ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ルソー著 桑原武夫ら訳 「社会契約論」 (岩波文庫)

2016年07月01日 | 書評
徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第5回

第3編 「政治の法ー政治の形態」 (その1)

現在の我々にとって政府という言葉の意味は十分分かっているようだが、もう一度根源において考えよう。政治体には力と意志が必要である。力とは執行権のことで、意志とは立法権のことである。立法権は人民に属し、それ以外のものに属することはない。執行権は主権者としての人民には属さない。だから公共の力にとっては、それを一般意思の指導の下で動かし、国家と主権者の連絡をおこなうには適当な代理人が必要である。これが国家において政府が存在する理由である。しかし政府(日本でいえば内閣府と行政府の官僚機構)は主権者ではなく、主権者の公僕に過ぎない。まとめると、政府は臣民と主権者との間の相互の連絡のために設けられ、法律の執行と市民的及び政治的自由の維持・調整を任務とする仲介団体であるとルソーは言う。政府の構成員は「行政官」または「支配者」と呼ばれる。政府全体を統治者とも呼ぶ。その政府の首長(日本では総理大臣)は主権者の役人として、主権者から委ねられた権力を主権者の名の下に行使しているのであって、主権者はこの権力を制限し、変更し、取り戻すことができる。執行権の合法的行使を「統治」あるいは最高行政と呼び、この行政をゆだねられた人間あるいは団体を「統治者」または「行政官」と呼ぶ。政府、主権者、人民の力関係がバランスを失うと、無秩序状態になり一般意思がもはや働かなくなる。こうして国家は崩れ、専制政府か無政府状態に陥る。このバランスの中心にあるのが政府で、主権者と人民は外にある梃子の重石である。国家(官僚機構の行政府)は自分自身で存在するのに、政府(内閣)は主権者(選挙で選択)がなければ存在しえない。統治者は一般意思、法のことであり、統治者に集中された公共の力に過ぎない。もし統治者が主権者の意志よりも積極的な個別意志を持ち、この個別意志を遂行するために公共の力を使うならば、直ちに社会結合は消滅し、政治体は解体するだろう。政府あくまで従属的で、主権者の意志を超えた特定の意志を持ってはいけない。国家と主権者の関係は上に述べたとおりだが、統治者と政府も区別される。つまり統治者(行政府官僚機構)=政府(内閣府政治家団体)ではないのだ。政府が行政府の構成員に国家の力を費やすればするほど人民全体への働きかけは弱くなる。行政官が多ければ多いほどそれだけ政府は弱くなる。行政官に働く意思とは、一つは個人的利害(立身出世と良いポジション取り)、二つは行政官の共同(団体)意志(省益優先、予算分捕り合戦)、三つは人民の意志に沿った公的意志に従って、行政官は行動することである。その優先順位は残念ながら本来のあるべき順序とは正反対の、個人>団体>公益という順である。だから最も強力な政府とはただ一人の政府だというパラドックスとなる。各々の行政官はほとんど政府のなんらかの職務を委託されているが、主権者は蚊帳の外である。行政官の数がフェルト政府の処理は緩慢となり効率は激減する。国家(行政府)が大きくなるほど政府はますます収縮するであろう。主権者が行政府に送り込む市民の数によって多い順にいうと、多くの行政官を擁するのが民主政、少数の行政官であると貴族政、たった一人の行政官なら君主政、または王政という。そして世界中にはその発展段階に応じて多くの「混合政体」が生まれる。ここでルソーは直接民主政は小国の都市国家に向いており、貴族政は中くらいの郡邦侯国、大官僚群を擁した絶対君主制は大国に向いているという。次に民主政、貴族政、君主政国家、混合政体について、レビューしてゆこう。

