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梶原和義のブログです。

2011-06-04 18:56:31 | 日記

五薀を発明したのはユダヤ人

人間の命が何回か生まれ変わるという考え方、いわゆる輪廻転生という仏教の観念がありますが、これは仏教の情報です。輪廻転生するという証拠は、どこにもありません。人間の命から考えて、正当に理論づけることはできません。
仮にそういうことがあったとしても、現在生きている皆様の命を動かすことはできませんし、命を確立するためのプラスにはならないのです。
死んだ後に、自分の命が何かに移るとか、動物になる、鳥になると考えてみた所で、永遠の命が分かるものではありません。
そういうことがあるかないかを論じること自体が、無駄に神経を使うことになるのです。何にもならないことなのです。
命には生(せい)と命(めい)とがあります。生は宇宙にただ一つしかないのです。命は人間が生きている状態を言います。生は私たちが生まれる前からある命ですし、又現世を去ってからも継続するに決まっているのです。生は絶対です。これを知ることが、命を正確に捉えることなのです。
命(めい)はやがて心臓が止まるとなくなってしまうのです。私たちは生(せい)を認識するために、何をどう考えたらいいかということです。無理にとは言いませんが、できたら妄念は捨てたらいいのです。
進化論とか、資本論、フロイドの学説等も同様です。これはユダヤ人が造った妄念です。ユダヤ人は現実に存在する間、物質世界、人間世界、万物が存在している世界を、現実的な真実だと考えたいのです。
こういう考え方は、般若心経で言えばすべて五蘊であって、皆空なのです。進化論を信じたい人は信じたらいいでしよう。やがてユダヤ文明は地球上から抹消されるでしょう。そういうものに、あまり神経をお使いにならない方がいいのです。進化論も輪廻転生も、この世の肉体人間を理論つけただけなのです。命の解明には何の役にも立ちません。
生とは何か。これをお考え頂きたいのです。たくさんの学説が山ほどありますから、それをいちいち勉強していきますと、五百年生きていても足らないでしよう。ですから、必要なことを、必要なだけ勉強することが、効率的な方法なのです。
ダーウィンの理論を承認しても、命には何の関係もありません。理屈を習うだけのことなのです。進化論はユダヤ人が造り出した一つの理屈に過ぎないのです。
般若心経で言えば、現象的に人間が生きているという考えが、間違っているのです。そんなことは、般若心経で言わなくても、分かるのです。
人の命は、心臓が動いていること、呼吸をしていることです。瞬間だけのことです。今という瞬間しか命はないのです。
生の実体は何かと言いますと、今という瞬間です。このほかに命はないのです。皆様の心臓はたえず鼓動を打っています。このほかに命はないのです。皆様の心臓が、瞬間瞬間を捉えているのです。皆様の心臓は最も確実に、今、今を捉えているのです。今を捉える音、働きが命脈です。鼓動です。
人間の生理機能は、今だけ働いているのです。この点医学は大変な考え違いをしているのです。人間の生理に、昨日、今日、明日という継続状態はあります。継続するということと、存在することとは何の関係もありません。継続は存在の伝承です。存在はあくまで瞬間です。
自分が生きているという考えが、根本から間違っています。自分が生きているといなのです。簡単なことです。自分が生きているのではなくて、生きているという事実が、自分として現れているだけのことです。今日の命は、今日だけの命です。明日の命には何の関係もないのです。
砂糖をなめれば、世界六十五億の人間は皆甘いと感じるでしょう。塩をなめれば、皆辛いと感じるでしょう。そのように、人間の生理感覚、味覚意識は、世界中に一つしかないのです。
一つしかない生理機能を、人間は六十五億あると考えている。自分が生きていると考えるからです。もし自分という人間が実在するなら、六十五億の命がなければならないのです。ところが、砂糖が甘いと感じるのは、六十五億人に共通する味覚です。
男も女もない。人間は一人しかいないのです。命は一つしかないのです。だから生というのです。
皆様は固有名詞の自分を信じておいでになります。皆様が信じているのは、個人が生きているという考えです。これが間違っているのです。個人主義は白人の思いつきでありまして、ユダヤ人がフランス革命で流した思想なのです。これが世界中に広がっているのです。個人が生きているという事実はありません。どこかの家庭にいるか、どこかの会社勤めている。どこかの国に住んでいるのです。空気、水、太陽光線の恩恵を受けているのです。そういうものに全く関係がない自分ということはありえないのです。
仏典に「尽天地尽衆生」という言葉があります。人間は天地と共に生きており、多くの人と一緒に生きているのです。そういうものに関係がない純粋の個人はいないのに、個人主義だけが勝手に一人歩きをしているのです。
