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梶原和義のブログです。

2011-06-04 06:23:37 | 日記
エデンの東

日本は東の果てにあります。フィリピンは日本より四十分位の時差がありまして、日本が午前十時としますと、フィリピンは午前十時四十分になります。
極東とは一番東ということです。聖書では、東へ行くほど人間の質が悪くなっています。一番東は、罪人のいる場所になるのです。
エデンの東ということばが、創世記にあります。エデンは祝福された人がいる所ですが、エデンの東はエデンを追い出された人がいるところです。極東に住んでいる日本人は、一
番悪い民族になるのです。悪いとはどういうことかと言いますと、経済的にはアジアで一番優れているのですが、魂の状態で見ますと、最悪なのです。世界観や人生観が民族を決定しますが、その面で日本人は非常に悪いのです。
日本の国体にはすばらしいものがありますが、それが正しく認識されていないから悪いのです。日本の天皇制は世界的に見なければ分かりません。民族的に見ても、何の意味もないのです。日本の天皇が日本で一番偉い。これは当たり前のことです。日本の天皇制が世界的に価値があるという見方が、全然できないのです。
明治にできた教育勅語は、「古今に通じて謬らず中外に施して惇らず」と偉そうなことを言っていますが、これを信じていた日本人は、恐らくいなかったでしょう。これが日本民族が下等な民族であったという証明になるのです。
聖書を学ぶことによって、その民族の位置を世界的に位置づけることができるのです。聖書を知らない総理大臣は、恐らく日本だけでしよう。アジアでもアフリカでも、皆聖書を読んでいる人が国のリーダーをつとめているのです。
魂の面から言いますと、日本民族は世界で最低です。お金儲けは上手ですが、魂は空っぽです。これをよく知って頂く必要があるのです。皆様は日本人で有ることを恥ずかしいと思って頂きたいのです。魂は人間の本質を意味するのです。
文明国の中で日本は、世界で一番最後まで聖書の販売を禁止していました。日本人は世界で一番聖書に縁が遠い民族ですが、これは神に縁が遠い、永遠の命に縁が遠いということです。そういう、非常に劣等な精神状態であることを、まずご承知頂きたいのです。
皆様は神に対して日本人であることを恥ずかしいと思っていただきたいのです。日本人は人間の本性を尊ぶよりも、生活のことばかりを重んじている。全く現世主義です。だから現世利益の新興宗教が、いくつもできるのです。人間のご利益ばかりを考えて、命の実質を考えようとしないのです。
日本の神々は、紙くずみたいな神ばかりです。現象生活のご利益ばかりを言うのです。日本の神道に哲学性は全くありません。魂のことを全く言わないのです。
日本民族には世界観がありません。社会制度には優れたものが有りましたが、朝鮮や支那からの輸入したものばかりです。日本独自の社会制度はありませんでした。
日本人には生活しかありませんでした。日本民族は目的を持っていない民族です。全くひどい民族です。歪んでいるけれど、目的を持っているのはユダヤ人だけです。ユダヤ人以外の民族は、目的を持たない民族です。生きているという意味が、全然分からないからです。
ところが、世界で最低の民族に、本当の福音が与えられようとしているのです。アブラハムの約束の驚くべき真髄が、示されようとしているのです。アブラハムの約束が、実は永遠の生命の実体です。これが分かれば死ななくなるのです。
アブラハムの約束は、空の実質を意味するのです。般若心経に空という言葉はありますが、その説明はありません。実は、般若心経の空はアブラハムの約束を意味するのです。だから空はすばらしく偉大なことです。
これは仏教では説明できません。空の説明ができる坊さんが、日本に一人もいないからです。
世界歴史の根源は何か。地球はなぜ有るのか。人間はどうして生きているのか。こういうことが分かれば、死ななくなるのです。
