ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文芸散歩 今野真二著 「北原白秋ー言葉の魔術師」 (岩波新書 2017年2月)

2017年11月18日 | 書評
童謡から短歌・詩など様々なジャンルで活躍した白秋の言語空間の秘密 第4回

3) 歌集「桐の花」のころ   「かわたれのローゼンバッハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし」 「桐の花」より

明治44年(1911 26歳)ごろの白秋の生活は実家の破産によって困窮し、母から仕送りの小判を換金して生活をしていたようだ。しかし明治43年は白秋は次々と作品を発表して充実した成果をあげ、詩人としても歌人としても認められていった。この年に「思い出」が出版され、上田敏はこれを激賞した。白秋は「思い出」は私の童謡の源泉であるといった。抒情小曲集という副題に見るようにこの本のキーワードは「抒情」である。童謡もこの抒情に流れ来る一つである。室生犀星は大正7年第2詩集「抒情小曲集」で抒情を「善良や善美と反省」のキーワードで捉えている。伊藤新吉は1969年の「抒情小曲論」において、「抒情は近代詩の 一領域として 小さい作品であるけれど詩的実質と呼べるものを内包していたが、大正末期には消滅した」という。大正2年「桐の花」が刊行された。本の装幀がパンの会の全盛期の詩と絵画の接近を示しているだけでなく、活字面の構成、挿絵、体裁、包装、用紙のすべてに著者の創意がみなぎっていた。収録された作品の官能、感覚が悉くこの本の体裁・装幀 と寸分なくマッチしていた。つまり本自体が芸術品で会った。「桐の花」のタイトルページに「抒情歌集」という副題がついている。短歌集の合間に「小品6篇」と呼ぶ散文詩風の文章(詞書きに相当)が埋め込まれている。「小品5篇」があることによって、短歌は凝縮の美しさを発揮し、短歌という表現形式(器)がどういう者かを感じ取ることができる。 白秋は「あたらしき詩を書かんとする人々に」と題して「詩となるべき材料と、散文となるべき材料は根本的に違う。象徴詩の意味は単に伝統的な言葉では言い表すことができない複雑な心境をそのままに気分の上に言い表すことだ」と言います。しかし白秋はどのような器(詩・短歌・散文)にも同じ材料を言い換える才能に優れていた。つまり器にこだわらない性格でした。大正元年白秋は人妻松下俊子との恋愛事件で姦通罪という罪で告訴された。二週間市ヶ谷の未決監に拘置され、弟の尽力で示談が成立し釈放された。翌年大正2年に「桐の花」が刊行されたのだが、「桐の花とカステラ」 の、「古い小さい緑石」と、「チャルメラ」という抒情イメージがキーワードになる。このイメージは「邪宗門」や「思い出」、「東京景物詩」に収められた作品にも形を変え器を変えて使われ、その度毎に輝きを異にした作品となっている。 赤と黄は「邪宗門」を彩る色彩であるが、「赤く赤く狂える椿」というイメージを大事にしている。 白秋はイメージとなる言葉を繰り返し添削している。添削をしながらだんだんいい形に近づいているのか、ぐるぐる回っているのか一概には言えない。白秋の「心的辞書」には、あることを表現しようとしたとき次々に詞が浮かび上がってくるようである。中野重治は1964年「斎藤茂吉ノート」で、「桐の花」に収められた 歌を評して「白秋には、気分、風情、けはいが先に立つ」と述べた。雰囲気(観照)こそが白秋のキーワードだったようだ。物と我の間に立つ気配であり、物と物の間の気配である。そして中野は「斎藤茂吉は強い打楽器の音楽で、白秋は柔らかい繊細な管楽器主体の音楽である」 と述べた。そういう意味で白秋の歌は理性的というよりは感覚的であるが、私小説的告白や自然主義的文学館とは無縁であったといえる。

大正2年1月白秋は東京から居を三浦半島の三崎に移した。離婚した後胸を病んだ山下俊子を救うため正式に結婚して三崎に招いた。約1年間三崎に住んだ。歌集「桐の花」が発刊されたのが大正2年であり、この歌集はやはり山下俊子の影が濃厚である。「桐の花」の「哀傷篇」の扉ページには白秋自筆の挿絵が「罪びとソフィーに贈る」と書かれているソフィーとは山下俊子の愛称であった。この「事件」で白秋は無罪放免されたが、むしろその後に白秋は苦しんだ。「桐の花」の「小品六篇」にある「白い猫」のイメージは、「寂しい闇の核心を凝視しながら、更に新しい霊魂の薄明を待つ」という意味である。三崎から小笠原への療養生活、そして俊子との離別を経て江口章子との結婚までの時期が「汚され」、「滅びむ」世界からの回復期であった。三崎での哀愁を歌った「三崎俗調」、「三崎ノート」などを発表したが、短歌26首が大正4年の「雲母集」の「三崎哀傷歌」に収められている。「小品六篇」にある「白い猫」の扉ページに描かれた黄色いタンポポの花は、友人中嶋鎮夫の自殺に関連した赤い血につながり、タンポポ黄→血→赤→夕日にイメージが展開した。白秋は「雲母集」巻末に雲母集は大正2年から1年足らずの三崎における生活の所産であると述べている。「静かな生活は我が人生のなか最も重要なる一転機をなした。小児のように歓喜に燃えた心が次第に四方鬱悶の苦しみとなり、ついに豁然として一脈の法悦味を感じ得た」というほど重要な時期であった。大正3年俊子と姉妹そして白鳥らは、俊子の結核療養のため小笠原父島に転居したが、島民が肺病を忌むため4か月後には島を離れ東京に戻った。「三崎俗調」(歌謡曲)の作品の代表が有名な「城ヶ島の雨」である。「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる。・・・」 この歌は大正2年梁田貞が作曲し有楽座で新作歌謡の発表が行われた。同じような「三崎俗調」には「雨中小景」、「三浦三崎」などが創られ「畑の祭」の収められた。短歌には「澪の雨」6首が作られた。これらの歌謡、詩、短歌には同じイメージの連鎖がある。この場合は歌謡→詩→短歌という器で次々とつないだ。「言葉の魔術師」白秋の面目が如実に表現されている。大正3年東京に戻った白秋は俊子と正式に離婚し、「地上巡礼」、インド更紗第1輯短唱集「真珠抄」、第2輯「白金之独楽」を発刊した。大正4年白秋の弟鐡雄と雑誌「アルスARS」を創刊した。白秋は「真珠抄」で短唱という形式を試行した。白秋はどのように区切るかということ自体が既成形式を離れた「独自の創見」であるとその余言に書いている。俳句なら5・7・5(17拍)、短歌なら5・7・5・7・7(31拍)である。白秋は36拍や45拍を試みた。そういう意味で短唱とは詩と短歌の中間的な形態であるといえる。自由律俳句の萩原井泉水はこれに注目した。白秋の「真珠抄」、「白金之独楽」、「雲母集」の3冊の詩歌集に共通するイメージは、晩秋、落日、吐息、赤い酒であり、これを「金色化」と呼ぶ。このイメージの連鎖は室生犀星、萩原朔太郎にも共有されている。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