個人が生きているという事実はありません。生きているということが、個人に現れているのです。生という事実が、固体として現れているのです。しかし、個人が独自に生きているのではないのです。生が主体であって、自分は従体です。従体は主体に勝つことはできません。生きているということがあるからこそ、自分という人間がいるのです。生きているということがなかったら、自分という人間はいるはずがないのです。
人間は何でもないことを考え違いをしています。これは文明のためです。ユダヤ人は個人を非常に尊んでいます。なぜかと言いますと、キリストに従いたくないからです。キリストに反対したいのです。神に反対したいからです。
ユダヤ人は神とキリストが大嫌いです。聖書を正しく捉えることに、ユダヤ人は心から反対している。それが進化論になって現れたり、資本論になって現れているのでユダヤ人はこの世に生きている間が、人間だと思っているのです。これは大間違いです。生は永遠不滅のものです。その証拠を申し上げます。皆様の人格は自分自身のものではありません。 六十五億の人間が、世界に共通する概念を持たなければ、人間生活は成立しません。世界には一つの命しかないのです。
私たちは八十年か九十年の間、一つの命を経験しているのです。個々の命があるのではありません。従って、固有名詞の存在を確認しすぎると、命が分からなくなるのです。自分が生きていると思うと、生が分かりません。万人共通の命が分からなくなるのです。
これはイエスの断固たる主張です。これが分かれば死ななくなるのです。個人がいないということがはっきり確認できれば、その人は死ななくなるのです。
固有名詞の自分がいないということが分かれば、皆様が生きているのは神の実体であることが分かるのです。神の実体を、皆様は自分という立場において経験しておいでになるのです。神の実態を命として経験しておいでになるのです。辛いとか甘いとかいうのは、神の意識がそのまま皆様に伝わっているのです。
皆様が現世にお生まれになる前に、皆様は神と一緒に生きていました。神と一緒に存在していたのです。そのときの神のあり方が、神と一緒にいた皆様に移ってしまったのです。これが皆様の人格です。人間はパーソナリティです。神のペルソナが、人間のパーソナリティになっているのです。これは私たちの霊魂が、生まれる前に神と一緒にいた証拠です。そうでないとすると、皆様の人格はどこから来たのでしょうか。この説明ができる哲学者も宗教家も、世界にいないのです。
ユダヤ人もこの説明ができません。人間になぜ人格があるのか、説明ができないのです。命が一つしかないことが、なぜユダヤ人は気にいらないのでしょうか。
ユダヤ人が間違った自尊心を人類に植えつけたのです。なぜ独立自尊と言わなければならないのでしょうか。これについては福沢諭吉も、答えることができないでしょう。これはフランス革命の妄念が、そのまま日本人に伝達されただけなのです。
自分が生きているという観念は、自分を殺してしまう最も有力な自殺方法なのです。固有名詞の人間が生きているという事実は、社会的にはありますが、人格的には存在していないのです。社会には固有名詞を持った人間ばかりがいるのです。社会的には固有名詞は必要です。生活的には有効ですが、命の実体から見ると国家社会とは何の関係もないのです。人間の命の実体は、本質的にこの世に生きていないのです。
なぜ個別の人間が存在するかと言いますと、人格の認識が千差万別なのです。例えAが神と一つになって救われる。Bが神と一つにならなけれれば、裁かれるものもある。そこで百人いれば、百の人格があるのです。それを捉える捉え方は百人百様にありますが、人格は多用です。
社会生活として固有名詞を使うのは当然ですが、皆様方の魂の問題を考える場合は、個々の名前を使わないで、生きていることを見て頂きたい。生きているという事実、リビングという事実を見て頂きたいのです。砂糖は甘く感じる。塩は辛く感じる。これが生きているという事実です。これが神です。リビング・ゴッドは生きていることが神ということです。リビング・ソールは生きている魂です。生きている神と生きている魂とがあるのです。生きている魂が生きている神をつかまえさえすれば、死ななくなるのです。これは当たり前のことです。これを難しく考えるから、間違ってしまうのです。
仏典に阿弥陀如来が出てきます。阿弥陀如来とは皆様の命の実体です。自分の命の実体が無量寿如来、無量光如来であることを、窟比丘という坊さんが悟ったのです。
無量寿如来とは、人の心臓を動かしているエネルギーが無限という意味です。無量光如来とは人に宿っている理性の働きは無限である上いう意味です。つまり人間は永遠の生命によって生かされているということです。だから阿弥陀如来になったということを大無量寿経に書いています。
