ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 本間 龍著 「原発プロパガンダ」 〈岩波新書2016年4月)

2017年07月18日 | 書評
電力会社と政府による原発推進宣伝の国民洗脳テクニックの数々 第4回

1) 1968-1979年の原発プロパガンダ

日本における原発の始まりは、1970年の敦賀原発(日本原子力発電)、美浜原発(関電)、1971年の福島第1原発(東電)の営業開始からである。敦賀原発の連合広告(電力会社と小路会社)が1968年福井新聞両面見開き(30段)に掲載された。この頃の広告媒体は新聞が圧倒的に多かった。県紙といわれる地方ローカル紙が世帯普及率が50%を超えていた時代のことである。元請け工事会社が金を出して掲載する竣工記念として地方紙を飾った。60-70年代の原発立地県の地方紙に掲載された原発広告の段数は、1970年で166段、74年で332段、79年で780段と次第に広告段数が増加していった。片面全面広告は1970年代ではショッピングモール、自動車、パチンコ店などに限られており、原発広告は地方新聞社の貴重な収入源となった。その後原発広告は、関連企業だけでなく電事連や政府広報も抱き合わせで掲載され、地方新聞には経営の柱となって止められない仕事になった。記事なのか意見広告なのかいまひとつはっきりしない形態であった。福島でも1971年の東電福島第1原発の稼働開始とともに、原発広告が福島民報と福島民友(両紙合わせて60%以上のシェアー)に掲載された。この2紙の論調に差はなく、原発は安全である、立地に伴う電源三法交付金で地元は繁栄できるというものであった。スポンサーは原発を管理する東電と、福島に電力供給する東北電力の2社共同出資であった。福島民友が1975年11月に「原発を見直す」という連続企画を立て、ひたすら原発の安全性を強調した。また福島民報も1978年2月に「エネルギーと新電源開発」という連載記事を掲載し、石油危機への対応と経済的恩恵を強調した。全国紙の朝日新聞と読売新聞は、1974年石油ショックで広告が激減した背景を受け、意見広告の形で掲載を開始した。1974年7月6日より、朝日新聞に10段広告で原子力文化振興財団がスポンサーになって、「70年代、新エネルギー正規の始まり」というタイトルで毎月1回掲載され、計14回シリーズとなった。執筆陣はほとんどが大学教授で原発の構造や安全性を語った。使用済み核燃料の最終処分をどうするかは当然問題にされたが、そのうち何とかなるだろう式の無責任きわまる原発を、最終処分場のないまま40年間も原発を運転した責任は大きい。1976年ノンフィクション作家の田原総一郎氏が「原子力戦争」を刊行して電力会社と広告代理店の癒着を告発した。テレビ東京で連載していたら、東電と組んでいた広告代理店の電通から、スポンサーの圧力で連載中止か、辞任を迫られたという。スポンサー探しを全面的に電通に依存していたテレビ界としては、スポンサーを降りるという言葉に震え上がったようだ。1970年に稼働した福井と福島の原発はその後次々と原発を新設した。1970年代に福井で8基、福島で6基、島根・玄海・浜岡・伊方で5基、合計19基が新設された。1979年3月28日アメリカのスリーマイルズ島で起きた事故は、初めての大規模事故となり政府と業界に衝撃を与えたが、福井や福島での記事の扱いは少なく、むしろ心配を打ち消すかのように広告出稿が増加した。1979年の1年で広告は200段以上と突出した。福島ではこの年稼働した原発は6号機のみであったが、福島民友・民放はそれぞれ「福島第1原発完成特集」といった120段(8ページ)の大広告を打った。1970年代の広告掲載段数の合計は3103段であった。その内容は、原発はすでに全電力の1割を担っている、安全確保は万全、電源三法で町は潤った、今後も原発があれば町は豊かになるという、原発信仰ともいえるっ提灯広告である。実は潤ったというのは大熊町と双葉町だけであるが、電源三法は一定期間だけの交付であり、それが切れると町の財政は途端に苦しくなるので、原発増設に頼らないと生きてゆけないという薬物依存患者になっていた。

(つづく)
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