今まで皆様が考えておられた世界観、人生観は、皆間違っているのです。この世に生まれた命を自分の命だと思っている人は、百パーセント死んでしまいます。これが恐ろしいのです。
最近の日本は、世界第二位の経済大国になっていますので、日本人は上等な民族だと思っているのです。ところが世界観や価値観についての認識が低いのです。
皆様はこの世に生まれた自分を本気になって信じたらだめです。この世に生まれたということは、試みに人間生活をテストさせられているだけのことなのです。
何十年の間、この世に生きている間に、本当の命を見つけるかどうかを、神が皆様に試験しているのです。毎日生きている間に、食べ物の味わい方、物の見方、考え方を勉強するのです。そうすると、分かる人は分かつてきます。命の本質はそういうものかということが、分かるはずです。これが分かった人だけが永遠の命を与えられるのです。分からない人は全部、火の池へ投げ込まれるのです。
死んでしまうに決まっている命を、本当の命だと思わないことです。これがいちばん必要なことです。
生きていることに対する考え方が間違っています。皆様にとつて、聖書の内容の話を聞くよりも、なぜ聖書を学ばなければならないかということの勉強の方が大切です。
日本人には聖書の内容は上等すぎます。まず、なぜ聖書を学ばなければならないかという勉強が必要です。今の人間のどこがどのように間違っているかを勉強することが、先決です。
今のままで聖書を学んでもだめです。信じられるはずがないのです。なぜ聖書を勉強しなければならないのかが、分からないままの状態で、いくら聖書を勉強してもだめです。
なぜ聖書が絶対と言えるのか。これが分からないままの状態で、聖書を何十年勉強してもだめです。
皆様が現世にお生まれになった命は、本当の命ではありません。だから、生まれてきたと思うことが間違っているのです。皆様は、仮に命を貸し与えられたのです。これはタラントの譬の中ではっきり書いています(マタイによる福音書25・14~30)。仮に貸してもらっている命をどのように扱うか。それによって、皆様の永遠の運命が決定するのです。
皆様が生きている命は借り物です。それを自分のもののように扱っている。だから死んでしまうのです。借り物を借り物のように扱った人は、救われるのです。
借り物は他人の所有物です。これを勝手に自分のもののように考えているのですから、背任横領になるのです。
神は私たちを信頼して、命を預けているのです。それをいいことにして自分のものにしてしまう。命を泥棒しているのです。失礼ですが天皇陛下もこれをしているのです。天皇の位は世界的なすばらしいものです。それを預かっていながら、日本的にしかそれを見ることができない。これが間違っているのです。天皇制が日本のものでなかったことが、やがて分かるでしよう。
すべての人を照らす誠の光があって世に来たとあります(ヨハネによる福音書l・9)。これはユダヤ人だけではないのです。すべて肉体的に生きている人間に対して、同じ肉体的に生きているという条件で、誠の光がなければならないのです。
これが阿弥陀如来と違うところです。阿弥陀如来というのは、誠の光が世に来たとは違うのです。西方極楽浄土に、阿弥陀さんがいると言っているのです。仏説阿弥陀経にそう書いているのです。人間から離れて、西方十万億土に、阿弥陀如来の国がある。そこに阿弥陀如来がいると書いているのです。
聖書にあるすべての人を照らす誠の光というのは、人間が生きている状態の形で照らしている光が、世に来たのです。この点が阿弥陀如来と全然違います。
イエスはすべての人を照らす誠の光であって、人間と同じ肉体を持って来たのです。イエスと私たちは、同じ肉体の持ち方をしているのです。肉体を持っているという点から考えますと、イエスと私たちは少しの違いもないのです。ただ思い方が違っているだけです。
肉体的に生きているという点だけをとりあげて考えますと、イエスと皆様は少しも違いません。それを普通の人間は自分が生きていると考えるのです。これが死んでしまう原因です。日本人であるとか、固有名詞の人間がいると考えている。