皆様と法蔵比丘は同じことです。法蔵比丘は釈尊の別名だろうと思われていますが、釈尊も皆様も同じです。人の実体は皆、阿弥陀如来です。だから、固有名詞は初めから存在していないのです。社会生活上の習慣として、固有名詞を用いているだけなのです。
どうして地球は造られたのか。色経という悪魔の誤った考えを自滅させるために、現在の世界が現れたのです。有形の世界、有形の人間が存在するというのは、色薀という悪魔の妄念を自滅させるためなのです。
これに気づけば、人間は絶対に死にません。皆様が生きておいでになることが神なのです。神が皆様の格好で現れているのです。これをつかまえたのがイエスです。イエスという名前は、神が自分の実態だという意味です。神が自分と共にいる。神が自分という格好で現れている。これがイエスの名なのです。
皆様が生きていることを客観的に見て頂きたい。主観的に見ないで、客観的に見て頂きたい。それだけでいいのです。人が生きている命を、冷静に、平明に、綿密に見ていく。そうすると分かるのです。
客観的な命を確認すると、生きていることが神だということが分かるのです。だから死なないことが分かるのです。神を自分という格好で、経験しているだけなのです。
これに気づきさえすれば、心臓が止まっても死にません。神は死なないのです。死なないのです。
人間はいないのです。ただ神の子がいるだけなのです。現に皆様の五官の感覚は、神の感覚をそのまま示しているのです。砂糖が甘いというのは、神の感覚なのです。
砂糖に甘いという味をつけたのは、製糖会社ではありません。天然自然がつけたのです。皆様は、天然自然の味をそのまま味わっているのです。
神が砂糖を甘くしたのです。神の味を人が理解することができるから、神のペルソナと人のパーソナリテーは一つになれるのです。
皆様の五官の働きを純粋経験によってご覧になれば、個人がいないことが分かります。神が皆様の五官になっているのです。だから、自分がいいとか悪いとか、分かるとか分からないとかを、問題にする必要がなくなるのです。もっと大きい立場から、命という立場からご自分をご覧になれば、絶対に死なないことがよく分かるのです。
主観的に自分を見ずに、客観的に見るだけです。イエスがこれを実行した。そして、彼は見事に復活した。イエスは自分は神の子であると信じたので、一度は死んだが、死ぬべき者ではないことがわかつて、復活したのです。皆様もこれを実行して頂ければいいのです。





聖書は人間の魂について述べています。般若心経は現世の人間の考えを否定しているのです。常識ではない上智によって見る。般若心経の上智と聖書の信仰は同じレベルの認識であって、般若心経が分かつてくると聖書が分かるのです。聖書と般若心経は本質的に非常によく似ているのです。
般若心経は生きている人間に向かつて呼びかけている。聖書は皆様の魂に呼びかけている。ここが違うのです。
イエスの復活の命が自分の命だということが分かるまで、聖書を読んでいただきたいのです。神はイエスを復活させたことによって、すべての人の命を新しく造り直した。これが新約聖書のテーマです。これがキリスト教では分からないのです。
実は、世界に命は一つしかないのです。人間は百人いれば百の命があると思っている。これが常識です。ユダヤ主義の考え方です。
生まれた時の赤ちゃんをよく見てください。そこに本当の命の面影があるのです。皆様方がこの世に生まれてきた時には、本能的、先天性の命を持っていたのです。だから何とも言えない神々しさ、かわいらしさがあるのです。それが皆様の本当の命の姿なのです。 こういう気持ちになれば、イエスの復活の命がすぐ受け取れるのです。こういうことは、できるだけやろう、できたらするという問題ではありません。できようができまいが、どうしてもしなければならない問題なのです。
皆様の命は、この世で生活するためのものとは違います。この世で生活をしてみた所で、必ず死ぬに決まっています。結婚をしても、子供を生んでも、ただ死んでいく。それだけのことです。これが文明の考え、ユダヤ人の考えです。
死なない命はどこにあるか。人間が生きていることの実体は魂です。この意味をよく弁えると、イエスの行き方と同じ生き方ができるのです。ここへ行き着くしか方法はないのです。これが死なない生き方なのです。
釈尊は、人間の考えは空だとはっきり言い切った。その証拠はどこにあったか。明けの明星を見たからそう言えたのです。明けの明星が今の仏教では分からないのです。これが説明できる坊さんがいないから困ったものです。
明けの明星は太陽が出る前の星です。明けの明星の次は、太陽が出るに決まっています。人間が生きている世界は太陽が出る前の世界であって、やがて太陽が現れてくる。今生きている命は空なのだということが分かったのです。これは釈尊の偉大な発見です。この釈尊の悟りが、日本には全くありません。本当の空が日本人には分かっていないのです。
