ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月16日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第6回

第3部 原子爆弾と戦後の起源 (その1)

 1941年大西洋憲章の連合国の理念は勝つためには次第に変質(劣化)するということを第2部で見てきた。著者は理念が大義化すると言います。1941年の戦争開始から終戦まで、米英協力の下に原爆開発は極秘裏に進められてきた。著者は連合国の無条件降伏要求と原爆使用には関係があるのではないかと問いかけます。無条件降伏政策とはそもそも民主主義原則にもとる奴隷化である。まず無条件降伏政策は1943年1月14日米英首脳による「カサブランカ会議」後の記者会見でさりげなく明らかにされた。1968年外交文書の公開によってその舞台裏が明らかになった。1942年10月北アフリカでの対独作戦会議の準備過程で、チャーチル首相は米英ソの軍事階段を提案したが、ルーズベルト大統領はナチスの攻撃をスターリングラード攻防戦で必死に耐えているソ連を除いて、ドイツ崩壊時に適用する試験的な手続きについて相談したいことをチャーチルに提案しました。その裏には原爆開発の進展があったからだということです。12月2日米国シカゴ大学のフェルミが「マンハッタン計画」で核分裂連鎖反応実験に成功したいう報告をルーズベルトは受け取ました。つまり予測していたより早くドイツを打倒できそうなので、ドイツ降伏条件の詰めを行いたいという意味です。無条件降伏政策は、ルーズベルトの戦争政策が、世界の民主原則と正義と市民的自由を枢軸国から守るという大西洋憲章の戦争目的を実現するため、とにかくも勝利し、戦後の圧倒的優位を買う保するための手段へと変質したことを示します。大西洋憲章では無条件降伏策は想定していません。原爆を使用する予定の米国が無条件降伏政策を必要としたのです。事態は政治家達の思惑通りには進みません。開発に関与した科学者たち、なかでもデンマークの理論物理学研究所長の二―ルス・ボーアによる米英首脳への働きかけがあったのです。1944年6月ボーアはチャーチルを訪問し、8月にはルーズベルトとの会見を行い、①核開発情報は本来秘密ではありえない。②大国間の調和のとれた協調と国際協力機関の設置を訴えたのですが、両首脳の受け入れる所とはならなかった。9月米英は「最高機密」とし、ボーアを監視する覚書を交わしました。この会談で「日本にも使用するだろう」ことも確認されたという。科学者側では1944年7月アーサー・コンプトンが原子力将来計画「ジェフリーズ委員会」の報告書を提出し、原爆開発の必要性は認めるが、国際的管理機構の設置を強く要求した。1945年の6月シカゴ大学で原爆開発にかかわった7人の科学者による「フランク報告」がある。原爆の使用が科学の手を離れ政治的課題であることに科学者は容喙できないが、市民として意思表示するというものです。原爆使用の直前7月に、原爆開発に関わったシカゴ冶金研究所シラードが研究者76人の署名を得てトルーマン大統領に要請書を出しました。対日原爆使用が準備されているが、日本への事前通告と幸福への機会を与えないままの原爆投下は正当化されないし、米国の道徳的責任は大きいというものです。しかしこの要請書はトルーマン大統領まで届きませんでした。無条件降伏と東京裁判によって、原爆使用の同義的責任を覆い隠しましたが、原爆は国連創設と憲法第9条をもたらしました。(酷い反面教師ですが) さて次に原爆投下が落とした方(米国)、落とされた方(日本)に深刻な社会的・思想的影響を与えました。まず投下した米国における影響を見てゆきましょう。トルーマンは回顧録の中で次のように述べている。「1945年の秋、日本の降伏と同時に、戦時体制から平時体制に移行するときまだやるべきことがあるにもかかわらず、多数の官公吏が民間へ帰ってしまった。戦時中の役人たちは、自分たちに対する批判を恐れていたからだ。批判の対象は原爆投下のことでした。バーンズ国務長官、ウォーレス商務長官、ステイムソン陸軍長官らです。この3人はいずれも原爆の国際交渉をめぐる対ソ交渉に深くかかわっていました。1945年4月12日ルーズベルト大統領は激務のなか63歳で急死しました。バーンズ国務長官、ステイムソン陸軍長官の二人はソ連に原爆の情報を共有することで国際秩序を確立する「宥和策」を、トルーマン大統領の意向を無視した形で進めため、ステイムソンは解任され、バーンズは辞任しました。二人はもともと頑強な反共論者であったのですが、原爆投下という現実を見て「回心」してソ連宥和策に転じました。トルーマン大統領は無条件降伏追及派でした。トルーマンとぶつかったバーンズは、国連の原子力委員会に国務次官のアチソンとTVA総裁のリリエンテールを責任者としてその創設に尽力しました。アチソン・リリエンテール報告は科学者オッペンハイマーの手になるもので、科学者の良心が示された最後の提案になりました。3月「トルーマンドクトリン」の発表で東西冷戦が始まり、トルーマンは1947年末に国連原子力委員会構想はとん挫しました。トルーマンはステイムソンの提言にも、バーンズの反対行動にも動かされずに対ソ強硬路線遺進みました。米国政府内の動揺は1年半で終息し、原爆投下による「覚醒」は捨て去られました。原爆の投下は政府内のみならず米国の国民内に大きな衝撃を与えました。一方では熱狂的な歓迎・歓喜となり、ギャラップ世論調査では85%が賛成、反対は10%以下でした。同時に米国社会の道義的責任と良心の動揺と懐疑が起ったのです。それは米国社会の最も保守的なキリスト教会の信仰の基底部で起きたのです。反共の仕組みを作ったダレスが懸念を表しました。1946年3月キリスト教会連邦協議会の22名が「倫理的に弁解の余地はないと言明しました。さらに保守・リベラルの双方から批判が出ました。そこで米国社会の動揺に反論する意見がハーバード大学総長のコナント氏を動かし、コナント氏は政府・知人に働きかけ作業チームを組織して、1947年2月退役した陸軍長官だったスティムソンの寄稿文「原爆使用の決断」を発表し、原爆使用批判論に効果的な一撃を加えました。「予定されていた日本上陸作戦を回避し、百万人以上の米軍兵士の犠牲者を出さないために、原爆使用という選択肢が最も有望であった」とするものです。ソ連の参戦がなくとも、原爆を使用しないでも、B52による本土爆撃で日本は間もなく降伏することは、ソ連を介した日本の終戦工作でも明らかだったことには一切触れていません。これ以降「原爆神話」ともいわれる原爆投下に関する公式見解が、米国社会に行き渡りました。

(つづく)

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