ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月09日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜 第5回

2) 権力をどう変えるか
(2) 権力と暴力


主体間関係として、暴力によって人を脅していうことを聞かせることと、権力によって人を動かすこととどう違うのだろうか。これは2者間関係論としての権力論に付き纏う問題である。権力論として非常にわかりやすい論であり、法が罰則を設けて施行を実効あるものにするのも最終的には説得ではなく暴力であるという論が成り立つ。暴力によって意図を遂げるというのは刑法学上のことだけであろうか。権力がむき出しの暴力を振るうのはクーデターとか革命、あるいは治安維持法による特高の拷問、赤とか非国民呼ばわりによる差別・弾圧、植民地における強制労働や強制連行・拉致など、権力が暴力を伴う事例は数えきれない。働きかけられる側のBにとっての選択の自由と言っても、かなり巧妙に仕掛けられた働きかけにおいては難しい問題である。典型的な権力と言える国家権力そのものが警察、自衛隊においてそもそも暴力的である。法的な暴力を権力作用(公権力)と称して権力の領域に含めること、それ以外の暴力は権力から排除するというダブルスタンダード(二重基準)でいままで国家権力はやってきた。金という権力資源について、「札束で頬を叩く」という言葉は行政権力の常套手段である。原発立地、沖縄米軍基地問題などはその分かりやすい例である。その金の出どころは権力者のポケットマネーではなく、国会で承認された国家予算つまり国民の税金である。湯水のような国債発行で無制限に使うことが可能である。ハイエクは市場は自由な関係であるというが、人間関係における交換関係は自由であっても、市場が本来持つ非対称性(知識情報、価値の不平等)は深刻な問題である。掠奪に近い貿易も重商時代には存在した。主体Aが言葉によってBを動かすことは暴力から最も遠いと見なされている。ハーバーマスらはコミュニケーションによる合意形成を秩序形成の政治を見なしている。暴力は政治ではないということである。正統マルクス主義は「国家は暴力装置」を持つと考え、コミュニケーションの背後にある圧倒的な非対称や暴力を見逃さない。マルクス主義陣営でもグラムシらは言語による政治的アイデンティティ形成を強調した。このように二者間関係論に立つ限り権力と暴力の間に境界線を引くことは難しそうである。これに対してアレントは「権力とは他人と協力して行動する人間の能力に対応する」ものと考えた。公的(権力)と私的(暴力)の対比として、両者は相いれないとした。一種共同体的な空間の可能性を示したといえる。アレンとが「公と私」の関係で捉えたとしたら、シュミットは「友ー敵」関係で政治を考えた。命令や施策にしたがうことに何の動機を見出せず、命令に抵抗するような構成員が一定の割合を越えれば、組織は機能しなくなる。従って権力は実際はむき出しの暴力を振るうことはできない。命令と服従の問題は、意見によって決まる。すべては権力の裏にある暴力ではなく、暴力の裏にある権力にかかっているのであるとアレントは言う。

(つづく)
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