成仏が仏教の終点です。仏になるというのは、今の人間が消えてしまうことなのです。ところが、仏教を信じている人が、全然成仏していない。これが日本に本当の悟りがない証拠になるのです。本当の悟りがあれば、自分の気持ち、自分の立場を強調しなくなるのです。そしてイエスが自分の本体であることが、分かつてくるのです。
イエスはどこにいるか。皆様方の生まれながらの赤ん坊の姿がイエスです。イエスは私は赤ん坊だと言っています。赤ん坊だから本当のことが分かるのだと言っています。三十三歳のイエスが、自分のことをベビーだと言っているのです。一度大人になった人間が、赤ん坊である自分のことが分かりますと、本当の命が分かるのです。
生まれたての赤ん坊は、理性の使い方が分かりませんから、成仏することができませんけれど、大人の皆様には理性の使い方が分かつていますから、成仏できるのです。
成仏するためには、般若心経が一番薬になるのです。成仏とは何か。「仏とは誰が言いにけん玉の緒の、糸のもつれの仏なりけり」という歌があります。玉の緒のもつれというのは、人間の命がもつれていることを言うのです。それを解いていくのです。仏になるというのは、自分の思想や、自分の経験、自我意識が解けてしまうのです。これを究竟涅槃と言います。究竟涅槃が分かりますと、イエスの復活が分かるのです。
人間の実体は固有名詞の人間ではありません。生まれたての赤ちゃんが皆様の実態です。今まで五十年、六十年の間、この世で苦労してきたその頭で、生まれながらの赤ちゃんに帰るのです。そうすると本当の命が見えてくるのです。自分自身の本質が神の子であることが分かるのです。
これはできるだけやろうとして済ましておける問題ではありません。目の黒いうちに、分かるまで、とことんしなければならないことなのです。特に年配の方は頑張っていただきたい。若い人も、この先、三十年ある、四十年あると思うのは、油断大敵です。生きている命のことをもっと真剣に考えて頂きたいのです。
人間は現世で生活をするために生まれてきたのではありません。命を経験することによって、美しいとはどういうことか、おいしいとはどういうことか、魂とは何かを学ぶために生まれてきたのです。
それを学びますと、皆様は神の子としての自己自身を完成することができるのです。この世を去ってから、本当の仕事があるのです。天国へ行って昼寝をするのではありません。極楽へ行って遊ぶのでもありません。
私たちには大きな仕事が待っているのです。万物の長として、森羅万象を治めるため、神のヘルパーとして、神にかかわって宇宙を統率するために、現世で自己完成をしなければならないのです。皆様はイエスと同じ力を持っています。だからイエスの復活を受け取ることができるのです。ただ素直になればいいのです。



イエスの十字架を否定するユダヤ人

十字架を正確に、聖書どおりに見ていきますと、死ななければならないと思っている皆様は、すでに死んでいることになるのです。
今の人間は死なねばならないと思っています。なぜ死なねばならないかと言いますと、現在肉体的に生きている命を、無条件で認めているからです。ところが肉体的に生きている人間は、未完成の人間です。本当に一人前に命を認識しているのではないのです。
死にたくないと思いながら、死ななければならないと思っていることは、その人の内に、命に対する根本的な矛盾があることを示しているのです。
聖書で言う肉の思いで生きている人間は十字架によって全部消えてなくなっているということが、なかなか分からないのです。
キリスト教の牧師がこれを知らないのです。これは新約聖書にはつきり厳命されていることですが、キリスト教ではそれを言わないのです。人間が死んでいると言いますと、誰も教会へ来なくなるのです。だから教会でははっきり言わないのです。とにかく十字架の意味が、全く否められてしまっているのです。
十字架は神の処置です。神の側から提出した独自の思想であり、神の言い分なのです。
例えば太陽が輝いていることが神の言葉になるのです。地球が自転、公転していることも、神の言葉になります、皆様の心臓が動いていることも、神の言葉になるのです。命の現れは、すべて神の言葉の現れなのです。
十字架によって、肉体的に生きている人間が抹消されたことを理解することは、普通の人間ではなかなかできません。十字架を日本人的な立場から認識するためには、その前提して、般若心経に徹していただくことが一番良い方法だと思われます。五薀皆空、色即是空、究竟涅槃を冷静にお考えになれば、肉体的に生きている人間がいないということが、おのずから認識されることになるでしょう。
五薀皆空、究竟涅槃を体得しますと、この世に生きている人間は、実は生きていない。別のものが生きていることが分かるのです。
今皆様は生きていると思っていらっしゃいますが、その自分はいないのです。生きていらっしゃるのは、別の人間です。これが十字架という驚くべき神の処置なのです。
自分はいない。自分がまだ気がつかない他人のような自分が、本当の自分なのです。これを知るためには、十字架の言葉を充分に認識する必要があるのです。
