ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月14日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第4回

第2部 世界大戦とは何か (その2)

 この節では、第2次世界大戦の特徴を分析する。第2次世界大戦がはじまったとき、それは連合国対枢軸国といった二項対立のイデオロギーの戦ではなく(そもそも枢軸国側には共通のイデオロギー理念といったものは最初から最後までなかった、場当たりの野合に過ぎなかった)、イデオロギーが仮象でしかないことが明白な現実があった。この戦争は1939年から始まりますが、日本が最初から大きく関与していた。1939年5月日本は内モンゴルのノモンハンでソ連と境地戦争を行います。小手調べとは言えない大規模な総力戦になり日本軍は完璧に敗北します。この事実は日本国内では隠蔽されました。この前に日本は日独防共協定を足場にしてソ連をドイツと挟み撃ちにしようと持ちかけますが、ドイツは独ソ不可侵条約を結び、9月にポーランドに進攻しました。そしてここから第2次世界大戦の始まりとなります。前の年1938年に英国・フランスは反共を標榜するドイツを対ソ連共産主義の防波堤にしようと画策しますが、ヒトラーもそしてスターリンもイデオロギーを信奉するより、現実の利害(国益)だけで動いていました。しかし英米はこの戦争を理念に基づく世界戦争だと認識していました。もともと孤立主義(モンロー主義)の米国外交を参戦に導くには国民を納得させる理念が必要だったからです。戦争の始めドイツ軍の進行はすさまじく、40年4月よりベルギー、デンマーク、フランスに進出し、イタリアもドイツに合流して英米に宣戦布告しました。その間ソ連はポーランドに侵入。フィンランド、バルト3国を占領しました。ところが1941年6月になると、突然ドイツはソ連に進撃を開始し、自由主義陣営/共産主義ソ連/枢軸国3国同盟陣営の三すくみ状況が、自由主義陣営+ソ連共産主義陣営/三国同盟陣営の二項対立の構図に変わりました。英国はドーバー海峡を挟んで米国の参戦を頼りにドイツの空襲に必死に耐えていました。1941年8月米英二国が「大西洋憲章」を発表しました。戦争目的とは次に則るものとするというような喧嘩のやり方、仁義に相当します。第1次世界大戦後の国際秩序は英米二国を中心に作り上げられました。米国は第1次世界大戦には国内の反対で参加しなかったものの、ウイルソン大統領の提唱した国際連盟を作りました。枢軸国、およびソ連が次々と国際連盟を脱退・除名するなかで、英米は現在の国際秩序を担っているという自覚がありました。そこに、米英二国と他の国々を隔てる、国際コミュティに関する大きな認識の落差があったのです。米英二国が戦争遂行のために「世界戦争」の定義を行いました。国際秩序をつくりあげているのは理念である、その理念を味方につけてこそ戦争に勝利することができるという信念です。彼らの作った「大西洋憲章」は、戦争目的と国際社会への誓約を次のようにまとめました。①合衆国と英国の領土拡大意図の否定、②領土変更における関係国の人民の意志の尊重、③政府形態を選択する人民の権利、④自由貿易の拡大、⑤経済協力の発展、⑥ナチ暴政の最終的破壊と恐怖と欠乏からの自由の必要性(豊かな生活)、⑦航海の自由、⑧一般的安全保障のための仕組みの必要性であるが、実はこれは第1世界大戦中に提唱されたウイルソンの「平和14か条」を踏襲しています。こうして米国は参戦の国民的支持を取り付け、1941年12月8日の日本の真珠湾攻撃を契機として、対日独伊の宣戦布告を行った。ルーズベルトとチャーチルは瞬く間に連合国という巨大戦争遂行グループをつくりあげ、1942年1月1日の連合国共同宣言には26か国が署名し、1945年3月には47か国にまで拡大し、それが国際連合の母体となったのである。第2次世界大戦は連合国と枢軸国がイデオロギーを掲げてブツカッタ世界戦争と理解されていますが、「自由主義」と「全体主義」という二項対立概念です。「国際秩序」と「新秩序建設」(日本では大東亜共栄圏構想)との戦いとか、「もてる国」と「もたざる国」との戦いともいわれています。第1の「自由主義」と「全体主義」との戦とは。戦争が終ってからの複雑な戦争の性格を隠ぺいするために作られた後付け理由のように思われます。完全な意味でのイデオロギー戦争とは1947年に始まった東西冷戦からです。戦争の「再定義」のために、あのニュルンベルグと東京での国際戦犯裁判が必要だったのです。問題は「枢軸国」には共同性が皆目なかったことで、かつ共通のイデオロギーは到底存在していなかった。イタリアが元祖の「ファッシズム」とドイツの「ナチズム」(反ユダヤ主義ナショナリズム)とは同じものではなかった。日本の「天皇制軍国主義」とも縁がなかった。したがって「自由主義」対「ファッシズム」とは意味のないネーミングでした。1940年の日独伊三国同盟には通告の共有もなく、他国が攻撃された場合の参戦の義務もない緩やかな実体のない軍事同盟であった。三国防共協定も1939年ドイツがソ連と不可侵条約を締結したため無効となってしまった。英米の既得権限への挑戦「新秩序建設」だけが共通の心情であった。米英ソの連合国間の戦争協力は物資の援助、首脳会議に基づく大掛かりな共同作戦行動が行われているのに、枢軸国間には首脳会議の例はなかった。枢軸国の各国の軍事行動には何の相談と協力もなく、宣戦布告さえ互いに通告していなかった。つまり連合国対枢軸国という1対1の戦争ではなく、連合国対ドイツ、連合国対日本、といった各個撃破戦争に過ぎなかった。理念・イデオロギー上からいえば、米英仏の民主主義・自由主義経済体制に対する、日独伊の非民主的全体国家主義のほかに英米が最も恐れている共産主義の鼎構造があったというべきです。

(つづく)
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