一番悪いのは、自分が生きていると考えていることです。自分が生まれたいと思って生まれてきたのでは有りません。これが自分がいない証拠です。自分という意識がなくなれば、日本人という意識もなくなるでしょう。
自分という意識を撤回してしまうのです。自分という意識を捨てるのです。そうすると死なない命が分かってくるのです。これができればいいのです。
自我意識は神が人間に与えた、最も辛辣な誤解です。最も辛妹な試みです。これをどう見るか、捨てることができるかどうかを、神はじっと見ているのです。
今、人間が生きているのは、客観的に生きているのです。これは死なない命です。これを経験しているのが魂です。魂が肉体的に、人格として生きている。これが死なない自分の本体です。
魂だけになれば、悪い癖、心配事、病気、人生の行き詰まりは、全部なくなります。自分が生きているという意識があるから、人を誤解したり、恨んだり呪ったりするのです。自分が生きているという気持ちをやめたら、別人になったように人が変わるでしょう。別人になったからと言って、肉体生活に変わりはありません。意識だけが変わるのです。悪い所がなくなるのです。
肉体的に生きていることを卑下しなくなるのです。性欲についての見方も変わってしまうでしょう。聖書は情欲という言葉を使っていますが、情欲の本質が変わってしまうのです。情欲ではないものになってしまうのです。
人間の本能性は欲望ではありません。これは生まれる前からあったものです。生まれる前からとは、先天性ということです。先天性の本能が後天性の欲望で有るはずがないのです。ところが、先天性の本能を後天性の欲望として考えている。そこで罪になるのです。これが地獄行きの原因です。
そこでイエスが現れて、人間がどういう気持ちで生きればいいかという模範を示したのです。イエスの生き方を見て、イエスと同じように生きればいいということを示したのです。
私たちはイエスと同じように食べて、小便をします。小便をするイエスを見なければいけないのです。仏教で言っているような仏さんは小便をしません。私たちは普通の人間であって、仏さんでさえもできないことをしているのです。宗教の仏さんは、人間が造った抽象人格です。十万億土の彼方に阿弥陀如来がいると言いますが、そんなものを信じなさいと言うのではありません。
十万億土の阿弥陀如来でさえも、織田、豊臣時代には、たくさんの人が信じたのです。阿弥陀如来を信じれば、死んでから仏国浄土へ行けるという、後生安楽の思想が広がったのです。生きている間は主君に仕えるが、死んでからは浄土へいけるのなら、その方が有難いと考えた。
かつて徳川家康の家来が、家康に反抗しました。三河には忠義な侍が多かったのですが、家来の中の半分以上が宗教上の理由で家康に反抗したのです。そこで家康が困って、「厭離積土欣求浄土」という旗を立てるようになった。家康があんな旗を立てるなら我々と同じだとなったのです。
西方極楽浄土に阿弥陀如来がいる。今生きている人間から離れて、十万億土の永遠に遠いところに、仏国浄土があるというのです。これは何を言っているのかというと自分が生きていると考えている人間から見れば、十万億土の距離があるというのです。永遠というほどの距離が有るというのです。
ところが、自分が生きているという思いさえ捨てればすぐに阿弥陀如来の命になれるのです。阿弥陀如来は譬話ですが、イエスはすべての人を照らす誠の光だったのです。世に来たとは、人間として現れたということです。十万億土の遠くにいる阿弥陀如来と同じものが、この世にやって来た。これがイエスです。
イエスと皆様と違う所は、イエスは自分が生きていると考えなかったことです。イエスは神の命が自分に働いていると考えた。皆様もそう考えたらいいのです。
もし命が自分のものなら、死にたくないのに死ななければらないという、バカなことはないはずです。ところが現実は、死にたくないのに死ななければならないのです。これは命が皆様のものではないことを証明しているのです。
命は絶対に皆様のものではありません。神のものです。それを教えるために、誠の光がやって来たのです。