神というのは非常に心安い人でありまして、皆様がお天道様とおっしゃつているもの、又お蔭様とおっしゃっているものです。
お蔭様とは誰のおかげでしょうか。お天道さんというのは何でしょうか。お天道さんが日本人に分からないのです。日の出の時に手を合わせて拝んでいますが、ご来光とはどういうことか分かっていないのです。これを聖書が教えているのです。
聖書の神は、お蔭さんの神です。お天道さんという言い方は非常に俗的な常識人間の立場から神を見ているのです。間違っているのではないのです。俗的な立場というのは、自分自身の思惑で勝手に見ているのです。
本当の神とは何か。お天道さんがお天道さんであるいわれは何か。お天道さんが地球を造っているとはどういうことなのかということを、精密に論証しているのが聖書です。日本人が公明な気持ちで聖書をご覧になれば、聖書の一句一句から驚くべき命を汲み取ることができるのです。
死ぬべき人間はもういないのです。現在生きている人間は、イエス・キリストの復活によって死なない人間になっているのです。人間が死ななくなってから、二千年にもなるのです。
キリスト紀元というのは、人間が死ななくなった歴史の年号です。キリスト教では色即是空、空即是色という言い方は、人間の悟りです。人間が人間自身を見た悟りであって、神から認識されていないのです。人間が人間の立場から考えますと、堂々巡りになるのです。
こういう点が、般若心経の足りないところなのですが、この点以外には、般若心経にはすばらしい思想があるのです。聖書に現れていない言い方を、般若心経はどんどんしているのです。これは東洋人の宝物です。
現在の世界歴史は根本から間違っています。このまま進んでいけば、世界は大混乱に陥るでしよう。
この大混乱から逃れるためには、般若ハラミタという考えが、天使のシグナルになるのです。現代文明の欠点を見事に覆いつくすような長所を持っているのです。
私たち日本人が般若心経の真髄に徹すると共に、欧米人に般若心経の原理を提示するべきです。特にユダヤ人に分かってもらいたいのです。ユダヤ人が考えを是正すれば、世界は見事に立ち直るのです。
般若心経の価値、十字架に現れている神の処置には驚くべきものがあるのです。



魂の文盲を癒す方法

日本人は言葉が一つですから、聖民族のように思いますが、民族の起源を尋ねて見ますと、南方系、北方系と、色々な民族が入っているようです。
魂という点から言いますと、日本人は非常にやくざな民族です。島国であって外国との交流がないために、国外へ逃亡することがなかなか難しく、外国から入ってくることも難しかったのです。そのために、やむを得ず封建制度のままで押さえ込まれていたのです。
命令を聞かざるを得ないという条件を押し付けられていましたので、言うことは割合よく聞くのです。服従しますが、それは表面上のことだけであって、腹の底では絶対に服従していないのです。
それに加えて、日本の神観が根本的に間違っているのです。日本の神観は現世主義です。日本の神は現世で、人間に幸福を与える責任を持っている神です。生まれたときに氏子になります。お宮参りをします。今ではしない人が多いようですが、明治、大正時代までは必ずしたのです。七五三をします。女の子は十三参りをします。成人式は鎮守でしたのです。家を建てるときは、地鎮祭をします。田畑では神主に祈ってもらいました。結婚式も神前でしました。
日本の神は全く現世の神です。現世の人間生活に密着している神です。来世を一切考えません。八百万の神という思想は、非常にインチキなものです。日本人はそれを知っているのです。
神が八百万というほどたくさんありますから、この神でだめならあの神に頼んだらいい。あの神でだめなら他の神に頼んだらいいのです。いくつでも神があるのですから、一つの神にすがってお願いしなければならない理由はありません。どれもこれも、皆紙屑みたいな神ばかりです。これは神霊科学で分析できる神です。悪霊なのです。肉の霊です。これが八百万の神々です。
いくらだらしがない日本人でも、腹のそこではそれがインチキだということを知っているのです。だから都合のいい時にお参りをして、都合の悪い時にはお参りをしないのです。
正月に行くところがないので、神社へでも行こうかとなるのです。江戸の歌にありました。「むこう横丁のお稲荷さんに、ちょっと参って一文上げて、ざっと拝んでおせんの茶屋へ」。こういうのが日本の神さんです。
日本の神は、ざっと拝む神さんです。本当に信じる神ではないのです。だから日本人は腹の底では神を信じていないのです。軽蔑さえしているのです。都合のいい時には信じて、都合の悪い時には軽蔑する。そういうのが八百万の神々です。
日本人は幼年時代から、こういう神の感覚が腹の中に深くしみこんでいます。この安物の神観のために、神はインチキだという考えが、骨髄にしみこんでいます。このために、天地創造の神が、どうしても信じられないのです。
