぴたっと定着しない原因は、全体学的な思想がないからです。そういう意味での教養の薄さ、浅さがあるのです。もっと広範で深い教養を身につけなければいけないのです。
日本人には福音を学ぶ前提条件として、般若心経を与えられました。これは非常に有難い前提条件です。これが欧米人にはありません。ユダヤ人にもないのです。
いわゆる般若心経的文化、諸行無常的文化が、生活とかお茶の精神になっているのです。お茶の一期一会というのは、世界唯一でしょう。生活の中に一期一会をひっぱりこんでくるのは、すばらしいことです。神がなぜ日本で霊の目を開き始めたのか。神の処置の前提である日本文化をよく理解しておく必要があるのです。
色即是空はわりあいに分かりやすいのですが、空即是色が分からないのです。空なるものがなぜ色として現れたのか、これが分からないのです。故湯川博士は、物質がないことは論理的には分かっていました。現在では中学校でも教えていることです。物理運動があるのであって、物質がないということは、中学校でも習っています。ところが自分白身の生活概念にならないのです。
湯川博士は大学で物質がないと教えていながら、家へ帰ると物質があるような気持ちで生活している。私は恥ずかしいと雑誌で述べていました。その原因がどこにあるかを、湯川博士は知らなかったのです。
理論物理的な意味で物質の本体を捉えても、文化教養の概念として、その人の中に成熟していなかったらだめです。文化教養の概念は、その人の生活に定着するのが本来の目的です。教養とはそういうものです。歩き方です。座り方です。話し方です。
そういうものの中に芳しく存在しているのが、文化教養です。これがあるかないかで聖書の吸収力が全然違ってきます。命を吸収する力です。日本文化的な教養が自分の生活に浸透しているかどうかによって、非常に違うのです。
現在の女性は色気がなくなっています。王朝時代の女性には文化教養が何となく分かっていました。だから魅力があったのです。今の女性にはさっぱり魅力がありません。日本的な文化教養が身についていないからです。
物の言い方、しぐさ、食事のしかたが、全然教養的ではないのです。諸行無常の精神で食事をすると、食べ方が違ってくるのです。茶の心はその様に働くべきです。お茶をたてる時だけでなく、自分の家での立ち居振る舞い、キッチンで野菜を切っていても、その姿に茶の心が出ていなかったらいけないのです。これが女性の本当の色気です。日本の女性の色気は、そこにあるのです。これが日本人の良さなのです。
日本女性が持っている良さが、日本文化の教養で、これが知らず知らずのうちに、男性に染み込んでいるのです。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響ありという感覚は、日本人の宝でしたが、それが今なくなっているのです。ユダヤ化されてしまったからです。
専門学は生活の知恵です。その程度のものです。専門的な勉強しかしていない人が、日本の政治、経済、社会を指導しているのです。だから、日本は堕落するばかりです。
十分に勉強して頂きたいのは、般若心経の精神です。皆様の立ち居振る舞いに、空の感覚がでることです。そこまで勉強して頂きたいのです。心のあり方が、立ち居振る舞いに出てくるのです。これが女性の色気です。
そういう感覚で神を見るのです。諸行無常的感覚、空の感覚で神を見る。日本の風流には、そういう良さがあるのです。二刀流の剣道でも、お茶でも活花でも、柔道でも、風流の良さが出ているのです。
般若心経の心得は何かと言いますと、字句をいつでも煎じるような気持ちを持つのです。般若心経を自分の精神に叩きこんでいると、勝手に風格が出るのです。こういう人が、今の日本にほとんどいなくなったのは、残念です。
宗教ではない般若心経と聖書を勉強する人は、般若心経が常識にならなかったらいけないのです。
諸行無常ということから見れば、色即是空は分かりますが、空即是色が分からないのです。空がなぜ色になるのか。東洋文化の欠陥がこれです。空がなぜ色になっているのか、説明ができないのです。そのために、色が空であるという説明も不完全になってくるのです。
仏教の坊さんも、本当の無が分からないのです。なぜかと言いますと、有を知らないからです。有が分かって初めて、無が分かるのです。有が分からずに、いくら無と言ってもだめです。「有りて有る」ものが分からないものに、無や空が分かるはずがないのです。
欧米人やユダヤ人には、般若心経が盾になります。日本の仏教家には、有が盾になるのです。「有りて有る」ものを突き出すと、日本の仏教家は、皆降参せざるをえないのです。
実が分かっていう空は本当の空ですが、実が分からない空は、本当の空ではないのです。
東洋哲学には実体をもって迫ればいいのです。東洋哲学には実体がないからです。実がないのです。
西洋思想には空がありません。欧米人やユダヤ人には、空を突きつけるといいのです。東洋人には実を突きつけるのです。空と実を自由に使いこなさなければ、万国の預言者にはなれないのです。
人間は絶対という言葉が分かっているのです。日本人は天という言葉を知っています。天網恢々疎にして漏らさずと、中国の老子は言っています。天という言葉が絶対を意味するのであって、これに基づいて人間は生きているのです。