自分が生きているという気持ちを捨てればいいのです。この気持ちを持ったままで、イエスの命を自分の命とすることはできません。自分が生きていると思っているからだめです。
自分が生きていない証拠は、いくらでもあります。リンゴを食べたらリンゴの味がします。リンゴの味は天然の味です。神がつけた味です。神がつけた味を、神がつけたとおりに味わっています。これは皆様の舌の感覚が、神がつけた味を知っているからです。神の命が皆様の舌にあるのです。
私は二回地球を一周して、世界中の美しい景色を見てきました。オーストラリアのグレートバリアリーフ、南太平洋に浮かぶ美しい島々、ニューカレドニア、タヒチ、イースター島、南米の雄大な山々、美しいカリブ海、カナディアンロッキー、アジアの美しい自然、中近東のぬけるような大空、紺碧の地中海、アフリカのサバンナ等…。あげればきりがないほどの美しい景色を見てきました。
景色の美しさが分かるということは、神の業が分かるということです。そこに命があふれている。それが死なない命です。その命を見て美しいと分かることは、皆様が死なない命で生きていらっしゃるからです。
皆様はなぜ死ぬとお考えになるのでしょうか。
すべてのものを照らす誠の光がやって来た。これが自分の本体であることに気がつけばいいのです。
美しい景色を見て美しいと思えるのはなぜか。自分の中にある命が、景色になって見えるからです。それで感動しているのです。
景色を見て美しいと思えるのは、この世に生まれた後の自分ではありません。生まれる前からある本能性に基づいて見ているのです。この本能性がなければ、景色を見ても理解できません。皆様の本能性がイエスです。これを黙って受け取ったらいいのです。
人間は二重人格になっています。景色を見て美しいと思う自分と、自分が生きていると思っている自分がいるのです。自分が生きていると思っているのは自我意識です。景色を見てきれいだと思うのは、天然自然の自分です。天然自然の自分に帰ったらいいのです。      ′
天然の自分ではなくて、この世の自分を自分だと思うからいけないのです。この世の自分を自分だと思うことをやめるのです。
天然の自分は死なない自分です。この世に生まれてきたのは業であって、この自分を信じてはいけない。業の自分を捨てて、天然の自分に目を向けるのです。そうすると死なない自分が分かるのです。
この世に生まれたことは幻です。これは本当ではないのです。これをよくよく考え
て頂きたいのです。
景色を見ることを観光といいます。光を見るのです。光とは何か。生まれる前の自分です。生まれる前の自分が見たいから、観光旅行をするのです。すべての人を照らす誠の光とはイエスのことであり、又、生まれる前の自分のことでもあるのです。
皆様はこの世に生まれる前に、光と共にいたのです。ですからすばらしい景色を見ると、心の底から感動するのです。犬や猫にいくらすばらしい景色を見せても感動しません。生まれる前に光と共にいなかったからです。
観光するというのは、自分の命を確かめることです。すべての人を照らす誠の光を、黙って受け取ったらいいのです。それを素直に受け取らないのは、この世に生まれてきた自分に執着しているからです。自我意識に執着しているからいけないのです。
自我意識に執着することをやめると、今までの考えが、ころっと変わってしまいます。女性に対する見方も変わってしまいます。性欲の対象ではなくて、女性の真髄が見えてくるのです。女性が観音さんに見えるのです。これは最初に造られたときの女性、骨の骨である女性を意味しているのです。女であることが見えるのです。これが観音さんです。
この世に生まれた自分を捨ててしまうのです。命は自分のものであるという気持ちを捨てる。そうすると、天然自然の自分だけが残る。これが純粋の魂です。
女性は皆、観世音菩薩です。聖書はこれが骨の骨、人間の真髄の真髄と言っているのです。すべての人を照らす誠の光は、皆様の中にいるのです。皆様の客観的存在がイエスです。これを見つければ皆様は死ななくなるのです。ただご自身を客観的に見ればいい。これだけで皆様は死ななくなるのです。簡単なことです。簡単ですから、ぜひこれを実行して頂きたいのです。