その意味で、日本人には同情します。生まれ性が悪いのです。日本というやくざな国に生まれたから、どうしても神が分からないのです。
もし皆様がアメリカで生まれていたら、もっと早く神が信じられたでしょう。その意味で、日本人は気の毒です。全く悪い民族性、神観が全然なっていない国に生まれたのです。そこで五十年も六十年も生きていますと、まともに神が信じられなくなるのです。よほど乱暴なことをしなければ、神は分かりません。桁外れの人間にならないと聖書は分かりません。世間並みの人間ではとてもだめです。アメリカやイギリスでさえも、本当の信仰を持とうと思ったら、世間並みの人間ではだめです。ましてや日本ではだめなのです。
日本人は現世の生活では神を拝みます。来世のためには仏を拝むのです。管轄が違うのです。八百万の神の管轄と、十万億土の仏さんの管轄と両方があるので、ややこしいのです。都合のいい時は現世主義で、都合が悪くなると十万億土のところへいくのです。とにかく日本人は、理性の根源、良心の根底がどこにもありません。この民族は実にやくざな民族です。こんな粕みたいな民族は、世界でも珍しいでしょう。フィリピンやベトナムの方がよほどましです。世界中で日本人ほどできが悪い民族はいないのです。
現世での生活と霊魂の問題は全然管轄が違っています。神と仏の管轄が違うのです。生活と霊魂が全然別になっています。ですから日本人は信仰と生活がどうしても一つにならないのです。本当に心から神を受け取ることができないのです。
ドイツ人やイギリス人なら、もっと楽にできるでしょう。神が分裂していないからです。キリスト教の神は誠の神ではありませんが、神として一応統一しています。現世の生活と霊魂の問題を、一つの神で統一しているのです。だから、家庭生活も社会生活も、死後のことでも、一つの神で統一しているのです。比較的神を信じやすいのですが、日本人はそれができないのです。皆、二股膏薬です。
内村鑑三は日本的キリスト教と言っていました。中田重治もそう言っていました。日本的キリスト教というのは、本当の福音ではないということを告白しているのです。日本的という肩書きをつけているからです。ずばり、キリストの福音と言えないのです。それだけ日本人の根性は腐っているのです。
魂という点から考えると、日本人は世界の粕です。現世の生活と魂についての考えが完全に分離している民族は、他にいないでしょう。昼と夜の考えが全然違うのです。
皆様のこういう生まれ性の悪さ、育った家庭の悪さ、社会の悪さにまず第一に気がついて頂きたい。
日本人は心で神を信じることができない民族です。思想的には信じることができるでしょう。しかし心では信じないのです。心を神に与えることをしないからです。嘘つきです。最近の日本は現世的に発展してきましたので、日本人の悪さに拍車をかけたのです。
徳川幕府が宗教を巧みに利用しました。神道と仏教を、国民を押さえ込む道具にしたのです。「仏ほっとけ神かもうな」という思想がありますが、仏をほっとく人は神を信じる格好をすればいい。神をかまわない人は仏を拝んでいる格好をすればいい。どちらかに逃げていれば、ごまかせるのです。
そこへ儒教を担ぎこんだのですから、いよいよ現世的な感覚で国民性が固められたのです。これが徳川三百年の封建政治です。三百年の間がっちりと鋳型にはめ込まれますと、精神が型にはまってしまいます。五十年や六十年ではそうなりませんが、三百年もはめ込まれますと、根性が決まってしまうのです。
も徳川政策で造られたのです。士農工商と四つの階級を設けましたが、商売人が一番下に置かれたので、幕府に献金しない。そこで商売人の下に下賎の民という階やりに造ったのです。「龍に乗る人乗せる人、その又草警作る人」というのが、同和問題として大きな騒ぎになりました。禁句だったのです。草軽を作ったのは下膜の民だったので、地区の人が騒ぎ出したのです。龍をかくのは霊助で、草警作るのは下鰻の民だったのです。
士農工商の下にもう三の安物の階級を造って、商売人に自尊心を持たせた。これが徳川政策でした。聖書によれば人間に階級は一切存在しないのに、徳川幕府が無理やりに階級を設けて、人々を押さえ込んだのです。
この政策は明治維新によって完全に撤廃されましたが、人、頗多の感情はいまだに残っているのです。拭っても拭っても、なくならない。どうしても差別意識が消えないのです。同和問題の社会政策でもこの通りです。霊魂の問題になると、絶対というほど消えないのです。これから百年経っても、三百年経っても消えないでしょう。
現世は氏神さんで、来世は仏さんという考え方は、日本人から絶対になくならないでしょう。その根性が皆様の腹の中に居座っている以上は、まともに神の御名を崇めることはできないのです。