人間が生きていることの実体が天です。霊です。天や霊を実感する感覚を聖というのです。これがハギオスです。こういうことが分かっていないと聖書的な教養が命にならないのです。聖書的教養は自分の存在的教養になっていかなければならないのです。生きている姿が聖書的教養になることが本当の文化人です。
生きているということが絶対であって、この基本原理が、天であり聖です。私たち自身のリビング(living)というものは、ことごとくホーリー(holy)です。リビングのオールマナー(all maner)を聖なるものにせよと考えたらいけない。
リビングのオールマナーが聖なるものなのです。私たちが知らず知らずにお茶を飲んでいる。それが聖なるものです。それを自覚すればいいのです。リビングのオールマナーを、聖なるものにしなければならないと思うから、難しいのです。
女性の場合、聖なるものが色気になるのです。ホーリーが分かる女性でなければ、本当の色気はないのです。ホーリーが分かれば、自然の関係と不自然の関係が分かってきますし、セックスのどこが良くてどこが間違っているかが分かってくるのです。
人間の生活のマナーを清くしなければならないと思うから間違ってくるのです。人間のすべてのマナーは、人間の命から流れでているものですから、本来、本質的に聖なるものです。それを自覚すればいいのです。それを自覚するのが、本当の紳士であり淑女です。これが色気の本質です。それに対しては、神でも色気を感じるのです。教養というものはそういうものです。
神が色気を感じるような人間になるのです。すかっとした人間になるのです。そうすると成すことがすべて、聖になってくるのです。オール・マナー・オブ・リビングが、聖になるのです。
人間がこの世に生きていることは、驚くべき事実です。驚くべき事実は聖なるという意味です。驚かなければならないことが聖です。皆様は自分が生きていることを、あたりまえだと思っています。これが戦後教育の最も悪い点です。生きているのはあたりまえ、生まれてきたのはあたりまえ、毎年食糧ができるのはあたりまえ、魚がとれるのはあたりまえ、四季があるのはあたりまえと、何でもあたりまえにしているのです。生活に驚きがないのです。
常に喜べとは、驚きがあるから喜ぶのです。驚きがない人間は、常に喜ぶというパウロの言葉の意味が分かりません。すべてのことを感謝せよと言われてもできないのです。驚きがないからです。
これは本質的に文明の堕落が原因です。文明の堕落が原因だと文明に言ってもしかたがない。私たちが良くならなければ、文明を良くすることができないのです。現代文明でない命の本質、生きていることの驚きを自分の生活で実感できる人間になってもらいたいのです。本当の紳士、淑女になってほしいのです。
イエスの名を証する以上、世界一という自覚がなかったらだめです。イエスの名は世界一の名です。イエスの名が、自分自身の人格であると思えばいいのです。
とにかく般若心経を、よくよく理解することが、文化教養の基礎になるのです。そうして、肉体的に生きていることの虚しさを実感することです。肉体的行動の虚しさを実感するのです。
例えば、お茶を飲む時、それが肉体的行動であるとしますと、虚しいことになるのです。食事をすることが非常に虚しいことになるのです。しかし生きていることの虚しさがよく分かると、お茶を飲むことのマナーが、聖なるものになってくるのです。
肉的に生きていることの虚しさを味わうと、生活の行動がハギオスになってくるのです。生活のすべてのマナーを聖とするというのは、肉体的に生きている自分の虚しさを実感することです。これが色即是空です。五経皆空です。五経皆空が実感できると、初めてオールマナーを聖とすることができるのです。
聖書を裏打ちするものが般若心経です。般若心経の裏打ちなしに、新約聖書をいくら読んでもだめです。
聖なるということが分からないのです。自分自身が生きていることに虚しさを感じる時に、生かされていることの尊さが分かるのです。これが聖なるものです。自分が生きている状態ではだめです。これは五経皆空です。人間の思いは皆間違っているからです。
生きていることが業です。人間が肉体的に生きていることが、人間の業です。カルマです。肉体的に生きている人は、地獄行に決まっています。
ところが、肉体的な形で生かされているという事実があるのです。肉体的に生きているという事実があるのです。肉体的に生きている自分を捨ててしまうと、肉体的な状態で生かされているという条件が浮かび上がってくるのです。これが聖なる自分の霊魂です。イエスはこれを人の子と呼んでいます。
人間である自分は全く虚しいものですが、人の子である自分は尊いものです。聖なるものです。この見分けをして、人の子として生きる経験を絶対にしなければならないのです。
生きているのは、神の御座の前にいることです。神の前で生きているのです。信じようが信じまいが、神の御座の前にいます。そこには、水晶のような、ガラスのような海が広がっているのです。ここで皆様は生きているのです。皆様は、どうでもこうでも、万難を排して聖書の神髄を捉えていただかなければならないのです。頭でいくら分かってもだめです。自分のハートをしっかり捉えなければいけない。生活のマナーにならなかったらいけないのです。