五薀を発明したのはユダヤ人

人間の命が何回か生まれ変わるという考え方、いわゆる輪廻転生という仏教の観念がありますが、これは仏教の情報です。輪廻転生するという証拠は、どこにもありません。人間の命から考えて、正当に理論づけることはできません。
仮にそういうことがあったとしても、現在生きている皆様の命を動かすことはできませんし、命を確立するためのプラスにはならないのです。
死んだ後に、自分の命が何かに移るとか、動物になる、鳥になると考えてみた所で、永遠の命が分かるものではありません。
そういうことがあるかないかを論じること自体が、無駄に神経を使うことになるのです。何にもならないことなのです。
命には生(せい)と命(めい)とがあります。生は宇宙にただ一つしかないのです。命は人間が生きている状態を言います。生は私たちが生まれる前からある命ですし、又現世を去ってからも継続するに決まっているのです。生は絶対です。これを知ることが、命を正確に捉えることなのです。
命(めい)はやがて心臓が止まるとなくなってしまうのです。私たちは生(せい)を認識するために、何をどう考えたらいいかということです。無理にとは言いませんが、できたら妄念は捨てたらいいのです。
進化論とか、資本論、フロイドの学説等も同様です。これはユダヤ人が造った妄念です。ユダヤ人は現実に存在する間、物質世界、人間世界、万物が存在している世界を、現実的な真実だと考えたいのです。
こういう考え方は、般若心経で言えばすべて五蘊であって、皆空なのです。進化論を信じたい人は信じたらいいでしよう。やがてユダヤ文明は地球上から抹消されるでしょう。そういうものに、あまり神経をお使いにならない方がいいのです。進化論も輪廻転生も、この世の肉体人間を理論つけただけなのです。命の解明には何の役にも立ちません。
生とは何か。これをお考え頂きたいのです。たくさんの学説が山ほどありますから、それをいちいち勉強していきますと、五百年生きていても足らないでしよう。ですから、必要なことを、必要なだけ勉強することが、効率的な方法なのです。
ダーウィンの理論を承認しても、命には何の関係もありません。理屈を習うだけのことなのです。進化論はユダヤ人が造り出した一つの理屈に過ぎないのです。
般若心経で言えば、現象的に人間が生きているという考えが、間違っているのです。そんなことは、般若心経で言わなくても、分かるのです。
人の命は、心臓が動いていること、呼吸をしていることです。瞬間だけのことです。今という瞬間しか命はないのです。
生の実体は何かと言いますと、今という瞬間です。このほかに命はないのです。皆様の心臓はたえず鼓動を打っています。このほかに命はないのです。皆様の心臓が、瞬間瞬間を捉えているのです。皆様の心臓は最も確実に、今、今を捉えているのです。今を捉える音、働きが命脈です。鼓動です。
人間の生理機能は、今だけ働いているのです。この点医学は大変な考え違いをしているのです。人間の生理に、昨日、今日、明日という継続状態はあります。継続するということと、存在することとは何の関係もありません。継続は存在の伝承です。存在はあくまで瞬間です。
自分が生きているという考えが、根本から間違っています。自分が生きているといなのです。簡単なことです。自分が生きているのではなくて、生きているという事実が、自分として現れているだけのことです。今日の命は、今日だけの命です。明日の命には何の関係もないのです。
砂糖をなめれば、世界六十五億の人間は皆甘いと感じるでしょう。塩をなめれば、皆辛いと感じるでしょう。そのように、人間の生理感覚、味覚意識は、世界中に一つしかないのです。
一つしかない生理機能を、人間は六十五億あると考えている。自分が生きていると考えるからです。もし自分という人間が実在するなら、六十五億の命がなければならないのです。ところが、砂糖が甘いと感じるのは、六十五億人に共通する味覚です。