どうしたらいいか。徳川三百年以前の状態に帰ったらいいのです。百人一首の中に「嵐ふく 三重の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり」という歌がありますが、日本にはこういう感覚があったのです。「ほととぎす 鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」。こういう考え方が文明です。これは程度の低い文明です。「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」。これもちょっとした文明です。
こういう文明が、昔にはあったのですが、今はめったに見られません。見られても、それを生活に取り込んでいないのです。ただ風流として、趣味の遊びとして歌を詠む人があっても、生活の糧としている人はいないのです。
聖書の勉強は、霊魂の文盲から覚める勉強になるのです。時間、空間というキリストの言葉を読み取ることが、魂の文盲を癒す唯一無二の方法です。
今の皆様のお考えではだめです。せめて能因法師ぐらいの風流の心を持って頂きたい。生活に風流の心を取り入れるのです。能因法師は歌には詠みました。しかし「龍田の川の錦なりけり」という感覚を、生活で生かすことができなかったのです。
仏教では色即是空、空即是色と言いますが、「龍田の川の錦なりけり」という言い方はないのです。
「もろともにあはれと恩へ山桜 花よりほかに知る人もなし」 これもちょっとした文明です。自然の心を知り、自然と語る。自然が人の魂に何を言おうとしているのかを読み取ることが、神の言葉を知ることなのです。大自然と歴史の流れは・神が森羅万象を通して、人間に語っている言葉です。
新約聖書は、神が聖霊によって、時のしるしを語ったのです。皆様の心臓が動いている、目が見えるということは、人の子という形で神がロゴスの真意を語っているのです。人間がいること、時間空間を通して語っていること、大自然と歴史の流れによって語られた新約聖書という命の文があるのです。これで、どうして霊魂の文盲から癒されないかと神は言いたいのです。
一人の人が霊魂の文盲から解放されるということは、日本にとつて歴史的な大事件なのです。
聖書が教えている神は、日本の神とは違います。永遠の昔に天地を造った方であり、地球がなくなった後に「新天新地」を経輸する、唯表対の全能の神です。日本の紙屑のような神ではありません。
日本のキリスト教の信者は、キリスト紀元の意味がわからないのです。霊魂の文盲は恐ろしいことです。魂の永遠の運命にかかわるからです。
魂の文盲が治るか治らないかで、永遠に死ぬか生きるかの大問題になるのです。お金が儲かる儲からないの話ではないのです。日本人はこういうことを全く知らないのです。私はそれに対して、どうしても黙っておれないのです。六十五億人の文盲を何とかしなければならないと思っているからです。
イエスは言っています。
「こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなた方は聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。その民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その日は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなた方の目は見ており、耳は聞いているから幸いである」 (マタイによる福音書13・14~16)。
ユダヤ人はイエスの時代に、魂が文盲でした。現在もなお文盲の状態にあります。このユダヤ人の文盲に対して、神は日本人の中から人を起こそうとしているのです。
あなた方の目は閉じている。心は鈍く、耳は閉じていると神は言っています。ところがイエスから見れば、目、耳、心の働きは、実は信仰によって働いているのです。目は信仰によって働き、心は信仰によって働いているのです。
例えば皆様は明日があることを知っています。スーパーマーケットへ行けば食料品や日用品が買えることを知っています。電車に乗ったら目的地へ着くことを知っています。あの人にこんなことを言えば、こう思うだろうということを知っていますし、女の人が化粧をしたら、あの人はこんな風に思うだろうということを知っています。仕事をしたらどうなるかを知っています。これがすべて信仰です。
目で見ていることが信仰です。耳で聞いていることが信仰です。人間の五官の働きは、神が人間に植えた信仰の機能なのです。神の信仰が植わっているのです。
見るというのは神の機能であって、それを人間に植えているのです。そうすると、皆様の目の働きはそのまま神の信仰の働きを持っているのです。霊の流れを見ることができる者が、時の印がわからないのは何事だとイエスが叱っているのです。偽善者めと言っているのです。
皆様は、自分が生きているということを、恐れ畏こまなければならないのです。生きているという事実を恐れ畏こまなければならないのです。生きているという事実を恐れ畏むのです。これが魂の文盲が癒される唯一の方法です。