自分の気持ちを自分で捨てるにはどうするのか。これは自分で実践してみないと分かりません。自分の気持ちを自分で捨てるのです。これができない人は、神を信じることはできません。
己を捨て、己が十字架を負いて我に従えというのが条件です。この条件を実行しなければ、イエスに従うことはできません。自分を捨てずに、分かった分かったと言って、イエスに従う格好だけをしている。これでは家庭生活に必ず矛盾があるのです。夫婦の意見が一致しないに決まっているのです。健康的にも悪い所があるに決まっているのです。そういう欠陥や欠点があるのは、神を生活していないからです。
自分で生活しているからいけないのです。自分が生きることをやめるのです。神に生かされる生き方をするのです。
「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった」(ヨハネの黙示録4・6)とあります。海とは何でしょうか。聖書にこの桑は移りて、海に入れとあります。人を躓かせる者は、首にひき臼をつけられて、海に放りこんだらいいとあります。黄泉と海が死人を出したとあります。
聖書に書かれていることは、神が人間に語っている事ではありません。キリスト教はこれを全然理解していないのです。皆様は人間でありすぎるので、聖書が全然分からないのです。
聖書は人間に宛てた文書ではありません。聖書が開かれるためには、自分自身が聖書の受け取り人になって読まないからです。聖書は魂に宛てて書いたものです。読む人も魂にならなければ受け取れないのです。神は生かすべきものを生かしているのです。肉の人間が生かしているのではない。他のものを生かしているのです。
神の命に生きようと思ったら、神が何を生かしているかを、よく考えなければいけないのです。神が生かしているその当体になればいいのです。自分の信仰が足らないとか、教養がないかを問題にしなくてもいい。神の宛矢になったらいいのです。信じるとい言葉は便利なものであって、信じればそうなるのです。信じたらいいのです。資格があろうがなかろうが、学があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。宛名人になったらいいのです。神が何を生かそうとしているのか。生かされている当体になればいいのです。
世界中のユダヤ教、キリスト教が間違えている富は、神の言葉は人間に宛てられたものではない、人の子に宛てられたものだということを、全く理解していないからです。
人の子とはリビング・ソール(生ける魂)です。神はリビング・ソールに神の言葉を与えているのです。人間に対して与えているのではありません。このことを肝に銘じておく必要があるのです。
人間の立場から見ると、矛盾を感じる文章であるのはあたりまえです。難しく、さっぱり分からないのは、あたりまえです。人間に対して書かれた文章ではないからです。霊魂に対して書いているからです。皆様の霊魂は初めから聖書の受取り人になっているのです。これが神の子です。神の子である霊魂の場に立ちさえすれば、分かるようにできているのです。
霊魂とは何か。皆様が生きていることです。霊とは生きている状態です。魂は生きている状態の基礎になっている生理機能と生理機能です。魂は肉体的又は精神的な機能性です。霊は機能性が働いている状態の現象です。生きている状態です。
霊と魂の二つに向かって、神は呼びかけているのです。まず魂に呼びかけている。魂が働き出すと霊になるのです。
魂とは何か。ヤコブは次のように述べています。
「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなた方の魂を救う力がある」(ヤコブの手紙1・21)。
心に植えられているというのは、誤訳です。人間存在に植えられているのです。生まれながの人間に植えられているのであって、心に植えられているのとは違うのです。心に植えられているというのは、全くの宗教訳です。言は心に植えられているのではない。人間存在そのものが言なのです。
ヨハネは次のように述べています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。そして、言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネによる福音書1・1~3、14)。
言が肉となった。これが人間存在の中心です。人間の呼吸機能が言です。目の働きが言です。五官の働きが言です。心に植えられたとなると、五官の働きが言でなくなるのです。
人間の生理機能や消化機能は心ではありません。生理機能が神の言なのです。生理機能と心理機能の両方に、言が働いているのです。だから、心に植えられていると訳してはいけないのです。訳した日本人が、自分の考えによって勝手に心を加えたのです。聖書を勝手に改訳したのです。聖書はすべて原文どおりに訳さなければいけないのです。