「民主政」について、法律を作る人(立法権)が、それを執行する権利と結合している方が、効率的であるようにおもわれrるが、実はこれは危険である。なぜなら立法者は一般意思を法にするわけであるが、執行するのは個別の利害に関係するのである。立法スアが私的な見地に立つことは当然の結果として腐敗するのだ。民主政という言葉を厳密に解釈すると、多数者が少数者を統治する本当の民主政は存在しなかった。公務の度に多数の人民が集まること事実上不可能である。政府が多くの役職に別れると、最も人数の少ない役所(日本でいうと大蔵省)が最大の権力を握るようになる。民主政は人民を集めやすいこと、習俗が均一化されて処理が容易であること、人民の地位と財産が平等であること、最後に奢侈や贅沢の習俗が少なく虚栄が憂くないことが民主政の条件となる。同一の原理が普く浸透している組織された国家は容易には見出し難い。民主政または人民政治ほど、内乱や内紛残り易い政治はない。もし人民が神様なら民主政を取るだろうが、事実は完全は期し難いのである。
「貴族政」にははっきり違った精神的人格、つまり政府と主権者とがある。2つの一般意思が両立できるわけがない。行政府の内部は容易にまとまるが、人民の一般意思まで整合性ある統制は取れない。最初の政体は部族家長という貴族政であった。制度の不平等から次第に選挙制に替わった。財産と権力が世襲されるに及んで政府も世襲となった。つまり貴族政には、自然的、選挙制、世襲制の3段階がある。政体としては選挙制による貴族政が一番透明性がよく、行政官が少なくて効率的な場合がある。国家の信用は尊敬すべき元老院によって維持されるのである。最も賢明な人が多数者を支配するという秩序である。法の執行において公共の意志を聴いて回る必要性はなく、人民はそれほど成熟していなくてもやってゆける体制である。政府執行者には報酬は支払われない、格差を前提としたあるため、財産の多寡によって貴族政が腐敗することはロックが指摘したとおりである。
次に「君主制」については、統治者を法の力によって結合され、国家の執行権を委任された精神的にして集合的な人格を想定してきた。この権力がたった一人の個別人の手に統合された場合「君主」または「王」と呼ぶ。この法律の統合は同一人の中に結合されて一切の職能が譲り渡されるのである。ある意味では最も少ない労力で以て大きな働きを起させる制度と言える。だが、個別意志がこれほど大きな力で国家を害することも絶大で、かつ目的は公共の福祉ではない。君主制は大国に向いた制度である。国家の行政にあたる人の数が大きくなるほど、ますます統治者と臣民のひらきは減少し、平等に近づく。その極大が民主政で、その別の極が君主制となり、その中間に王侯、有力者、貴族政が存在する。共和政では世論が最も見識ある者を統治者に選ぶが、君主政では品性劣る人間が世襲され悪は拡大するばかりである。他人に命令するために生まれてくる人間は正義と理性に乏しく、帝王学を学ぶ能力もない。長期に一定した目的も一貫した方針も持ちえない国家となる。王の周りには金権主義者と諂い者しかいない。
次に「混合政」について見てゆこう。現実には単一形態の政府はなく、一般に時間、歴史において、かつ統治の部署においてさまざまな統治形態が見いだされる。統治者(執行者)が人民ににたいして強い場合、治めやすいように政府を分割することも可能であるが、全体として主権者への支配は弱まるものである。政府が緩慢な時には、強力な執政官(大統領のようなもの)を設けて力を集中することも可能であるが、間違いなく独裁政に移行し、人民は疎外され国家は崩壊する。民主政と独裁政はコインの裏表の関係にある。

この民主政の宿命というか、陥り易い弊害については、トクヴィル著 松村礼二訳 「アメリカのデモクラシー」 (岩波文庫)にも詳しく解説されている。トルヴィルはアメリカのデモクラシーにおいて、境遇の平等化がもたらした弊害と大衆社会を指摘した。自由は特定の社会状態を定義できるものではないが、平等は間違いなく民主的な社会と不可分の関係にある。自由がもたらす社会的混乱は明確に意識されるが、平等がもたらす災いは意外と気がつかないものだ。平等化は自らの判断のみを唯一の基準と考えるが、自らの興味とは財産と富と安逸な生活に尽きる。そこで個人主義という利己主義に埋没する。民主化は人間関係を普遍化・抽象化すると同時に希薄化させる。そして人は民主と平等の行き着く先で孤独に苛まれるのである。平等が徹底されるにつれて一人の個人は小さくなり、社会は大きくみえる。政治的に言えば、個人は弱体化し中央権力が肥大化するということになる。中央権力も平等を望み奨励するが、それは平等が画一的な支配を容易にするからである。ここに新しい専制の可能性が生まれる。小さな個人にたいして巨大な後見人(政府)が聳え、個人の意識をより小さな空間に閉じ込め、しだいに個人の行動の意欲さえ奪い取ってしまう。アメリカの民主制は個人主義を克服する手立てとして、公共事業への参加によって個人の世界から出てくる機会を与えたという。民主主義は平等を徹底させて、矮小化した民衆を画一的な個人主義に埋没させ、その管理しやすい民衆を支配する政府という中央集権制官僚主義の専制を招くというものである。

(つづく)