マリアは、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救主なる神をたたえます」と言っています(ルカによる福音書1・46、47)。魂は五官が働いている状態です。霊はその人が生かされていることです。生かされている状態で神を喜ぶことができる。これが文盲が治った状態です。
天地の森羅万象を見ることによって、天地の綾模様を読んでいく。これが文明です。これは能因法師よりもだいぶ上等の文明です。これをすれば、皆様の魂は永遠の滅びから救われます。永遠の滅びから、間違いなく救われるのです。文盲のままで死んでしまえば、必ず地獄へ行くのです。
なぜかと言いますと、皆様の目や耳は、森羅万象を読みとることができるからです。読み取る性能をもっていながら読み取らずに死んでしまえば、地獄へ行くのは当然のことです。
皆様の魂がこの世に出てきました。魂が出てきたというのは、五官が出てきたということです。それは天地森羅万象の綾模様を読み取るために生まれてきたのです。だから読み取らなければならないのです。
言わず、語らず、その声聞こえないのに、「その言葉は全地にひびきわたりその言葉は世界の果てにまで及んだ」。神は日のためにあげばりを設けたまえり。太陽の光には、花婿であるキリストの大いなる輝きが出ているのです。朝日のご来光に皆様の魂が感激すれば、それは花嫁としての感激なのです。これが本当の恋の喜びです。
イザヤは目が見えない、耳が聞こえないと言っています。心が鈍くなって役に立たないと言っているのです。昇る朝日の勢いを見ても、それが花婿の栄光だとは考えられない。自分の魂が昇る朝日の姿を見て感激しているのはなぜか分からない。雲が流れて行く黎明の光に、大気が照っていても何のことか分からない。太陽が黎明の雲に反映して、薄紅の朝日の光が空にたなびいている豪壮な光景は、人の魂に無限の望みと喜びを与えてくれますが、この無限の望みと喜びは、とこしえの命そのもそれを読み取る性能を皆様は持っているのですが、それが分からないというのは、魂が死んでいる証拠です。
神が愛する者のために備えていてくださる救いは、目がいまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことなのです。これをよく考えなければいけないのです。
皆様が救われたいと思っているとすれば、それはもう間違っています。救われたいという思いが、人の心に浮かんでいるのです。キリスト教は人間の思いに答えるためにできているのです。だから、十三億も十四億もの人々が、信者になっているのです。
それが皆間違っているのです。人の心に思い浮かんでいるような神の救いを求めている。人の心に思い浮かんでいるような神の救いを求めているからです。皆様が本当の救いが与えられない原因は、自分の心に浮かんでいるような神の恵みを求めているからです。
シメオンは目の前に本当の救いを見るまでは、死なないと頑張っていましたが、このような勇気を持って頂きたいのです。本当の救いはあるものです。霊の目が開かれて、神の救いを見ることができるのです。
シメオンは何を見たのか。赤ん坊のイエスを見たのです。赤ん坊のイエスとは何のことか。これが分かった人は、人の心に未だ浮かびもしなかったことが分かったのです。これが世界の秘密です。
シメオンが見た救いの実体は、命の実体です。皆様はそれを見ているけれども分からない。異邦人には全く分からないことです。
困ったことに、皆様は肉体的に生まれた自分を、自分だと思っているのです。これが宗教観念で、この考えを捨ててしまわなければいけない。全く幼児になって、真っ白な紙に初めて字を書くような気持ちで、聞くのです。
自分が聞くのではなくて、魂が聞くのです。この場合は霊といってもいいのですが、霊と魂である自分が聞くのです。これは自分が聞くのではない。皆様が生きている事がらが聞くのです。だからよほどむなしくならないといけない。これを誠の謙遜というのです。
霊において貧しくなることを勉強しなければいけない。霊において貧しいとは、ごちゃごちゃした自分の考えを、一切持たないのです。生まれたばかりの赤ん坊のような気持ちになるのです。これができた人は天国にいるのです。霊において貧しくなったことが、天国をもらったことになるのです。
ユダヤ人の目は閉じていて、耳は聞こえにくく、心は鈍くなっているとイザヤは言っていますが、新約時代の皆様の目は見ているし、代では、皆様の目の働きはそのまま信仰の働きになっているのです。この預言者や義人がわからなかったことです。皆様は皿に持ってあるお寿司を見たら、おいしそうだと思うでしょう。大体の値段も分かるのです。これが信仰です。
見ただけで暖かそうだとか、重そうだと分かるのです。五官の働きはすべて底のほうに、信仰の霊が秘められているのです。ですから皆様が五官の働きを仔細に点検すれば、皆様は肉でなくて、霊において生きていることが分かるはずです。これさえ分かれば、死なないのです。