ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 小保方晴子著 「あの日」 (講談社 2016年1月)

2017年04月29日 | 書評
STAP幹細胞問題をめぐる前代未聞の理研ODBスキャンダルはどうして起こったのか 第4回

2) STAP幹細胞研究とネイチャー論文(アーティクルとレター)のまとめ(山梨大学と理研ODB)

 2012年3月より、若山研究室では急いで幹細胞株化の論文を仕上げるよう、研究室メンバーをフルに使って良いことになった。未承認のままヒト細胞を使った実験も先行させることを指示された。幹細胞株化実験と並行して、体細胞にストレスを与えるとOct4陽性細胞塊ができ、その細胞塊からキメラマウスができるところまでを論文にする作業が指示された。このように急に若山先生から論文投稿を急ぐために、実験や論文へのメール指示が多くなった。通常の科学雑誌でh論文はレビューワーに回され、ネイチャー、サイエンス、セルといったトップジャーナルではレビューワーに回す前に第1回目のふるいを掛けほとんどは不採択となる。理研CDBでは若手PI(主任研究員)には2名の経験豊かな幹部研究者がコンサルティングGD(グループリーダとして、相談に応じることになっている。若山研のGDは西川伸一先生と相澤慎一先生であった。西川先生はOct4陽性細胞になった細胞に遺伝子再構成(リンパ球ではTCR再構成という)があるはずだという助言があり、実験の結果TCR再構成を示すバンドが確認された。この実験結果を追加してネイチャーに投稿、続いてセルに投稿したが結果は不採択であった。若山先生より、スフェア―細胞からのキメラは胎児だけでなく胎盤も形成するようだという結果を受けた。この発見はスフェア細胞がES細胞の多能性を超える分化能を有していることを示唆していた。若山研では論文のストーリーに合わせた実験計画が示され、幹細胞株化された細胞実験はどんどん進められた。こうして若山先生はSTAP細胞からES細胞様の細胞株と、キメラマウスを作製した時にSTAP細胞と同様に胎児と胎盤形成能を持つ性質のあるF1幹細胞の2種類の幹細胞株の樹立したことになった。次々とクローン化された細胞株が提案され、それを支持する実験が進められる中で小保方氏は自分の思いとかけ離れてゆく違和感を覚えたという。2012年8月若山先生は幹細胞の特許申請手続きを開始され、若山先生自身に51%、小保方氏に39%、バカンティ氏と小島氏の5%づつと配分した。春から投稿してきたスフェア―論文はサイエンスからも不採択となった。若山先生は「同じ論文は2度投稿することはできないので、幹細胞株化の論文を加えて2報を、一番コメントが優しいネイチャーに投稿しよう」と提案され、かつES細胞の混入による可能性を否定するため「ES細胞は同時に培養していない」という記述を加えた。2012年10月、iPS細胞のノーベル賞受賞の発表があった。この発表は若山先生に強い衝撃を与えたようで、ヘンな言動が見られた。若や先生の実験にはコントロール実験がなく、ストーリーに合うデーターのみを採用し、合わないデータは無視しるという姿勢で、ストーリーに向けてがむしゃらに走るという態度であったと小保方氏は述べている。小保方氏自身は再現することができない幹細胞株化の実験補助に翻弄され悩んでいたという。科学研究では最初に発表された論文のシニア―オ―サ―が第一発見者と認知される。バカンティ先生がシニア―オ―サ―となるスフェア―論文と若山先生がシニア―オ―サ―となる論文の同時投稿ではハーバード大学の先行性が薄まること、そして特許配分をめぐって著者間に不穏な空気が流れていたという。小保方氏は若山先生の都合に振り回され嫌気がさし「アメリカに戻りたい」と友人に打ち明け、東京女子医大の大和先生やハーバード大学の小島先生からは、山梨大学にはついてゆかない方がいいという助言がなされた。2012年10月小保方氏は若山研を離れ。アメリカに帰る決心をした。

 今後の研究方向を話し合うためにアメリカに出向いたとき、理研の西川副センター長より「小さな研究室のPIのユニットリーダーに立候補しないか」という誘いがあった。バカンティ先生は理研のPIなら応援するという賛意を戴いた。21012年12月21日に採用面接を受け、笹井先生を論文指導者として紹介された。これが運命的(いいか悪いか知らないが)笹井氏との出会いとなった。笹井先生の論文方針は「現在投稿している論文をアーティクルとして、若山氏が進めている幹細胞株化をレターとして同時にだす」ことになった。笹井氏はネイチャ-の論文を投稿して拒否にあったことは一度もないという論文作成の天才ともいわれたいた人である。そして12月26日細胞のネイミングを「SATP(刺激惹起性多能性獲得)」細胞という提案があった。年末年始はアメリカハーバード大学で実験をした後理研ODBに戻って論文書き直しが始まった。年初めに若山氏は山梨大学に移籍されて理研を去った。そして小保方氏は正式に理研の職員となった。小保方研究室にはアドバイザーとして西川先生と相澤先生の二人が付いた。3月11日、出版社に投稿を行う責任著者として、アーティクルの責任著者はバカンティ先生、レターの責任著者は若山先生のみであるが、窓口と責任著者として小保方氏も責任著者に加わって、ネイチャーへのweb投稿を行った。4月4日ネイチャーより「リバイス」(訂正 ただし6か月以内)の返事が来た。丹波先生も加わって笹井研でリバイス方針会議が開かれた。リバイスの間に特許配分に関する著者間の折衝が行われたが、ハーバード大学と若山先生との間の溝は埋まらなかった。オ―サ―シップという論文の著者の順番について、論文の第一栄誉を与えられるシニアオ―サ―(ラストオ―サ―)については、アーティクルはバカンティ先生、レターは若山先生となった。要求されたリバイス内容は若山先生関係のSTAP細胞株樹立のものが多かった。小保方氏は何度もSTAP細胞株樹立の実験を行ったが再現することはできなかったという。笹井氏がレター論文著者に加わってほしいという若山先生の依頼があった。若山先生が笹井先生に論文化の主導権を渡すことは、若山先生が論文への責任を放棄するように小保方氏には見えた。またネイチャー編集部よりアーティクル論文のSTAP細胞株化のデーターの一部を加える様にという指示が出された。小保方氏自身が再現に成功していない細胞株化が論文の最後を飾ることになり、小保方氏は戸惑った。2013年4月7日ネイチャーへの修正論文を提出し、次世代シーケンサーによる遺伝子解析データを追加して、11月15日コメントに沿った再投稿を行った。2013年12月21日、ネイチャー誌より正式に論分のアクセプトの知らせが来た。受理から短期間での出版、海外メディア向けの記者会見、そして理研CDBの記者会見の準備があわただしく行われる中で、小保方研究室の立ち上げとスタッフの募集も行われた。2014年1月28日、13時より国内記者会見、23時より海外メディア記者会見が行われた。国内記者会見の司会は笹井先生、小保方女史のプレゼンテーションが行われた。笹井先生によるiPS細胞との比較説明が分かり易かったようで、報道ではiPSよりも簡単に万能細胞ができると大きく紹介されることになった。29日の夜から報道合戦が始まった。どこの世界のことかと思うような違和感を覚えたと小保方女史は振り返っていう。

(つづく)



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