ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月09日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第1回

序 (その1)

 奈良時代の風土記については、三浦祐之 著 「風土記の世界」 (岩波新書 2016年4月)に概要を記した。『風土記はそれぞれの国で編まれて中央律令政府に提出された書物であるが、今は5か国の風土記と後世の書物に引用されて伝わる「逸文」が遺るに過ぎない。記録されているのは、土地で語られた神話や土地の言われ、天皇たちの巡行、土地の動植物、耕作地の肥沃状態などである。雑多でストーリー性に乏しいことから、退屈で体系的に理解できないなど不満が多い書物であるが、それなりに面白い表現もあって興味は尽きないと著者三浦氏は言われる。「風土記」とは8世紀初頭に地方の国々が中央律令政府に提出した報告文書で、正式には「解」と呼ばれる。「読日本紀」によると、平城京へ遷都が行われて3年目の713年(和銅6年)に中央律令政府(奈良王朝)が風土記の撰録の命令を出した。報告すべき内容は①郡や郷の名前を付ける、②特産品の目録を作成する、③土地の肥沃度を記録する、④山川原野の名前の由来を記す、⑤古老が相伝する旧聞遺事を載せる の5項目であった。この命令には「風土記」という名はない。本来は律令政府が下級官庁に出す通達は「符」、地方が中央へ提出する報告書は「解」と呼ばれる。常陸国風土記の冒頭には「常陸国司解」と書かれている。権力簒奪に明け暮れた飛鳥王朝(ヤマト王権)以来、7世紀初頭推古天皇(聖徳太子摂政)の斑鳩王朝が初めて歴史意識を持って律令国家に整備されてゆく過程で、日本書紀や風土記は必要不可欠のことであった。当時の東アジア情勢は中国大陸で隋という強大な王朝が生まれ、唐に受け継がれ、新羅が朝鮮半島を統一した。島国の豪族連合から、唐に倣った中央集権的な統治機構を持つ国家に生まれ変わるため、それに必要な法整備を輸入した。当時の日本はある意味で周辺国家の国際色豊かな国であり、ネイティブな中国人や朝鮮人が活躍していた時代である。現実的な法整備の他に、イデーとしての史書、経済としての貨幣、政治中心としての都と地方、それを繋ぐ官僚機構、意思伝達のための言語(漢字)が次々に導入された。律令国家への整備において、法と史は車の両輪のように企画されてゆく。刑罰(律)を伴う強制力を持つ法(令)がまず機能しなければならいが、自分が国家に所属し国家によって守られているという幻想(宗教・共感など)を抱くことで国家は安泰となる。それは国家の歴史である。689年律を持たない飛鳥浄御原令を受けついで、大宝律令ができたのは701年であった。こうして名実ともに律令国家が成立した。その後大宝律令を補う形で養老律令の選定作業が718年から行われ、藤原不比等の死後722年に完成した。律令編纂事業と並行して行われたのが720年に騒擾された正史「日本書紀」である。続日本紀にはこの正史を「日本紀」と呼び系図が存在したらしい。お手本の中国では「漢書」以降の正史は、紀(本紀)・志・列伝の3部からなり、署名は「・・書」とよぶ紀伝体の形式が一般的である。正史を簡略化した歴史書を「・・紀」と呼ぶが、日本「書紀」という書名はない。従って何らかの理由で志・列伝を欠いたまま編纂事業が中断して本紀のみが残された簡略形式となって、「日本書紀」という呼び方が定着したと思われる。古くは推古天皇の時代に「憲法17条」が604年、「本紀」が620年に編まれたとされるが、事実かどうかは別にしてこの頃に歴史書の編纂が始まったようだ。古代律令国家の起源が聖徳太子にあり、それが645年乙巳の変を経て中大兄皇子(天智天皇)に受け継がれたという歴史認識が存在した様だ。つぎに672年壬申の乱をへて大海人皇子(天武天皇)に律令国家体制は引き継がれた。日本書紀によると681年天武天皇は帝紀及び上古の諸事を編纂を命じた。自らの帝位を正統化するためである。その成果が大宝律令と日本書紀であった。そこに古代国家は完成した。日本書紀は紀しか存在しないのだから未完の史書である。列伝は全く存在しなかったのかというと、その痕跡となる材料は存在したというべきであろう。「十八の氏の祖の墓記」、「懐風藻」、「日本武尊」、聖徳太子の伝「上宮正徳法王帝説」、藤氏家伝の「大織冠伝」、神仙小説「浦島子伝」などは列伝を思わせる。「列伝」は皇子や臣下の事蹟の集積である。「志」は王朝の治世の記録である。史や列伝が縦軸の時間だとすると、志は横軸の空間であろう。例えば「漢書」は十志からなる。律暦、礼楽、刑法、食貨、郊祀、天文、五行、地理、芸文であった。地方に関する地誌的な記録の収集作業は日本書紀にも見られる。諸国に向けて発せられた史籍の編纂命令は間違いなく「志」の一部として「日本書」地理志が目的であった。しかし何らかの事情で日本書の構想がとん挫し、上申された「解」のいくつかは「風土記」という名前を与えられて後世に残ることになった。』

(つづく)
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