男も女もない。人間は一人しかいないのです。命は一つしかないのです。だから生というのです。
皆様は固有名詞の自分を信じておいでになります。皆様が信じているのは、個人が生きているという考えです。これが間違っているのです。個人主義は白人の思いつきでありまして、ユダヤ人がフランス革命で流した思想なのです。これが世界中に広がっているのです。個人が生きているという事実はありません。どこかの家庭にいるか、どこかの会社勤めている。どこかの国に住んでいるのです。空気、水、太陽光線の恩恵を受けているのです。そういうものに全く関係がない自分ということはありえないのです。
仏典に「尽天地尽衆生」という言葉があります。人間は天地と共に生きており、多くの人と一緒に生きているのです。そういうものに関係がない純粋の個人はいないのに、個人主義だけが勝手に一人歩きをしているのです。
個人が生きているという事実はありません。生きているということが、個人に現れているのです。生という事実が、固体として現れているのです。しかし、個人が独自に生きているのではないのです。生が主体であって、自分は従体です。従体は主体に勝つことはできません。生きているということがあるからこそ、自分という人間がいるのです。生きているということがなかったら、自分という人間はいるはずがないのです。
人間は何でもないことを考え違いをしています。これは文明のためです。ユダヤ人は個人を非常に尊んでいます。なぜかと言いますと、キリストに従いたくないからです。キリストに反対したいのです。神に反対したいからです。
ユダヤ人は神とキリストが大嫌いです。聖書を正しく捉えることに、ユダヤ人は心から反対している。それが進化論になって現れたり、資本論になって現れているのでユダヤ人はこの世に生きている間が、人間だと思っているのです。これは大間違いです。生は永遠不滅のものです。その証拠を申し上げます。皆様の人格は自分自身のものではありません。 六十五億の人間が、世界に共通する概念を持たなければ、人間生活は成立しません。世界には一つの命しかないのです。
私たちは八十年か九十年の間、一つの命を経験しているのです。個々の命があるのではありません。従って、固有名詞の存在を確認しすぎると、命が分からなくなるのです。自分が生きていると思うと、生が分かりません。万人共通の命が分からなくなるのです。
これはイエスの断固たる主張です。これが分かれば死ななくなるのです。個人がいないということがはっきり確認できれば、その人は死ななくなるのです。
固有名詞の自分がいないということが分かれば、皆様が生きているのは神の実体であることが分かるのです。神の実体を、皆様は自分という立場において経験しておいでになるのです。神の実態を命として経験しておいでになるのです。辛いとか甘いとかいうのは、神の意識がそのまま皆様に伝わっているのです。
皆様が現世にお生まれになる前に、皆様は神と一緒に生きていました。神と一緒に存在していたのです。そのときの神のあり方が、神と一緒にいた皆様に移ってしまったのです。これが皆様の人格です。人間はパーソナリティです。神のペルソナが、人間のパーソナリティになっているのです。これは私たちの霊魂が、生まれる前に神と一緒にいた証拠です。そうでないとすると、皆様の人格はどこから来たのでしょうか。この説明ができる哲学者も宗教家も、世界にいないのです。
ユダヤ人もこの説明ができません。人間になぜ人格があるのか、説明ができないのです。命が一つしかないことが、なぜユダヤ人は気にいらないのでしょうか。
ユダヤ人が間違った自尊心を人類に植えつけたのです。なぜ独立自尊と言わなければならないのでしょうか。これについては福沢諭吉も、答えることができないでしょう。これはフランス革命の妄念が、そのまま日本人に伝達されただけなのです。
自分が生きているという観念は、自分を殺してしまう最も有力な自殺方法なのです。固有名詞の人間が生きているという事実は、社会的にはありますが、人格的には存在していないのです。社会には固有名詞を持った人間ばかりがいるのです。社会的には固有名詞は必要です。生活的には有効ですが、命の実体から見ると国家社会とは何の関係もないのです。人間の命の実体は、本質的にこの世に生きていないのです。