人間に植えられているのが、言です。言が肉となったのが人間です。そこで、言が魂を救う力を持っていると書いています。なぜかと言いますと、言と魂は一つのものです。魂を機能させるものが言です。
魂が働きはじめるのは、言というレールに従わなければできないのです。心理機能でも、消化機能でも、その働きは言です。生理機能の根源が言ですから、医者も聖書を知らなければ、本当の医者になれないのです。
言が機能しているのです。又、機能が言として働いているのです。皆様の魂が働いてる状態が、言です。お茶を飲むこと、ご飯を食べること、人と話をすること等は、皆言の働きです。
言が働いて、人間の行動になっているのです。自分が行勤しているのではないのです。言が分かると、初めて、魂が分かるのです。神の言は人間の魂にだけ分かるように言っているのです。魂の本質が言ですから、神の言が分かるに決まっていることを、父なる神は言っている。だから人間の霊魂に向かつて、自分の言を述べているのです。
いつでも霊魂の場に立つのです。肉体人間が聖書を学ぶことをやめて、魂として聖書を学ぶのです。これを専一に考えるのです。そうすると、どうやら人の子らしくなるのです。聖書は私のことを書いているとイエスが言ったのは、そのことを言っているのです。霊魂が聖書になっている。聖書と霊魂は一つです。神の言葉が霊魂に向かって語っている。これは分かるに決まっているのです。
海とは何か。霊魂の立場に立ってみれば分かるのです。水晶のようなガラスの海があるのです。人間の霊魂が海を見て感じるのは何でしょうか。これは肉の面からと霊の面からと両方言えるのです。
人間として感じるのは、存在です。存在が現象であり、私たちが生きている状態を現実というのです。有りて有るもの、神の御名(実体)が、海のように見えるのです。これが世界の人間に完全に隠されているのです。水晶のようなガラスのような海がある。人間は海を意識しているから、森羅万象、現象世界で生きていられるのです。これを肉的に言うと、世の中になります。現象世界が世の中を造っているのです。人間は海を感じているから、生きていられるのです。海があることを感じているから、飛行機や車が造れるのです。人と話ができるのです。俳句が造れるのです。すべて人間の生活は、海があることを意識して生きているのです。
首にひき臼をつけて海の底へ沈めるというのは、世の中の底の方へ行って生活せよと言っているのです。ひき臼をつけるというのは、生活の苦しみを味わって、浮浪者になって生活しなさいと言っているのです。教会の牧師はそれほど悪いことをしているのです。鎌ケ崎や山谷に行ってきなさいと言っているのです。これが海の底です。
大学教授や教会の神父さん、学校の先生、上級将校、国会議員、知識階級と言われる人々は、皆この部類に入るのです。知識階級は人を蹟かせるに決まっている。自分の意見を述べているからです。預言者以外の人は皆、人を蹟かせるのです。そういう人は、皆仕事をやめて、愛隣地区へ行けというのです。文明の指導者はそういうめにあわされる。ユダヤ人もそうなるでしょぅ。ユダヤ人の首にひき臼がつけられると、本当の世界平和が実現するのです。
聖書が本当に分かった人は、天下のユダヤ人を指導しなければならないのです。だから今までの自分ではいけない。現在の職業を自分の職業だと思わないことです。それは海の底だと思ったらいいのです。
人生そのものが霊です。人間が生きていることが霊です。自分でそう思わなくても、神から見ればそうなっているのです。
生きていることを霊だと思うのです。肉だと思うから腹が立つのです。霊だと思えば腹が立たないのです。
自分の本質は魂であり、生きていることが霊です。これで見ると、すべての存在、森羅万象の存在は、全部海です。これは水晶のようなものです。ガラスのようなものです。形はありますが、透き通っているのです。森羅万象がこのように見えたら、救われているのです。
森羅万象という形はあるが、透き通っている。このように見ると、神の御名が全体に広がっていることが分かるのです。
私は有りて有るものであると神は言っている。有りて有るという神の御名が、森羅万象として広がっている。これが海です。そこに皆様は生きているのです。
私たちは御座の前で、神の御名を見ているのです。有りて有るものを見ているのです。これが存在です。聖なる事実がここに展開しているのです。神の御名が現象として展開していること、それを又、皆様が実感できるのです。皆様は今、神の国を味わっているのです。
神の御座の前は、一面海です。皆様は海を歩いているのです。この海を歩くことを、この世に生きているというのです。
海にはいつでも波風があります。いつも塩辛いのです。肉体的に世間で生きていることは、いつでも波風があるのです。何か行き詰まったことを感じるのです。人に話して誤解される。儲けようと思って損をする。子供が言うことを聞かない。幸いことばかりです。何をしても波風がある。辛くて悲しいことばかりです。
神は人間に海を与えている。これがこの世です。この世という海は、水晶のようなものです。物があるというのは肉の思いです。この思いを解脱するのです。肉の思いを捨てると、水晶のようなガラスの海が見えてくるのです。