ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 桐野高明著  「医療の選択」(岩波新書 2014年7月)

2015年11月17日 | 書評
日本の医療の将来を選択するための論点整理  第4回

第1章 二つの選択 (その2)

次に英国の医療制度の改革を見てゆこう。第2次世界大戦後の1948年、国民保健サービスNHSを発足させた。チャーチル首相のもとでベバリッジが1942年に発表した報告は戦後の社会保障政策を設計した。アトリー内閣のベバン保健相は「無料で一定レベルの医療を受ける仕組み」を訴え、医師の反対と妥協を受けて1948年にNHSを立ち上げた。このNHSは世界に影響を与え、日本やカナダでも医療化改革が進んだ。日本の皆保険制度は1961年に実現するが、最初は医師の猛反対を受けたものである。ところが1970年まで英国では充実した社会保障と基幹産業の国有化などの政策でいわゆる「英国病」が蔓延し経済は行き詰まった。そこで登場したのは鉄の女サッチャーである。国有企業を民営化し労働組合を潰し経済を活性化したといわれるが、医療制度改革は大失敗であった。サッチャー首相は1990年「NHS・コミュニティーケア法」により、国民はNHSを強く支持するなかNHS改革を始めた。その手法は民間企業のマネージメント手法と競争原理の導入であった。病院を独立採算制とし、医療費もこれまでの公定価格制から、病院が設定できるようにした。医療費を抑制しつつ病院の生き残り競争を激化した。経済的効率は医療の質向上に必ずしも結びつかない医療の特殊性を無視し、競争を激化すれば医療崩壊につながることの典型的な悪例となった。「待機患者問題」が深刻化し自由なアクセスができないことへの不満が爆発した。次のブレア―政権はNHS改革に乗り出し、医療費の急速な増額、医師養成の急速な増員などの修復を行った。未だ英国の医療制度は回復したとは言えないが、日本の医療とイギリスの医療制度の違いは、英国では税金で賄われる無料の医療であること、そして患者は綜合医(一般医)GP制度のなかにあることである。日本の医療が学ぶべき点がありそうである。医療そのものに対する評価ではWHOは日本の医療は最高レベルであるといっている。医療制度のみならず、現場の治療成績も高いレベルにある。ところが日本国民の医療への満足度アンケートではいつも満足度は15%ぐらいで低迷している。各国民の医療への満足度は各国の生活満足度によく一致する。日本人は現状の生活に満足しない国民性であるようだ。医療制度の比較でよく用いられるものさしとは、①コスト(医療費)、②アクセス(医療機関)、③クオリティ(医療レベル)であるが、日本の医療は優れた面の多い制度にあるといえる。アメリカの医療制度は「医療は各個人が自分の責任において購入するサービス」という考えに基づいている。世界でずば抜けて医療費が高いし、必ずしもだれでもアクセスできるわけではない。だからアメリカの制度は間違っているともいえない。なぜなら米国は優れた医学教育、最高峰の研究開発能力、医薬品や医療機器は米国製が多い。これは米国型の新自由主義的医療制度は高額の医療費に支えられて、世界中の優秀な研究者を雇用することができ、新しい治療法や薬の開発に多額の研究費支出を可能としている。米国の大リーグは高額の年俸(3年で30億―50億円以上)を払うから優秀な選手が世界中から集まるのである。そういう面では優れた競争型システムであるが、際限なく競争が進行すると、コストが下がるのではなく逆にコストは高くなってゆく。世界で最も多額の医療費を使いながら、格差のある大きな医療体制のために、米国の保健医療は成功しているとは言えない。

システムが巨大化し資本が大きくかつ独占的になるとサービスの購入者である患者の選択が働かなくなってしまうのである。ヘルツリンガーは「米国医療崩壊の構図」において「消費者が動かす医療を作りあげることが重要で、かならず消費者のニーズに合う最適で低価格のサービスが提供されるはずだ」と述べている。巨大な資本の利潤追求の前で消費者が全く無視されているのである。自由と競争の原理は、新しい治療技術の開発には有効であるが、人間を対象とするサービスでは医療の質が低下し人間を疎外するようになる。日本では医療の株式会社制度が禁じられているのは、そこに歯止めをかけるためである。一定の成長を遂げたOECDやG7のような国において、社会福祉の充実が経済成長を阻害するというのは間違いである。G7の中でGDPに対する総医療費の比率は以外にも日本が一番低いのである。経済成長の要因は全く別の因子で決定されるので、社会福祉の充実で経済成長の足を引っ張るという証拠はない。むしろ医療費の増大による波及効果は高いし、社会の安定要因となる。豊かな国ではすべての人々に必要な医療を提供することを目指している。イギリス、カナダ、北欧のような税による医療費負担を制度化している国々、ドイツ、フランス、日本のように国民皆保険を実現している国々は、それぞれの伝統と文化と歴史と国民性にマッチする適当な制度を採用している。最後に米国の民営化のすさまじさを描いた、堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年)では完全民営自治体サンディ・スプリングスという金持ちだけの自治体が出現したという。富裕層だけの独立自治体で、そうでない人々から教育、医療、交通、福祉の権利を奪い取っている。これでは公共や政府という概念さえ成立しなくなる。まるで西部劇にでてくる、お雇い用心棒によって警察代用とし、無法者を吊るし首にする、成功した農園主のエスタブリッシュメントが自治のすべてをつかさどるという様相ではないだろうか。きびしい時代に生きた人々の精神ではあるが、人類は何のために社会と国を生み出したのかを考えなければならない。

(つづく)