なぜ個別の人間が存在するかと言いますと、人格の認識が千差万別なのです。例えAが神と一つになって救われる。Bが神と一つにならなけれれば、裁かれるものもある。そこで百人いれば、百の人格があるのです。それを捉える捉え方は百人百様にありますが、人格は多用です。
社会生活として固有名詞を使うのは当然ですが、皆様方の魂の問題を考える場合は、個々の名前を使わないで、生きていることを見て頂きたい。生きているという事実、リビングという事実を見て頂きたいのです。砂糖は甘く感じる。塩は辛く感じる。これが生きているという事実です。これが神です。リビング・ゴッドは生きていることが神ということです。リビング・ソールは生きている魂です。生きている神と生きている魂とがあるのです。生きている魂が生きている神をつかまえさえすれば、死ななくなるのです。これは当たり前のことです。これを難しく考えるから、間違ってしまうのです。
仏典に阿弥陀如来が出てきます。阿弥陀如来とは皆様の命の実体です。自分の命の実体が無量寿如来、無量光如来であることを、窟比丘という坊さんが悟ったのです。
無量寿如来とは、人の心臓を動かしているエネルギーが無限という意味です。無量光如来とは人に宿っている理性の働きは無限である上いう意味です。つまり人間は永遠の生命によって生かされているということです。だから阿弥陀如来になったということを大無量寿経に書いています。
皆様と法蔵比丘は同じことです。法蔵比丘は釈尊の別名だろうと思われていますが、釈尊も皆様も同じです。人の実体は皆、阿弥陀如来です。だから、固有名詞は初めから存在していないのです。社会生活上の習慣として、固有名詞を用いているだけなのです。
どうして地球は造られたのか。色経という悪魔の誤った考えを自滅させるために、現在の世界が現れたのです。有形の世界、有形の人間が存在するというのは、色薀という悪魔の妄念を自滅させるためなのです。
これに気づけば、人間は絶対に死にません。皆様が生きておいでになることが神なのです。神が皆様の格好で現れているのです。これをつかまえたのがイエスです。イエスという名前は、神が自分の実態だという意味です。神が自分と共にいる。神が自分という格好で現れている。これがイエスの名なのです。
皆様が生きていることを客観的に見て頂きたい。主観的に見ないで、客観的に見て頂きたい。それだけでいいのです。人が生きている命を、冷静に、平明に、綿密に見ていく。そうすると分かるのです。
客観的な命を確認すると、生きていることが神だということが分かるのです。だから死なないことが分かるのです。神を自分という格好で、経験しているだけなのです。
これに気づきさえすれば、心臓が止まっても死にません。神は死なないのです。死なないのです。
人間はいないのです。ただ神の子がいるだけなのです。現に皆様の五官の感覚は、神の感覚をそのまま示しているのです。砂糖が甘いというのは、神の感覚なのです。
砂糖に甘いという味をつけたのは、製糖会社ではありません。天然自然がつけたのです。皆様は、天然自然の味をそのまま味わっているのです。
神が砂糖を甘くしたのです。神の味を人が理解することができるから、神のペルソナと人のパーソナリテーは一つになれるのです。
皆様の五官の働きを純粋経験によってご覧になれば、個人がいないことが分かります。神が皆様の五官になっているのです。だから、自分がいいとか悪いとか、分かるとか分からないとかを、問題にする必要がなくなるのです。もっと大きい立場から、命という立場からご自分をご覧になれば、絶対に死なないことがよく分かるのです。
主観的に自分を見ずに、客観的に見るだけです。イエスがこれを実行した。そして、彼は見事に復活した。イエスは自分は神の子であると信じたので、一度は死んだが、死ぬべき者ではないことがわかつて、復活したのです。皆様もこれを実行して頂ければいいのです。